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早朝、一台の荷馬車が都城南東側の青蓬門に向かっている。見た所、商人のような成りの男が馬を操り、積荷には覆いがかけられている。開門と同時に羅城を抜けようということなのだろう。
荷馬車が青蓬門に到着した。辺りは白々と明け始めている。
日の出と同時に門扉が開かれるはずが、未だに重い扉は閉ざされたままだ。門兵はいるのに一向に動く気配がない。
「まだ開きませんか。荷を届けるのが遅れると困るんですよ」
男が門兵に文句を言う。
門兵は応える様子がない。更に言い募ろうとした時。
「荷を届けられては困る。門を開けるわけにはいかない」
男の後ろから声がかかった。
振り向くと、偉丈夫が兵士を従えて立っていた。縹公と羽林軍だ。
「馬広然だな。ここから出すわけにはいかない。その荷を渡してもらおうか」
よく通る声で縹公が告げる。
荀氏の屋敷の火事で焼け跡から見つかった遺体は、初め、古利であると推測されたが、実は祝賀の儀の夜に古利と共にいなくなった大理寺の若者であった。若者の親指の形には特徴があり、家族の確認によりそれと確定された。
古利は生きている。
荀氏の屋敷に匿われていたが、屋敷の火事に乗じて抜け出させたのだろう。古利が死んだと見せかけるために、大理寺の若者を身代わりにしたのだ。
その古利を、広然が夜明けとともに蒼国から連れ出そうとしているところだろう。
荷馬車の上で広然は不敵に笑った。
「申し訳ありませんが、渡す訳には行きません。この荷を主が待っておりますので」
そして荷の覆いを捲り上げると、何かを無造作にずるずると引っ張り上げた。
それは手を後ろに縛られた珠李だった。薬を盛られているのか、ぐったりしている。広然は剣を取り出し、珠李の首元に当てた。
「この女官の命が惜しかったら、大人しくここを通してください」
「珠李!」
縹公の後方に控えていた英賢が声をあげた。
その声が届いたのか、されるがままになっていた珠李が、ぼんやりと目を開けた。
「……英賢様……」
英賢の姿を見つけたようだ。弱々しく呟く。
「おや、碧公もいましたか。丁度良い。大事な部下ですよ。まさか見捨てることはしませんよね」
広然がふてぶてしく言う。
英賢はぐったりしている珠李を見つめる。
縹公が声をかけると、英賢は俯き、申し訳ありません、と小さく言った。
縹公は、致し方ないな、と呟くと、門兵に門扉を開けるよう指示した。
広然は満足げに笑うと、再び手綱を握る。
それまでぼんやりとして意識がはっきりとしなかった珠李の視線が、焦点を結んだ。
荷馬車には広然と拘束された自分。そして覆いの下には古利がいるはず。
今、自分の命と引き換えに門が開こうとしている。
いけない。
自分のせいで古利を逃してしまうのは。
どうしたら。
身体が動かない。力が入らずいうことを聞かない。
珠李は唇を噛み、そして顔を上げた。
「……碧公、貴方、本当に愚かですね。私が忠誠を誓うのは朱国の雲起殿下だけ。おめでたい方。古利は連れて行きますわ!」
珠李は声が震えるのを抑え、可能な限り不遜に聞こえる声を出した。
その場にいた蒼国の兵士たちは騒然となった。
珠李は裏切り者なのか! ならば遠慮することはない! 矢を放て!
怒号が上がった。
広然の持つ剣の刃が珠李の首筋に食い込み、赤い一筋が流れる。
そう。……お願い……! 私にかまわず捕まえて!
