序章 橋は初めから軋んでいた。

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序章 橋は初めから軋んでいた。

『パラオ共和国』 1994年に独立を果たした小国の名前を知っている人は少ないと思う。 さらに言えば、第1次世界大戦後から太平洋戦争が終了するまで、日本の信託統治領であった事実はさらに知られてはいないだろう。 日本と時差がない、この小さな島国が今回の話の舞台となる。 パラオ共和国の人達にとって橋は文字通り命綱だ。 首都機能を有する人口最大のコロール島と面積最大で国際空港を有するバベルダオブ島の間は約400メートルの海峡で隔てられており、2島間を結ぶ渡し船は幾度も不幸な事故を起こした。 『橋が掛かっていれば』 パラオの住民は船が出せないほど荒れた海を見る度に、恨めし気にそう呟いた。いつでも車両が通行でき、電気、水道、電話などのライフラインも備えた橋を心から待ち望んでいた。 アメリカ統治下だった1977年に某国の企業が手掛けた橋は初めから良い評判が無かった。 半年も経たないうちに橋桁が2メートルも沈下したり、重量制限が12トンから10トンに減らされたりと、いつ崩落が起きてもおかしく無かった。 幾度も補修工事が実施されたが、状況が改善されることは無かった。 もし海に落ちた場合、水圧によりドア開かなくなり閉じ込められてしまうかも。 そんな思いから、橋を通るほとんどの車両が窓を全開にしていた。 1996年9月26日 17時35分。 とある不幸な青年2人も橋を渡る際に車窓を全開にしていた。 ちょうど橋の中央付近を走行中、土砂崩れのような爆音が一帯を包み込んだ。 海の上で土砂崩れだって?2人はそんなはずはないと笑いあった。そして次の瞬間アクセルを全開に踏み込んだ。 崩れる土砂が無いのなら、いったい何が崩れると言うのか。 2人とも理解が出来ていた。 聞いた事もない爆音は、橋の断末魔だった。 橋が崩壊していっている。生き残るには橋を渡りきるしか無かった。 しかし彼らは不運だった。目の前で自分たちが進むべき橋桁がすっぽりと落ちた。 何かの冗談みたいに橋桁が無くなったので、今度はブレーキを床が抜ける程踏んだ。 ブレーキは間に合わなかった。2人の乗った自動車は放物線を描き20メートルほど自由落下していった。そしてコンクリートの橋桁の残骸に激突した。すぐに車両は炎上して黒煙を巻上げた。 同時刻。 パラオ大統領府の主、クニオ ナカムラ大統領は本人の執務室にいた。室内が急に真っ暗になってもそう驚きはしなかった。先進国はないパラオの発電インフラは決して万全とは言えない。 もうすぐ日暮れだという時間帯に停電になることは珍しいことではなかったからだ。 地震が起こった訳でもない。台風が接近している訳でもない。 いつもの事と思いながら、慣れた手つきでランプに火を灯した。机上のランプ台に置くと執務を再開した。 年度の予算、外交問題。大統領の机には大量の書類が積まれていた。 生まれたばかりのこの国を、少しでもいい国にすること。国民が少しでも安心して暮らして行けるように。 1枚の書類であっても、疎かに出来ない。大統領令はそのまま国民の暮らしに直結する。 一心に筆を動かしていたが、ふと違和を覚えた。少なからず時間が経っているにも関わらず一向に電気が復旧しないのだ。 急に不安になり、執務室から出て外の様子を確かめようとした時だった。 大統領補佐官のケリーが飛び込んで来た。 普段は沈着冷静な彼が慌てているという事実に驚くが、それだけ重大な事態が発生したことを予感させた。 そしてケリーの口から出た言葉は、ナカムラ大統領の予想をはるかに上回った。 「は、橋が崩壊しました」 目の前が真っ白になる思いだった。 どの橋かは聞くまでもない。 交通と生活のインフラを担いつつ、いつ崩壊してもおかしくないと噂された橋、KBブリッジである事は疑いようが無い。 それは生まれたばかりのパラオにとって初めての大災害であり、国の存続を揺るがすのに十分な厄災であった。 大統領府内の緊急通話からKBブリッジの建設に携わった企業に電話をかけた。 その通話は虚しく、不通音を繰り返すだけだった。仕方なく、某国の大統領府に連絡した。 『その企業は既に倒産した。政府として一企業の経済活動に責任をとる必要はない』 冷たく言い放たれた言葉にナカムラは怒りで失神しそうになった。 自我を保つため受話器を叩きつけたナカムラは、次にアメリカ国務省に電話をかけた。 一時間ほど待たされた後返信が届いたが、それはナカムラを酷く落胆させるものだった。 『重大な事態に心を痛めている。救援が必要なら、友好条約に従い救援を出そう。ただ橋については、独立国である某国と貴国の二国間で協議すべき内容であり、我国は一切関知しない』 ナカムラは力無く椅子に身を沈めた。 アメリカですらパラオを助けるつもりはないらしい。 形ばかりの援助要請をしたが、その声も虚空に消えて行ったのは火を見るより明らかだった。 他の国、周辺国に救援を頼もうか。 その策は頭を掠めたが、すぐに打ち消した。 弱肉強食の国際社会において、独立を果たしたばかりの小国は恰好の餌食でしかない。 100年以上の年月そして数万人、数十万人の血と涙を飲み込んでやっと得た独立。 その独立を手放す事など出来はしなかった。 ただこのまま国家として機能不全状態のままでも、そうたいした違いにならない。 弱みに浸けこんでくる国家は必ず存在する。 いっそ売国奴という汚名を甘んじて外国の援助を受け入れるべきか。理想より今目の前の国民の生命を守る事が大統領としての職務であるはず。海岸に打ち寄せる波のように打ち消しても、打ち消してもその悪魔の提案が頭をよぎる。 いや既に、思考の殆どを『その提案』が占めていた 意を決して、電話に手を伸ばした時だった。 「困ったら、俺を頼れよ」 古い友人の笑顔がフラッシュバックする。 それこそ、『まさか』だ。 古い友人の笑顔に泥を投げつけたのは紛れもなく自分だ。 自分のかつての裏切りを自分自身許せない。その裏切りが今の状況を迎えているのが、何よりの因果応報である事は分かっている。 その結果の大惨事の援助を望むのは、明らかに非常識だった。 『非常識』 大統領の思考にその単語が引っかかった。 あの国ほど『非常識』でクレイジーを体現している国はない。 弱者から奪うのは国際常識。 その常識に決して纏ろう国ではない。 罪を問われたら、いくらでも自らの腹に刃を突き立てよう。それがあの国の流儀であった。 国民を、そして祖国を守るために自分1人の命で済むならなんと安い取り引きであろうか。 ナカムラは葉巻に火を付け、紫煙を燻らせた。 なるほど、あの偉大な先人達はこんな心境だったのか。 長年の疑問が融解した。 葉巻を灰皿に揉み消した時、ナカムラの目に迷いは無かった。 受話器を取ると、ある番号をダイヤルする。 081 03 ・・・ その国際電話は海を越え、東京に掛かった。 -序章 了−
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