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「温泉旅行が当たって……続きを聞かせてくれるかい」
「あっ、はい」
その後も、2、3枚クッキーをごちそうになって、紅茶を口に含んだところで、有子山先生が話を戻した。
「宿泊券が当たって、行き先のパンフレットを見ていたら、オプションの項目があったんです」
それは「家族割引」の案内だった。無料は2人分だけど、追加料金を払えば他の家族も一緒に宿泊出来るというものだ。追加料金は、通常よりかなり格安で……もし、俺に問題がなければ、家族4人で行けたかもしれない。両親も、もちろん兄ちゃんも、なにも言わないけれど、俺が水のトラウマを抱えて以来、海水浴にも水族館にも、大きな噴水のある公園にすら出掛けたことはない。旅行先は綿密に下調べして、河川や湖沼、海の見えない場所を選ぶ。必然的に行き先は限られたし、きっと行きたい場所をいくつも諦めさせてきたんだと思う。
「そう思ったら……ゾッとしたんです」
俺はこの先、俺の周りの人達に、俺と同じ不自由を強いることになるのか、と。そして、真っ先に頭に浮かんだのは、家族じゃなくて大陽だった。
アイツは優しいから、決して口に出さないだろうけど、この先、俺を気遣いながらデートプランを探すんだ。普通の恋人が当たり前に訪れる、水族館にもプールにも行けない。遊園地だって、水を使ったアトラクションがあれば、俺の目に入らないように神経を使うんだ。
「だから、水に……本物じゃない水から慣らしていこうって、思ったんです」
「それで、大型ビジョンのCMを見に来たんだね?」
ははぁ、と有子山先生は得心した表情で頷いた。
「はい……ご迷惑おかけして、本当にすみませんでした」
最初の5秒……いや、3秒くらいは、大丈夫だったんだ。スポットCMは、大抵1本15秒だと聞く。だから、まずは15秒、乗り切って自信をつけたかったのに。
「なぁ、寛斗クン。認知行動療法を試してみないか?」
有子山先生は、世間話でもするようにサラリと言った。
「え?」
顔を上げれば、待ち構えていた表情も穏やかだけど、眼差しは真剣で。
「少しずつ段階を踏んで、不安の原因に別の感情を上書きしていくんだ。例えば、『空から落ちてくるものが怖い』とする。落ちてくるものが石コロなら痛くて怪我しちゃうけど、雪玉なら冷たいだけだろ? 毛糸玉なら、痛くもないし、シャボン玉なら楽しくなる」
「シャボン玉は、落ちてきませんよ」
「ははっ。そうだね。だけどイメージは出来ただろ?」
「はい。頭の中で、害の少ないものに変えていくんですね」
ドキドキした。先生の言う治療方法って、俺が考えていた映像の水から慣らしていくやり方に、似てるんじゃないだろうか?
「そうだ。将来的に、不安のコントロールは必要になる。時間はかかるけれど、ゆっくり取り組んでみないか、寛斗クン」
先生の言っていることは、よく分かる。自分でコントロール出来るようになれば、きっと行動範囲が広がる筈だ。だけど、上手くいかなければ、今夜失敗したみたいに、あの発作が……息の出来ない苦しさに襲われる……?
「……怖い?」
即答出来ない俺を、有子山先生は穏やかに見守ってくれている。
「先生、今夜のことがあったから……勧めるんですか?」
「うん、それもあるけど」
突然、ニコッと笑顔に変わる。
「君のこと、支えてくれる人が増えたみたいだから」
再び鋭い指摘に貫かれ、一気に顔に熱が回った。
「せっ、せんせぇ……」
「ははは、ごめんごめん。だけど揶揄っている訳じゃないよ。寛斗クンの雰囲気が変わったからね……いけそうな気がするんだよなぁ」
俺の雰囲気が、どんな風に変わったのか……とっても気になるけど、訊けない。俯いたら、テーブルに置いたスマホがブブブと震えた。母さんが、駅前に着いたのだ。
「1度、ご両親にも相談してみて? もちろん、無理強いはしないから」
有子山先生は、僕の肩に手を置くと、お茶会をお開きにした。
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