珠李がぎゅっと目を閉じて祈る。
しかし、英賢は動かなかった。腕をそっと掴んで縹公を制止している。
そして静かに言った。
「たとえそうだったとしても、珠李は私の部下に変わりない」
思いがけない英賢の言葉に、珠李は絶句する。目の奥が痛くなり視界がぼやけた。
広然は、重々しく開いた門をくぐると、嘲りの笑いを残して馬を駆った。
*
「余計なことを言ってくれた時は、ひやりとしたわ」
蒼国の羅城が遠く見えなくなると、広然は荷馬車を止め、項垂れる珠李の頬を忌々しげに張った。その衝撃で珠李は馬車からどさりと落ちた。
「まあ、蒼国の奴らがお人好しな馬鹿で助かった」
荷馬車の上から珠李を見下ろす。いつの間にか古利も荷台の覆いの下から出ていた。
「せっかく朱国に連れて行ってやろうと思ったのに」
そう言うと、広然は荷馬車から降り、剣を抜いた。
珠李は抵抗する力もないのか、倒れたままになっている。
広然は冷やかに珠李を見下ろす。剣を片手で持ち上げ、振り下ろそうとした、その時。
「うわっ!!」
細身の剣が飛んできて、剣を振り上げる広然の右手を貫いた。広然の手にあった剣はその衝撃で弾け飛んだ。
広然は剣が刺さった右手を掴んで蹲る。剣が飛んできた方向を見やると、馬に乗った華奢な人物が猛然とこちらにやってくるところだった。
理淑だ。
理淑は馬から飛び降りた勢いで広然を蹴り倒し、珠李の元に降り立った。そして珠李を抱きおこす。
「大丈夫?」
珠李が、どうして、と小さく呟く。
「だって、兄上の大事な部下でしょ」
当然、と鼻を鳴らして理淑が言う。
珠李を連れたまま古利を乗せた馬車が逃げてしまったと聞いた理淑が、周りの制止を振り切って独断で追いかけてきたのだった。
理淑は珠李の無事を確認すると、剣が刺さったままの右手を庇う広然に向きなおる。
広然は、呻きながら右手に刺さった剣を抜く。そして抜いた剣を、震える手で憎悪の眼差しとともに理淑に向けた。
そこで、理淑があっと声を上げた。
「しまった! 剣投げちゃったから!」
自分の剣を投げてしまった今の理淑は丸腰だ。自分の剣はまさに今自分に向けられている。
さてどうしようかと迷っていると背後から声がかかった。
「理淑様! 馬鹿ですか!」
声の方を向くと、剣が投げて寄越された。暴走する理淑に佑崔が追いついてきていたのだ。
広然を睨みながら投げられた剣を理淑が空中で捕まえる。
「ありがと!」
改めて広然へと向き直るが、一瞬の隙に古利が荷馬車を急発進させ、広然がそれに乗り込んだ。
理淑も馬に跳び乗り追いかけるが、荷馬車は少し走ると止まった。
すると、荷馬車を守るように、どこからか兵士が現れて矢を番え、理淑を阻む。
朱国の兵だ。
「古利を渡しなさい!」
手綱を引き、馬を止めて、理淑が叫ぶ。
荷馬車の上で広然が振り返った。
「朱国と蒼国の国境を過ぎました。私が立っているのは、もう朱国です」
広然が血だらけの右手をかばいながら忌々しげに理淑を睨む。
理淑が広然を睨み返し、馬上で剣を構える。
「手を出したら、朱国への侵略と見做します」
広然に宣言され、理淑が唇を噛む。
「理淑様、諦めてください。ここで手出しをしては戦の口実になります」
佑崔が追いつき諌めると、理淑は悔しげに剣を降ろした。
それを確認すると、広然は兵士たちにその場を見張らせたまま、行ってしまった。
「……っ! 悔しいっ!!」
理淑がなす術もなく広然達をとり逃してしまったことに歯噛みする。
「まったく……。無茶苦茶しないでください」
佑崔が溜息をつきながら言う。
青蓬門で広然達をみすみす逃してしまったと聞いて、どうにも納得できない理淑は単独でそれを追いかけた。それを英賢に頼まれて佑崔が追って来たのだ。暴走する理淑を何とかできるのは佑崔くらいだからだ。
理淑は憤懣遣る方なく呻いていたが、ん?と何かを思い出したように佑崔へと振り向いた。
「……さっき、馬鹿、って言ったよね」
先程剣を投げて寄越してくれる際に、佑崔が言った気がする言葉を理淑が問い質す。
「覚えていません」
佑崔がしれっと言う。
「……何か最近、扱いが雑じゃない?」
理淑が文句を言うと、横目で佑崔が他の者には向けない冷ややかな視線を投げて寄越す。
「丁寧に扱って欲しかったら、無闇に勝負を挑んで来るのを止めてください」
「それとこれとは話が別だもん」
禁軍への入隊の際に、佑崔に負けたことが相当悔しかったようで、理淑は事あるごとに佑崔に挑んで来る。最初の頃は佑崔も、英賢の手前、理淑の機嫌を損ねないよう、怪我をさせないよう、細心の注意を払っていたが、近頃では怪我をさせなければ良い、という程度で適当に遇らうようになっていた。
むくれる理淑を佑崔が促し、置いて来たままの珠李の元に戻ると、珠李は項垂れたまま座り込んでいた。広然に殴られて馬車から落ちた際に足を怪我したのだろう、動けずにいる。
「珠李殿、帰ろう」
理淑が手を取ると、珠李は首を振った。
「私のせいで長古利を逃してしまいました。……英賢様に申し訳なくて……帰れません」
こんなならいっそ死んでしまった方がましだった、と呟く。
広然に殴られて口の端に血が滲み、既に頬が腫れ上がっている。その上、地面に倒れ込んだため、砂混じりの涙で顔は酷いことになっている。いつもの冷静さが見る影もない珠李の顔を、理淑は自分の袖口で丁寧に拭いてやると、ぎゅっと手を握った。
「私が何のために来たと思ってるの。帰るよ」
珠李を佑崔に無理やり馬上に乗せてもらうと、理淑は馬を駆けさせた。
都城に着くと、英賢が青蓬門を出たところで待っていた。馬上の理淑と珠李を認めると、明らかに顔に安堵の色が戻った。
理淑は英賢にたっぷりと小言をもらい、しかし、最後に、だけどありがとう、と頭を撫でられた。
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