第1章[鞘と刀治]

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矢崎家の両親とは、時折り挨拶は交わしていた。 しかし、さすがに刀治の提案に鞘は戸惑った。 仕事でも生活面でも表面上の付き合いは身に付いているが、いわゆる プライベート的な部分に自身が介入するのもされるのも苦手だからだ。 しかし刀治は、どうやら壁をつくらないタイプらしい。 「今夜はカレーライスなんですよ。だから1人くらい増えても 平気かなって。あ、味の好みが合うかはわかんないけど、 でも、母さんは料理が上手だから自信ありますよ」 「す、すごいね」 鞘にはそう返すことしかできなかった。 「あ、俺もね、料理は得意なんですよ。 でもね、母さんとおんなじ味にはできないんです。なんでかなあ? ねえ、カレーってスゴイと思いませんか? 家庭ごとにまるっきり違いますよね、同じ味がないって壮大じゃないすか?」 急に刀治が身を乗り出してきた。 「そ、そうだね。すごいね」 たじろいで後ろに下がりながら、鞘は返答した。 秋の始め頃とはいえ風は冷たく、それに負けないほど刀治は熱かった。 「あ、あの、家にもう帰ったほうが......。 確か君は高三で受験生だったよね?風邪なんてひかせられないし」 「うわっ、優しい、そうっすね、じゃあ帰りましょう!一緒に!」 「えっ?」 そういう意味じゃないんだけど......と、思いながらも鞘は刀治と 並んで歩き、夕飯を買うために寄るつもりだったコンビニを通り越して しまった。 基本は家族用マンションの7階の角部屋だけ独身用になっていて 部屋数が他より少ない。 だから隣は矢崎家のみなのだ。 刀治の提案を断ってから、また下まで降りてコンビニかスーパーに 行くのはめんどくさい、なにしろ冷蔵庫には何もない。 もういいや、食べさせてもらおう、カレーを。 半ばヤケ気味になって鞘は決意した。 挨拶を交わすときに、いつも感じの良い両親だ。 そして刀治がここまで強引に誘うのは少年としての無邪気だけとは 思えなかった。 愛された家庭における温かさであるのだろうと......。 そして、その読みの通りだった。 矢崎家の両親は笑顔で鞘を迎えてくれて、しかも初めての訪問なのに 人見知りの鞘が緊張しないほどの空気に満ちていたのだ。 おかげで鞘は久しぶりに、レトルトや総菜や弁当以外の手料理を 食べることができたのだった。
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