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中村は僕から十分程遅れて自分の席に戻ってきた。
見るからに泣いた後のように瞳は赤く、鼻まで真っ赤にさせていた。
中村のその様子にズキリと胸が痛んだ。
今までの付き合いから分かるように中村はそこまで悪い人間ではない。
僕に対する言動でつい忘れがちになるが、どちらかというと不器用で真面目だ。
今日の商談だってそんな中村だからこそこぎつけられた話だった。
今回の事は中村の不器用さが悪い方に出てしまっただけだったのかもしれない。
ああ……やっぱり僕はやりすぎてしまったんだ。
あんなに怒る事なんてなかったのに、僕の心の弱さが中村を傷つけてしまった――。
「――ごめん……中む……」
謝ろうとする僕の言葉を遮るようにして中村は言った。
「小津さん、俺が色々とダメだったんです。でも俺、根性だけはあるのでへこたれたりしません。いつか成長して……素敵な恋ってやつをしたいです。小津さんにはこれからも俺が間違った事をしたら叱って下さい。そして見守っていて下さい。あれは俺への指導だと思うから――。だから謝らないで下さい。そしていつか……いえ、これは今はいいです」
そう言ってまっすぐに僕の事をみつめる中村の姿からは強い決意のようなものが感じられた。
新入社員で右も左も分からずマイマイしていた中村が、僕の元を離れ独り立ちをした時も未来を見つめる瞳に力強さを感じた。
その時の僕はそれを誇らしく思うと同時に自分だけが取り残されたようで少しだけ寂しいと思ってしまっていた。今日も同じ。
今では聞き慣れてしまっていたあのくだけた口調じゃない事すらも寂しい。
人の成長というのは喜ばしいと思うのに、同時に自分のダメさ加減も思い知らされる。
中村はそんな事を思う僕に気づいたのか、「これからもよろしくっす」とわざといつものようにくだけた口調に戻してニカっと笑った。
だから僕も『いつも』に戻ろう。僕たち先輩後輩としてのいつもに。
そして――。
「――じゃあ、まずもう一度顔を洗っておいで。それから今日の事について話を詰めよう」
「はいっす!」
元気よく返事をして席を立つ中村を見送る。
――そして、僕も前へ進むんだ。
後輩の成長を羨ましがるだけではなく、力に変えて前へと進む。
かけるつもりはなかったけれど、中村との一件で考えを改めた。
思い切って彼に連絡を取って前に進もうと思ったのだ。
僕はおじさんである前に小津 美咲なのだ。
結果なんて何でもいい。彼と会って僕の気持ちを伝えよう。
おじさんである事で色々な事に目を瞑って諦めて、そんな事しなくてよかったんだ。いや、してはいけなかった。
僕は自身を『おじさん』という枠にはめて自分から自由を捨ててきた。
おじさんじゃなかった頃も何かしらに縛られていた。
可愛くないだとか背が低いだとか――。
そんなだから僕はお姫さまになれなかったんだ。
そういうの全部ぜーんぶ止めると決めてしまえば嘘みたいに心が軽やかになって、少しだけキラキラと世界が輝いた気がした。
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