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「実はですね、これは三方六だったんですよ」 越前屋は嬉しそうにそう言った。 「三方?何ですか、それは?」 俺は訳が分からず、思わずそう聞いた。 何を言ってるんだ、この刑事は? 「三方六ですよ。ほら、さっきちょっとお話しした、デパートの大北海道展で私が買ってきて、捜査員に差し入れした、しっとりバームクーヘンのことですよ。北海道のお土産の中では有名な名物です」 越前屋は楽しそうにそう話した。 「ああ、何となく聞いたことがあるような…。あ、前にお土産でもらって食べたことあるかな?」 確か北海道旅行の土産で誰かから前にもらった覚えがある…。 あのバームクーヘンのことか…。 「たぶん、それですよ。結構有名ですからね。まさにその三方六だったんですよ」 「あの…北海道の有名なお土産だという事は分かりましたけど、それがその、事件と何の関係があるんですか?」 一体何が言いたいんだ? 「はい、実はですね、誘拐事件の捜査員たちにしっとりバームクーヘンの三方六を差し入れしたらですね、まだ若い刑事、あ、彼、紫君っていうんですけどね、その紫君がですね、それを全然食べなかったんですよ」 「はあ…バームクーヘン嫌いなんじゃないんですか?」 「ところがですね、紫君に"君はバームクーヘン嫌いなのか?"と聞いたらそんなことないって言うんですよ。おかしいでしょ。なのに目の前の三方六を一切食べようとしないのです」 「お腹空いてなかったとか?」 「いいえ、それもそんなことないって言うんですよ。それでよくよく聞いたらですね、なんと紫君、三方六をマーブルチョコレートの塊だと思っていたんですよ」 「はあ?」 「あの三方六というのはですね、ある一面にはマーブルチョコレートが全面にかかってるんですね。だからそこからだけ見ると一見マーブルチョコレートの塊みたいに見えなくもないんです。だから紫君はそれがバームクーヘンだとは全く認識していなかったんですね。そこで私は、三方六の他の面も紫君に見せてですね。これはしっとりバームクーヘンなんだ!ということを噛んで含んで力説して、なんとか紫君の勘違いを正そうとしました。そしたら紫君、やっとこれがしっとりバームクーヘンなんだと理解出来たようで、その後は、それはもう美味しそうに全部食べちゃいましたよ。ハハハ」 「そうですか…なんか、良かったですね」 「はい、良かったです!」 越前屋は満足げにそう言った。 だけど、それが何だっていうんだよ、訳がわからん。 「で、あの公園のトイレもですね、これと同じことが起こっているんじゃないかと、私ちょっとピンときたんですよね」 越前屋はそう言うと、妙に不敵な笑みを浮かべた。 「はい?」 どういうことだ? 意味がわからん。 「つまり同じものが、ある方角から見ると全く別のものに見えるということですよ」 「どういうことですか?」 「あの誘拐されたお子さんのお母さんは、間違いなく犯人の指示通りに公園の中のトイレの3つある個室の真ん中に身代金の入ったボストンバッグと携帯電話を置いてきたと言っていました。これは間違いないでしょう。お母さんに嘘つく理由ありませんからね。それが消えてしまった。しかしあのトイレの壁がどういう状態なのか、内側からはよく見えなかったと思うんですよ」 「はあ?」 「まさにマーブルチョコレートが前面にかかっている三方六の一辺ですよ」 「どういうことですか?」 「あのトイレの真ん中の個室の壁は本当は一部が崩れていたんですよ」 「え?そうなんですか。でもだったら見たらすぐわかるんじゃないですか?」 「いいえ、崩れているのに、そこに元々の壁の部分をピッタリはめ込んでしまえば、内側からは相当によく見ないと、そのひび割れた部分は見えません。実際そういう状態になっていました。トイレの内側からはひび割れの線は相当に細かくて、ほとんど遠目には見えませんでした」 越前屋はそう言ってニヤリと笑った。 「そうですか。でも、そのトイレって警察の方で結構調べたんじゃないんですか?その壁も含めて」 「ええ、調べました。しかし壁が破れてしまっているということはありませんでした」 「え?じゃあ、そんな小さなひび割れがトイレの壁にあったって、ただそれだけのことじゃないですか?」 「ええ確かに。そのような状態になっていました」 「どういうことです?」 「私、初めてあの公園に行ってトイレの周辺を色々調べた時にですね、ちょうどトイレの外側のところに何か白い粉が落ちていたのをみつけたんですね。