江崎拓巳side

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江崎拓巳side

 名前しか知らない本屋の店員さん。きっかけなんて些細なこと。それでも、今の僕にとっては憧れの人。  今日は勇気を出して話しかけてみようと、学校帰りに本屋へと立ち寄る。  別に買いたい本があるわけでもないのに、僕は店内に入ると彼の姿を探していた。  とにかく雨の日のお礼を伝えよう……  だけど、どれだけ待っても彼の姿を見つけられなくて、僕は諦めて帰ろうと自転車に跨がり、ペダルに片足を乗せて漕ぎだそうとした瞬間……、 「ちょっと待って」  背後から聞こえてきた声に胸が高鳴った。  自転車から降りて振り返ると、そこには紺色のエプロンをしていない彼が立っていて、僕は軽く会釈をする。 「今、帰り?」 「はい……」 「時間あるかな?」 「大丈夫です」 「じゃあ、ちょっと付き合ってもらえると嬉しいんだけど……いい?」 「はい」  僕は自転車を押しながら、彼の隣に並んで歩く。  どう見たって僕たちの関係は家庭教師と生徒くらいにしか思われないだろう。  それでも、こんな風に並んで歩いていることが嬉しかった。  近くにあるカフェへ入った僕たちは向かい合わせに座っていて、彼の買ってきてくれたカフェオレをフーフーしながら少しずつ飲んでいく。  彼は向かいの席でコーヒーを飲んでいた。 「あのさ、突然で驚くかもしれないんだけど……。これなんだ、俺が本屋で働いている理由」 「えっ……?」  目の前に差し出されたのは、一冊の本だった。「僕が本屋で働く理由」というタイトルの小説で、中にはびっちりと文字が並んでいる。僕には苦手分野だけど、これを読めば彼のことを少しでも理解できるのかなって思った。 「この本には、いくつものエピソードが書かれているんだけど、その中で忘れられないものがあって……。俺にも、誰かの宝物を探す手伝いができたらいいなって思ったんだ」 「宝物……?」 「そう。思い入れのある大切な本を一緒に見つけ出せる。そんな仕事がしたいって。本に影響されて本屋で働くっていうのも、何だかカッコ悪くて……」 「そんなこと……、すごく素敵だと思います」 「ありがとう。君になら話せると思ったんだ。本当の俺を知ってもらいたいから……」  そう言って、少し恥ずかしそうに鼻の頭を掻いている。  この本を読みたいと思った僕は、 「あの……、この本、借りてもいいですか?」 「もちろん。返すのはいつでもいいから」 「ありがとうございます」  無くさないようにすぐ鞄の中へしまうと、僕は彼へと視線を戻す。  やっぱり、僕は彼のことをもっと、もっと知りたいと思っている。 「今日は、部活……」 「休みだったんです。三枝さんは?」 「俺も休みだったんだ。久々に本の整理をしていたらそれを見つけて、あの雨の日のことを思い出したら、どうしても君に会いたいって思った」 「あっ……、本が好きだからっていう……」 「あれね、正直どう答えていいのかわからなかった……。だけど、思い出したんだ。本を読んだ時に感じたこと。俺が本屋で働きたいって思った時のことをね」 「それを伝えに来てくれたんですね……」 「うん……何か突然すぎたけど……」  僕は首を横に振る。 「すごく嬉しかったです」 「良かった……」  ほんの些細なこと。ちょっとした瞬間でもいい。こうして僕のことを思い出して会いたいと思ってくれたことが嬉しかった。  カフェを後にした僕たちは、少しだけ並んで歩くと「じゃあ、また」とお互いに別々の方向へと帰っていく。  夕日の沈みかけてる空を見上げて、僕はペダルを漕ぐのを速めた。  帰ってから夕食を食べて、お風呂も済ませると、早々にベッドへ潜り込み、鞄の中から本を取り出す。  そして、読み始めた。  その中に出てくる本屋さんにまつわるエピソード。  たくさんの出来事の中で、とても大切な人との出会いが描かれていて、彼が話してくれたように、宝物を一緒に探しだす物語だった。  幼い頃の記憶……  お母さんが読んでくれた絵本……  うろ覚えの中でお母さんの影を思い浮かべながら何軒もの本屋を訪れたけれど見つからなかった絵本。  もう見つからないかもしれないと最後だと心に決めた本屋で運命は訪れる。  わかっているのは、たった一言だけ…。 「わたしの いとしいこ」  あとは、お母さんが小さな赤ちゃんを高い高いしているイラストが朧気にあるだけ……。  本当に大切な思い出を思い出すように説明する女の人に、ちゃんと耳を傾けて真剣に話を聞いていた店員さんは、一緒に絵本コーナーへ行き、思い当たる絵本を手にしては確認する。  何度も何度も首を横に振られながらも、諦めずに探していると、一冊の本を見た瞬間に間違いないと手に取って女の人へ差し出した。 「あっ、これです。これをずっと探していたんです。お母さんとの思い出の絵本……」  抱きしめるように本を両手で持ちながら、ゆっくりと瞳を閉じて涙を流した女の人に、その本屋さんは恋をした。  きっと、このお話が彼が本屋で働きたいと思ったきっかけだと、僕は思った。  会いたい……  会ってちゃんと今日伝えられなかったお礼を伝えたい……  自分の気持ちも……
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