≪TU編 02話 -さよならは言わない- ≫

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 緊急事態宣言発令に伴い、当店は5月7日まで休業いたします。  臼井は店舗入り口のガラス戸に、会社からファックスで送られてきた張り紙を貼った。  入口を開けて、店舗内へ。  カランカランと誰もいない店舗に、本来ならば客の入店を告げるべき鐘の音だけが鳴り響く。  バックルームからはまだゴウンゴウンと洗濯機と乾燥機の稼働している音が響いている。  時刻はもう12時を回り、新しい日が到来していた。  再度、店舗を見回しても自分ひとり。  本来ならば客が座るべきソファーも独り占め。  天井を見上げる。  築三十年以上は経とうかという、年季の入ったビル。  窓を見るとわずかに開いていた。 「まじかよ」  昼間働いていたセラピストが、閉め切るのを忘れて帰ったようだった。  やれやれと臼井は立ち上がり、窓をしっかりと閉め切った。  外は真っ暗だった。  窓からは駅前の光景が見えるのだが、ほんの一週間前まではまだ人もそれなりに行き交っており、駅前の繁華街の証明が駅間を明るく照らしていた。  それらが今では全て消え、街頭の明かりだけが存在していた。  店の看板の明かりも消えて、いつもは見えている駅前も今は暗闇。  カーテンを下ろす。そして、空いているベッドに横になる。  天井を見上げる。  何も見えない。  左手を伸ばす。  何もつかめない。  右足を伸ばす。  そのまま制止する。  背中からお尻、ふとももにかけての筋肉が伸びて、気持ちがよい。  身体を半身にして、身体をよじる。  ポキポキと背中から音がする。  さらによじって身体をぐーんと伸ばす。  1、2、3。 「1から2で押して、2から3で引くネ」  耳に馴染んだ女性の言葉が脳裏に響く。  パーマをかけた黒い髪で、ややおぼつかない日本語。  臼井は1から2で身体を伸ばして、2から3にかけてゆっくり戻していく。  1……2……3……。  1……2……3……。  全身の筋肉をベッドの上で伸ばしていく。  横向き、仰向け、うつ伏せで。 「ゆっくりが大事。ゆっくりが気持ちいいネ」  ゆっくり触り、ゆっくり押して、ゆっくり離していく。  1……、2……、3……。  1……、2……、3……。  教わったとおりのリズム。そこからさらにゆっくりと。  全身をあらかた伸ばし切り、臼井は大きく息を吐く。  そして改めてベッドの上で大の字になる。  マスクはしていない。  一応カウンターの上に置いてはいるが、こんな状態で客はもちろん、人など来るはずもない。  改めて、大きく深呼吸。  マスクをしていなくても息苦しさがある。  大きくため息。 「これから、どうなっちまうんだろうな」  独り、ぽつんとつぶやき、目をとじる。 「そういうこともある。仕方ないネ」  はっきりと耳に響いてきた女性の言葉に、臼井はハハッと声を出して笑った。 「ま、なるようにしかならないよな」  臼井は胸いっぱいに詰まったものを、目いっぱい吐き出すことができた。  夜は長い。  朝が来て、電車で帰れるようになるにはまだまだ時間が必要だった。  緊急事態宣言が明けるまでの長い休業期間。  4月7日から5月8日までの一か月。  目が覚めたら、いつもの日常が戻っている。  それは夢であってほしい、夢。  なにもかもが夢で、これからも夢であればどんなにいいのだろうか。  今はもう違う、明日。  想像できない、明日。  これまで経験のしたことのない、明日。  ……平穏で楽しかった、昨日。  臼井をそんな今はもう訪れない夢を夢見ながら、ゆっくりとまぶたを下ろした。  ……臼井は目を開けた。  身体を起こし、店内の時計を見る。  まだ三時だった。  店の中は静寂。  外も静まり返っていることから、やはり今は現実の地続きでしかない事がわかる。  再びベッドに身体を倒す。 「どんな夢見てたんだっけな」  夢は見れなかった。  客用のベッドに寝たことは覚えている。  ストレッチをしたことも覚えている。  耳馴染んだ……、忘れられない女性の声も、聞こえてきていた。 「それは本当に夢だろ」  臼井は身体を起こす。 「やれやれ、仕方ないネ。っと」  スタッフルームに行き、まずは乾燥機を開け、中に詰まっているジャージをカゴに取り出し、ベッドの上に広げる。  続いて、洗濯機の中を開け、洗濯を終えた足つぼ用のタオルが入っていることを確認する。  時間を改めて確認する。 「始発まで扇風機にあてときゃ乾くかな」  いったん洗濯済みのタオルをカゴに取り出し、一枚一枚広げて干していく。 「お、そうだ」  臼井は自分のバッグからスマホを取り出し、音楽アプリを起動する。  いつものリストに出ている曲の再生ボタンを押そうとしたところで、ふと指を止めた。  検索欄に『台湾』と打ち込むと、台湾で流れているであろう曲が出てくる。  ざっと流し見をして、適当な曲目の再生ボタンを押した。  普段、自分が聞いている曲目とは全く違う曲調が新鮮に聞こえる。 「……懐かしいな」  その言葉も、彼自身にとっては真実だった。  そんな新鮮で懐かしい音楽に心地よさを感じながら、臼井は溜まっていた洗濯物の処理を行っていく。  足つぼ用のタオルを干し終え扇風機の風に当てて、次はベッドの上に広げた着替え用のジャージを畳んで更衣室のタンスに入れていく。  普段はシワにならないよう、ベッドの上に広げるだけにして、朝番のセラピストに畳んでもらう事にしているのだが、今回はもうそういう訳にはいかない。  もっとも、今あるものに関しては、昨今の世間の在り様から量は普段の半分にも満たない。  国からの緊急事態宣言に伴う外出自粛要請。  みんな、それは話半分としか思っていなかった。  3月の初めに学校が休校になったとしても、それは想像できておらず、繁華街にもまだ人の姿はあった。  それが一変したのは、普段テレビで見かけている有名人が死亡したというニュースが流れてからだ。  まさかが現実となった。  駅前の繁華街からこつぜんと人の姿が消えた。  そして、緊急事態宣言。  もう今までの賑わいは過去のものとなった。  明らかに今までとは違う時代の訪れを告げていた。  ただ、それがわかっていても今の自分にとってやるべきことは、洗濯物を畳むこと。 「食う。寝る。遊ぶ」  臼井はいつ何時も変わることは無いであろう、人の営みを口にした。  畳んだジャージをタンスにしまい終える。 「時間はできても、遊ぶ金がないんだよなぁ」  背中を壁にあずけて、どうしたものか、と考え込む。  プルルル。と店の電話が鳴り響く。 「誰だよ」  突然のコール音に驚きつつ、臼井は電話に出る。 「はい、お電話ありがとうござい……」 「タクミさーん……」  マイだった。
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