でそれを鑑識の方に調べてもらっていたんです」 「はい」 「そしたらですね、まあ他の捜査員は、あの公園はあまり人が来ない場所なので麻薬取引の際に落ちた麻薬の粉ではないかと思っていたようですが、実はそれは私の推察通りの、カルシウム・サルフォ・アルミネート系膨張剤を活用したセメント系無収縮グラフト材でした」 「な、何ですかそれは?」 「要するに壁の緊急補修工事用に使う粉ですよ。水に混ぜると急硬化性のモルタルになります。20分から30分の短時間で強度が発現されて固まってしまい、つまり一部ひび割れて穴が開いている壁を固めてしまう粉です」 「はあ…」 「その上、数時間もしたら、強度という点ではもう完全に普通の壁と変わらなくなってしまうところまで修復してしまうわけです。つまり、あの壁は元々一部が崩れていて、その崩れた部分を引っこ抜いたら穴が開いていた状態だったんですよ。そこに崩れた壁の部分をピッタリはめ込んでカモフラージュしてあった。外から見ればわかったでしょうが、トイレの内側からはそのひび割れ部分の線があまりにも細かいため、壁が崩れているようには見えなかったというわけですよ」 「…。」 「その上、トイレの外側にいた者が、真ん中の個室に置かれた身代金の入ったボストンバッグと携帯電話を外から取り出した後、すぐに緊急の補修工事を施してしまいました。あの落ちていた粉が、その証拠ですよ。だから壁に穴が開いていたとは、あの時、トイレを見張っていた刑事たちは誰も疑わなかったんですよ」 「そうなんですか…」 「ええ。で、その補修工事なんですがね、それを行った人物も確保してあります」 「はあ…」 「その人物は、あの公園によく来ているホームレスでした。あの公園は人があまり寄り付かない場所で、それで夜寝泊まりするためにトイレを利用しているホームレスがいました。ならば昼にだってあの公園に来るホームレスはいるんじゃないかと睨んでいました。 そしたらやっぱりいました。そこで私が最初に気になったのは、そのホームレスが、またあの公園に現れた時、ワンカップ大関を3つも飲んでいたことです」 「え?ワンカップ大関を飲んでるホームレスってたまにいるんじゃないですか?それに酒が好きなんじゃないんですか?」 「確かにそうですが、ワンカップ大関を一度に3つも飲んでいるというのは、ホームレスにしては随分と羽振りが良いじゃないですか?」 「はあ」 「それでピンときたんです。これは最近、何か大きな実入りがあったなと。誰かに金を貰ったんじゃないかとね」 「…。」 「うちの部下が尋問したところによると、やっぱり何者かに金を貰って頼まれていました。警察はあの時、トイレの裏側にはたくさんの木が立っているので外からトイレの様子が確認できないため、トイレの入り口正面が見える公園の外の場所からトイレを見張っていたようです。犯人は警察の見張りがそうなることを読んでホームレスをトイレの裏に配置させておいた。そしてホームレスに、公園のトイレから女性が出てきたら、すぐにトイレの壁の崩れた部分を取り除き、そこの穴からボストンバッグと携帯電話を外に取り出し、取り出したら、すぐに教えられた電話番号にその携帯から連絡した後、トイレ裏側から木々を越えて公園を後にし、ボストンバッグと携帯電話はホームレスの寝床に隠すように言われたそうです。"ボストンバッグの中は絶対に見るな、見たら殺す"と警告されてね。ホームレスが空き缶集めのために外に出ている間に、ボストンバッグと携帯電話は回収されたようです」 「そうですか…」 「そのホームレスが薄汚れた作業服を着ていたのが気になりました。話を聞くと、どうやら前に勤めていたリフォーム会社を急にリストラされたようで、会社の寮を追い出されたので、そのままホームレスになったようです。その会社で働いていた時に着ていた作業服を、会社に返せないままクビになったので、そのまま今も着ているとの事でした。リフォーム会社にいた時は壁の工事も何度かやったことがあるそうです。犯人はそのことを知っていて、そのホームレスにボストンバッグと携帯電話を取り出すことだけでなく、そのトイレの壁の補修工事も頼んでいたというわけです。補修工事には20分もかからなかったようです。しかも1時間後ぐらいにはその壁はほぼ固まってしまう。ただ緊急工事ですから、カルシウム・サルフォ・アルミネート系膨張剤を活用したセメント系無収縮グラフト材の粉を少し現場にこぼしてしまった。まあ普通の工事だって多少の粉が落ちて残っていることはありますよね。だが、そのミスとも言えぬミスが、糸口となりました」 越前屋はそう言うと、満足げにニッコリと笑みを浮かべた。 また背筋に、冷や汗が流れた…。
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