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しばらく押し黙って沈黙していると、越前屋は何も言わず、ただ静かにこちらを見つめていた。 だが不意に、ちょっと遠慮がちに再び話し始めた。 「それで…室伏は、誘拐した幸太君を連れて逃げているか、あるいは既に何らかの処置を施しているかということになりますが…」 「え?ああ、はい…」 「その幸太君の事なんですがね、彼は学校を居眠りして遅刻したり、授業中にぼーっとしたりということを繰り返し、それを心配したご両親が無理やり病院に入院させたわけですが、結局、病院では隆君のところに行って話し込んだり妙にハシャいだりして、それを見ていたお父さんが幸太君を叱ったことから、病院側も困惑し、結局サボり病ということで退院することになったわけです」 「はい」 「その時、お母さんは言葉を濁していましたが、どうもお父さんは幸太君に怒りから手を上げたようなんですね。それでたぶん、病院側も大きな騒ぎにならないように退院させたのではないか?つまりお父さんの側に立ってサボり病で退院させたような気がするんです」 「それが何か?」 「ええ。その退院までの流れがですね、妙に不自然な気がするんですよね。不自然なところがあると私どうしても気になってしまう質でしてね、どうも、お父さんと幸太君の間で揉め事が起こったから、病院側は大事にならないように退院させた。そしてサボり病と診断した…という感じがして仕方がないわけです」 「ふーむ…」 「仮にその時、お父さんが幸太君を叱ったり、手を上げたりということがなかったとしたらですよ、果たして幸太君はサボり病ということで退院させられていたんでしょうかね?そこが気になったんですよね」 「はあ…」 「どうも病院側は騒ぎが起こったので、それを穏便に済まそうと無理矢理幸太君を退院させたような感じがするんです」 「ふーむ」 「そこで、気になって、幸太君の診断記録を病院側に見せてもらいました。するとですね、本来ならもっとするべき検査が一部行われていませんでした。それでサボり病と診断結果を下してしまうのは少々早計ではないかと思いました」 「…。」 「それでですね、ちょっとサボり病ってものを調べてみたんです。するとそれに付随してよく出てくるワードというものがありました」 「何ですか?」 「ナルコレプシーです」 「ナルコレプシー?」 「ええ。ナルコレプシーは、日中、いきなり強い眠気の発作が起こる過眠症のような睡眠障害です。浅い眠りと深い眠りの移行がうまくいかなくなり、入眠時には幻覚を見たり金縛りにあったりもするようです。夜、十分睡眠を取っていても、場所や状況、時間を問わず強烈な眠気に襲われるようです。驚いたり、怒ったり笑ったりして感情が高ぶると力が抜けてしまう情動脱力発作という症状を起こすこともあるようです。これ、幸太君が繰り返しやっていると、ご両親から伺った症状にそっくりなんですよね」 越前屋はそう言うと、急に目を光らせた。 「そうなんですか」 「ええ。ナルコレプシーは中々気づかれにくい病のようです。だからよく鬱病や睡眠時無呼吸症候群にも間違えられることが多いようですが、サボり病と誤診されることも多いようなんです。この病気の専門外来でないと、そのように誤診されてしまうケースもあるようです」 「…。」 「その上で、幸太君は隆君のところに行って話し込んだり妙にハシャいだりしていて、それを見ていたお父さんが幸太君を叱ったことから、病院側が困惑し、穏便に済まそうと結局急いでサボり病と診断して退院させてしまった可能性が高いという経緯があります」 「ふーむ」 「しかしですね、幸太君がサボり病ではなく、ナルコレプシーだと見抜いていた人物が一人いたんじゃないかと、私は思うんですよね」 「…。」 「それは元々は医師だった室伏です。たぶん室伏は、幸太君と直接話した事はないようですが、病院で遠くから見ていて、幸太君がナルコレプシーだと気がついたんじゃないかと、そんな気がするんですね」 「でも、その幸太君が確かにナルコレプシーだったかどうかはわからないわけですよね?」 「いえ。わかっています。幸太君はナルコレプシーでした」 越前屋は何故か妙に断定的にそう言って、微笑んだ。 「そうなんですか?」 「ええ。それでですね、元々は医師である室伏は、幸太君がナルコレプシーである可能性が高いのに、サボり病で退院させられてしまったことをやはり気にしていたと思うんです。医師だった頃は信頼のおける、随分と真面目な医者だったようですから。そして室伏はそんな幸太君を誘拐し、その後幸太君を連れ去った」 「…。」 「室伏は幸太君を、どこへ連れて行ったと思います?」 「さあ…」 「元々医師である室伏は、たぶん、幸太君がナルコレプシーであるか否かをちゃんと診断出来る医師、またはもしナルコレプシーだった場合にちゃんと治療出来るところに連れていくのではないかと、そう思いました。室伏は自分の息子を誘拐して殺した者たちに復讐することと、一緒に暮らしていた隆君の海外での手術費用を手に入れることが目的なのです。幸太君には何の恨みもないはずです」 「…。」 そうか そういうことだったのか… だから… 「それで私は、ここであなたをお待ちしていたんですよ。この目の前の建物は都内でも数少ない、ナルコレプシーの専門外来の病院ですから。きっとあなたはここに来ると思っていました、室伏さん」 越前屋はそう言うと、妙に優しげな微笑みを浮かべて、こちらを見た。 「それじゃ…最初から?」 「ええ。ずっとお待ちしておりました。先にこちらのM脳神経科クリニックの建物の中に入って、ここに幸太君がいることを確認しました。あなたがおじさんと称して幸太君をここに連れてきたことも担当の医師にあなたの顔写真を見せて確認してあります」 「…。」 「ナルコレプシーは脳の覚醒状態が維持出来なくなり、それで過度な睡眠状態となってしまうようです。ナルコレプシーの原因はオレキシンという脳内物質の欠乏によるものではないかと言われており、実際ナルコレプシーの患者の9割がオレキシンを作る神経細胞に異常があるようです。担当医によると、幸太君にも神経細胞に異常が見られ、医師は幸太君をナルコレプシーだと診断しました」 「そうですか…」 だからさっき、あの子がナルコレプシーだと、断定的にそう言ったのか…。 「あなたがここに連れて来なければ、幸太君はずっとサボり病と言われたまま、放置され続けるところだったかもしれません。あなたは隆君だけじゃなく、幸太君も救ったんですよ」 越前屋はそう言って、また微かに微笑んだ。 「…。」 「今日はここに幸太君を引き取りにきたんですよね、室伏さん。それでご両親のもとに幸太君を返されるつもりだった。きっとあなたはいらっしゃると思っていました」 「…。」 子供を家に返す、最後の"処分"を完了するつもりでここへ来た。 だがそれはもう、自分には出来そうにないな…。 「大丈夫です。幸太君は私共があなたの代わりに、責任を持ってちゃんとご両親のもとにお返ししますから。どうぞご安心ください」 越前屋はそう言って、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。 「よろしくお願い致します」 自然と頭を下げていた。 後は全てをお任せしよう… そう思った。
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