元年季冬 雉雊く

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 範玲が史館に帰ると、士信が待っていた。  英賢の執務室へ行く前に到着した士信に、範玲は、先に帰ってて、と言ってみたが、それでは迎えに来た意味がない、と却下されていた。  範玲の姿を確認して、では帰りましょう、と立ち上がった士信に言う。 「ちょっと寄りたいところがあるの」  取りに来るかもしれないから、と持ったままにしていた照礼の英賢宛ての文を返すために、荀氏の屋敷に寄ることにした。 *  荀氏の屋敷は、皇城の東側、夏家の屋敷がある通りの更に2本東側の通りの南端にあった。思ったよりも人通りは少ない。  都城内の地図を思い浮かべて道をたどると、荀氏の屋敷の区画が見えて来た。 「あそこですね」  士信が指を差した屋敷から、見覚えのある人物が出てきた。  範玲は咄嗟に角を曲がって隠れると、慌てて士信がそれに倣う。 「どうされたのですか?」  理由を聞く前に一緒に隠れてくれるなんて流石、と思いながら、範玲が小声で言う。 「別に隠れる必要はないのだけど……。ちょっと気まずくて」  その人物が通り過ぎるのを待つことにする。  何の準備もせずいきなり訪ねて記録を見せろと言って、呆れた顔をされた大理寺の職員だった。昊尚と再び訪れた時には既にいなかったが。  荀氏と知り合いなんだ、と、ぼんやり思いながらその職員が通り過ぎるのを見送る。  その職員が角を曲がって姿が見えなくなったのを確認すると、荀氏の屋敷の表門へと進み、士信が照礼への取次を依頼する。  夏家の名前を出すと、荀氏の使用人が中へ案内しようとする。しかし、中門のところで待つから、と言うと、慌てて照礼を呼びに行った。 「範玲様!」  少しすると、照礼が小走りに出てきた。 「まあ! わざわざいらしてくださったのですか? どうぞお入りになってください」  範玲の手を取ろうと近寄って来たため、阻むように士信が範玲の前に立つと、それに照礼がびくりとして立ち止まる。 「忘れ物を届けに来ただけなので」  照礼が近寄って来るのを諦めたのを確認し、範玲が士信の後ろから顔を出して、照礼の文を差し出した。 「そんな……。英賢様にお渡しいただけないのですか……」  落胆の色を隠さず照礼が言う。 「これはお返しします。兄には渡さない方が貴女のためだと思うわ」  諦めてなかったのか、と、思いながら、範玲は士信に文を渡して照礼へ返してもらった。  照礼は自分の手に返って来た文を見つめ、そして思いつめた様子で範玲を再び家へと(いざな)う。 「せっかく来てくださったのですから、どうぞお入りになってください。せめてお茶でも」  範玲が、今日はもう遅いから、と断るも、諦めずに、寄っていけと言う。  範玲は、あまりに必死なその様子が気に掛かり、つい聞いてしまった。 「……何かあったのですか?」  範玲の言葉に照礼が泣き出しそうな顔になる。 「……父が、私に新しい縁談を……。先程その方がいらしていたようで……」  今しがた荀氏の屋敷から出て来た、大理寺のあの職員のことだろうか。  聞いてしまったことに範玲は少し後悔をする。  かける言葉がないからだ。わかったところで、範玲が口を出すことではない。英賢との仲を期待されても、どうしてやることもできない。  それでも照礼は話を聞いて欲しいようで、何度も寄っていけと招こうとする。  あまりに必死に頼み込まれたため、範玲は、今日は無理だからまた日を改めて、と約束をしてしまった。 **  楊仁仲の調査をするために、甘婁郷と登南郷へ昊尚が遣わしていた者たちが戻って来た。  甘婁郷は金山の採掘場に比較的近いというだけで、特にこれといった産業もない、どこか寂れた印象の郷だ。  役所で確認すると、圭徳十四年の春、楊仁仲が単身この甘婁に来たという記録はあったが、籍は既に抹消されていた。  そこで、郷の住人に話を聞いて回ったが、楊仁仲の話になると皆一様に口が重くなった。甘婁郷の者たちにとって(くだん)の騒動は忘れたい出来事なのだろう。  だが、仁仲の近所に住んでいたという老婆から話を聞く事ができた。  当時、薬師のいなかった甘婁では、仁仲は好意的に受け入れられた。  腕は良くも悪くもなく、特に目立って優れた薬師というわけではなかったらしい。  