≪TU編 02話 -さよならは言わない- ≫

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≪TU編 02話 -さよならは言わない- ≫

 緊急事態宣言につき、しばらく休業いたします。  戸石は、マジックでそう書かれた張り紙を店の入り口に貼った。 「これから、どうなっちまうんだろうな」  半ば独り言のようにつぶやく。  繁華街の方を見ると、いつもはネオンの明かりが賑やかな駅前もすっかり暗く人の気配が感じられない。  夜はまだこれからの時間だというのに。  こんなことは初めてだった。  世間を騒がす新型コロナと通称される感染症。  マスクも消毒液も、それまで当たり前のように買えていたものが買えなくなった。  物が消え、人が消え、そして、光が消えた。 「あれよあれよ。って感じね」  テーブル席でスマホを見ている、ヒメ。  あきらはカウンターの席を台拭きで拭いていた。 「ひとまずゴールデンウイークまでなんでしょ? それまで我慢我慢」 「まあ国から金もらえるから、大人しく休みはするけどさ」 「一人十万円だっけ」 「三十万じゃなかったか?」 「……どうせなら、オトコも国が支給してくれればいいのに」  ヒメがぼそりとつぶやく。 「お前は親の前でなんてことクチにするんだ!」  思わず声を上げる戸石と、噴き出す声を押し殺して笑うあきら。 「このワタシの男を見る目を信用できんの? 国が選んだ男と私が選んだ男。どっちを信用するの」  どっかりと構えてヒメは勝ち誇る。  あきらは腹を抑えて、あっはっはと笑う。勘弁して。とキッチンも叩く。  戸石は頭を抱えた。頭頂部の髪触りが昨日より薄く感じられた。 「ほら、悩まない悩まない。そんな顔してるとまた髪の毛抜けるよー」  ヒメはケラケラと笑う。 「もういい、俺は飲む! 飲んでイヤなことは全部忘れる!」  戸石はドカドカと大足を踏んで奥に入っていく。  言い過ぎたかな?とヒメは戸石の背中に視線を送る。  ゴンッとヒメの頭にお盆が降ってきた。  いたっ、と声を上げて振り向くと、あきらがお盆を片手に立っていた。 「言い過ぎよ」 「だってしょーがないじゃん」 「人が気にしてることは言っちゃダメでしょ」 「私だって好きで変なオトコにひっかかってるわけじゃないもん」  フンっ、とヒメはそっぽを向く。  ぽん、とあきらはお盆でヒメの頭を撫でて、キッチンに戻った。 「あとは百万円だっけ? それももらえるのよね」  あきらは拭き終わった台拭きを水洗いし、広げて干した。 「百万円かー。何に使おうかな」 「あんたがもらうんじゃないでしょ」 「いいじゃん、少しはあたしにも分け前ちょうだいよ」  戸石は缶ビールとお菓子のつまみをもって降りてきた。 「国のやることだから、いつもらえるんだか。どうせこの緊急なんちゃらが終わってから役所に行って、書類書いてくださいってやつだろ」  テーブルにつき、プシュッと缶ビールを開ける。 「あっ、自分だけずるい」 「お前、まだ飲めないだろ」 「ちょっとおとーさん、ヒメはこの前免許取ったじゃない」 「そうだっけ?」 「そうよ、私はもう立派な大人」  ヒメはどうだと言わんばかりに胸を張る。  ヒメはあきらに似たのか、胸も立派ではあるものの、自分にも似てしまったのか、おなかも立派だった。 「ほれ」  自分が口にした缶ビールを、飲め。とヒメに差し出す。 「やだよ、ビールは。そんな苦いもん、よく飲めるよね。おかーさん、レモンサワーつくっていい?」  ヒメは厨房に入り、いそいそとレモンサワーを作り出す。  予想通りの反応に、戸石は缶ビールを自分の口元に戻す。  全然、飲んでる気はしない。しかし飲まずにはいられない。  緊急事態宣言に伴う一か月間の休業要請。  戸石は昭和生まれ。平成、令和と生きてきて、今までこんなことはありえなかった。  確かに今までいろんなことがあった。  しかし、これでは映画でしか知らない戦時中の話だ。  それが今、現実で起こっている。今、こうしていても夢の中で生きているようだった。  つまみ袋の中に入ってるピーナッツの小袋を開け、一気に口の中に放り込む。 「かーっ、うめー」  ヒメは厨房で立ったまま、レモンサワーを飲み干していた。 「またあんたは行儀悪い」 「よし、もう一杯。今日は飲むぞー」  たしなめる妻と聞き分けのない娘。  わが娘ながら頭がからっぽだった。 「いいから、わたしの分も早く作りなさいよ」  ところが妻も店の冷蔵庫を開けて、食材を物色中。 「え、なんか作るの」 「だって一か月休業でしょ。捨てるぐらいなら食べちゃいましょ。いいよね、おとーさん」 「やったー」  問いかけに対する返事は求められていなかった。  厨房で、仲睦まじき、妻と娘。  戸石は口の中のピーナッツをゴリゴリとかみつぶしながら笑うしかなかった。
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