明日、散る花

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「眠れないの?」 何度かの寝返りをした時、隣に寝ていた朋輩が声をかけてきた。 青白い闇の中、あたしはそっと起き上がって、声がした方を見た。 相手も身を起こし、あたしの顔を覗き込んでいる。 同じ部屋で眠る他の女たちはいつものように疲れ切って泥のように眠っている。 継ぎ接ぎだらけの布団の海の中、あたしと、朋輩の瑞穂だけが夜に浮かんでいた。 静かだ。 と、思ったら誰かの、寝言のようなうめき声のような、ぐえっという音が聞こえて二人で驚いた。 「ちょっと外に出よう」 瑞穂はそう言うと、立ち上がって静かに障子を開け、廊下に出た。 あたしも寝ている女たちを踏まないように気をつけながら瑞穂に続く。 廊下に出ると、月が出ているのかお互いの顔がよく見えた。 「明日はいよいよ水揚げだね」 瑞穂は続けて、緊張してる?と訊いてきた。 「別に。」 あたしは強がりを言う。 「嘘つき。眠れなかった癖に」 瑞穂はそう言うと、少し笑ってあたしの手を握ってきた。 あたしは明日、知らない男に初めて抱かれる。 名実ともに、女郎として生きていく事になるのだ。 明日「我が身に何が起こるか」なんて、廓で暮らしていたら、嫌というほど知っている。 本当なら、嫁に行くまで知らないはずのこと。 「そりゃ、緊張するよね」 瑞穂はまだ、水揚げ前の新造だ。 あたしも今日までは同じだった。しかし、明日からは新しい名前を貰い、私たちは違う立場になる。 「どんな人だろう」 「大店のご隠居様って聞いてる」 「優しい人かな」 「分かんない」 瑞穂がその場にしゃがんだので、あたしも隣に座った。 静かだ。 あたしや瑞穂を始め、ここに寝ている女たちみんな、親から売られるなどして、客を取ってその借金を返している。 凶作の年に東北の村から出てきたあたしも、家族を食べさせるために働かなければならないのだ。 最初はこの環境に耐えられず、何度も逃げようと試みた。そのたびに酷い折檻を受け、だんだんと心までこの世界に沈められたのだ。 「こわい?」 沈黙の後、瑞穂が問いかけてきた。 怖い、と言えば怖い。 何度か間違えて姐さん達が「客を取っている」所に出くわした事がある。 男は怖い。 そう思った。 が、その感覚も麻痺してしまっていた。 (あたしもいつか、男に「食われて」ああなるのだ) 覚悟とも言えないような達観したような気持ち。 「怖くない。怖くはないよ。」 そう答えると、瑞穂は手をしっかりと握ってきた。その手は温かかった。 「強いね。あたしは怖い。」 あたしとあまり年が変わらない瑞穂も、いつ水揚げの日を告げられるか分からないのだ。 あたしと違って儚げな、小さくて可愛らしい瑞穂は、その日が来るのを本当に怖れているようだった。 「大丈夫だよ。」 あたしはなんの根拠もなく呟いた。 大丈夫。 それが誰に向けたものなのか分からない。 自分を鼓舞するための言葉なのか、 瑞穂を励ますための言葉なのか。 「大丈夫。」 もう一度、あたしは呟いた。 大丈夫なんかじゃない。 本当は逃げ出してしまいたい。 本当は怖くて怖くてたまらない。 でも、誰も助けてはくれないのだ。 だから。 大丈夫と、心のなかで繰り返すのだ。 「そろそろ寝よう。」 そう言って、何かを振り切るようにあたしは立ち上がった。 瑞穂も黙って立ち上がる。 あたしたちは姐さんたちを起こさないようにこっそりと布団に戻ると、向かい合わせに寝て目を閉じた。 月が出ている、静かな夜だった。
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