郷の住人の中には、鉱山で怪我をした者や、病を患う者がいた。病状が悪い者も思いの外多く、特に痛みをどうにかしてほしいという要望がしばしばあった。  しかし、仁仲が処方する痛み止めでは思ったほど効かなかったそうだ。  ところが、ある時から仁仲にもらう痛み止めがもの凄く効くようになったという。それが阿片だったのだろう。  痛みに効く”薬”があると聞き、それを求める者が仁仲の元を多く訪れるようになった。また、その"薬"があれば鉱山での採掘という仕事も苦にならなくなるという噂が立った。仁仲は求められれば、それらの人々にも"薬"を渡していたという。こうして阿片が蔓延していったのだろう。  仁仲には家族がいなかったのか尋ねると、老婆は、家族を見たことはないが、甘婁に来た最初に、仁仲が、そのうち家族を呼び寄せたい、と言っていたのを聞いていた。なお、仁仲に息子がいたかどうかは知らなかった。  一応古利の人相書きを見せたが、見覚えはないという答えだった。  登南郷の役所では、長姓の女性と所帯を持ち、子どもも二人いたことがわかった。しかし、登南にはその仁仲の妻子の籍は既になく、どこへ行ったかの記録もなかった。そして子どもに"古利"という名前はなかった。  仁仲の妻子が住んでいたという場所には、とうに家はなかったが、隣家に住む女性が当時のことを教えてくれた。  それによると、元々登南で薬屋をしていた家の娘と結婚し、その父親と共に薬師として働いていたという。  しかし、ある時妻子を残して登南から出て行ってしまったらしい。その理由を隣人は知らなかった。  二人の子どものうち、上の子は今生きていれば二十過ぎのはずだという。  古利の人相書を見せると、似てはいるがこれ程目つきは悪くなかったはずだ、と言っていた。  甘婁での事件後、義父は自殺、妻子は追い出されるように登南を出て行ったという。 **  その報告は壮哲と青公らの前でなされた。 「長古利が楊仁仲の息子だと考えられないこともないな。 となると、あの容赦の無さは……父親の恨み、か」  壮哲が溜息を吐く。  すると、登南へ調査に行った者が言った。 「あと、興味深い話を聞きました。その男児は、家業の薬屋をよく手伝っていたそうで、患者に薬を手渡すとき、よくなりますように、と言って手を握っていたそうです。薬屋の子どもに手を握られると、それだけで病気が良くなった気がする、と評判だったと言っていました」 「成程。それは確かに興味深い。人に暗示をかける力があったということか。それを聞くと古利はやはり仁仲の息子だと考えられるな。しかし、聞く限りでは、その力は人の役に立てていたようだが……。変わってしまった原因は、甘婁の騒動で父親が捕まってしまったことか」  うーん、と更に壮哲が呻く。 「前王の処分は間違ってはいませんよ」  英賢が念のため、という感じで申し添える。 「……わかっている。古利の逆恨みだ。それにしても、それとは別に、甘婁に病人が多かったのが気になるな」 「その件については別途調査しています」  昊尚が淡々と言う。  報告を終えると、一礼して調査に行った者たちが退室した。  そしてこの場に王と青公以外がいないことを確認し、昊尚が英賢に聞いた。 「ところで、あの騒動が露見するきっかけになった、噂を聞いて甘婁に都から訪れた者、とは、夏家の関係者ですか?」  英賢は、ちら、と昊尚を見て感嘆の溜息をついた。 「よく分かったね。誰かに聞いたの?」 「いえ。記録によると碧公が改めて調査をしていますし。まあ、実際はただの勘です」  昊尚が苦笑いしながら言うと、英賢も苦笑で応えた。 「お察しの通りだよ。神経を鎮めるという評判の薬は、敏感すぎるうちの県主(ひめ)の耳にもいいかもしれないということになってね。甘婁に行ったのは士信だよ。範玲の耳のことを詮索されたくなかったから、うちの者が行ったということは伏せてあったけどね」  良すぎる耳のせいで引きこもって暮らしていた範玲のため、薬や鍼、まじない、呪符、祈祷等、良いと聞けば何でも試した、と聞いていたから、もしかしたら、とは思ったが。  昊尚はざわざわと心が波立つのを感じた。
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