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「それにしても、よく、すぐ眠ってしまうナルコレプシーの幸太君を連れて歩くことが出来ましたね」
越前屋は率直にそう聞いてきた。
「ナルコレプシーは短時間だけ眠った後にはすっきり目が覚める特徴があります。だからあの子には少し眠ったら出来るだけすぐ起こすようにしました」
「なるほど。さすがお医者さんです」
越前屋は感心した様子でそう言った。
本当は眠っているあの子を怒鳴ったり、叩き起こしたりするような真似はしたくなかったのだが、あの子が短時間の眠りですっきり目が覚めるナルコレプシーなのか、または短時間の居眠りでは眠気が溜まってしまい、長時間寝込んでしまう特発性過眠症なのかを見極めたかった。
この二つはよく似ていて、誤診しがちなので、確認が必要だった。
結果、ナルコレプシーに近い反応を示したので、あの子をこの専門外来の病院に連れてきたのだが…
そこに、全てを把握して先回りしている刑事がいるとは…。
すると突然、何故か越前屋は、目の前で直立不動になり、被っているシルクハットを静かに脱いだ。
「あなたの息子さんの誘拐事件の犯人を解放し、事件を迷宮入りにしてしまったのは警察の失態です。警察官の一人として心からお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした」
越前屋はそう詫びながら、こちらに深々と礼儀正しく頭を下げ続けた。
「…。」
もし、誠が誘拐され殺されたあの事件を、この越前屋という刑事が担当してくれていたら…
誠は殺されずに済んだのではないか…
そんな気がして仕方がなかった。
それだけが至極残念だった。
その時、急に携帯の着信音が聞こえた。
どうやら越前屋の携帯らしく、越前屋はすぐに懐からスマホを取り出すと、電話に出た。
「はい…ああ、塚本君か、ん?何だね?え?うん、うん、うん…何?いや、別にいいだろ、今回の件ではあの紫君がしっとりバームクーヘンの三方六をマーブルチョコレートの塊と勘違いしてくれたことが糸口になったんだから、紫君は一周回ってお手柄じゃないか。別にしっとりバームクーヘンをもう一つ進呈したっていいだろ。いや、いや、別に贔屓してないよ、紫君は逆に敢闘賞じゃないか。そう、そうそう。まぁそう気にするなよ、あのデパートの大北海道展は昨日で終わっちゃったけどさ、しっとりバームクーヘンはたくさん買い溜めしてあるんだよ。明日また差し入れに持ってくからさ…。え?陸奥君?俺は全然食ってないって?いや、いや、だって彼は私がわざわざ差し入れしてやったのに、勝手に食べなかったんじゃないか…うん、うん、まぁまぁ、いいよ、君ら一緒に食べたらいいんだよ。また明日差し入れに持ってくからさ、な、え?…何だって?うん、うん、うん、そうか、そうか、はい、わかりました。うん、うん、それじゃ、よろしく」
越前屋は通話を終えると電話を切った。
「いやあ、うちの者はみんな食い意地の張ってる連中ばっかりでかなわないですよ。どうも、またまた警察のお恥ずかしいところをお見せして申し訳ありません」
越前屋はそう言うとペコリと頭を下げた。
「いえいえ…」
「あ、それはそうと、隆君、手術が成功したそうですよ。今さっき入院していたF大学病院にドイツから連絡が入ったようです。よかったですね」
越前屋はそう言うと、優しい笑みを浮かべた。
「え!そうですか…!よかった…!」
良かった。
本当に良かった…!
幸太君とご両親には大変申し訳ないことをしたし、奪ったお金と人を殺した罪は一生かけて償わなければならない。
だが、ひたすら隆の命が助かってくれたことが心から嬉しかった。
本当に良かった…!
「行きましょうか」
その時、一台のパトカーが近くに到着し、越前屋は静かにそう囁いた。
「はい…」
隆に、バラ色の未来が待っていることを祈るしかない。
これからもずっと…
(終)
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