序章

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序章

 (あれっ、この風景何処で……?) 初めて訪れた駅のはずなのに、親友の雅(みやび)と電車から降りた時に思った。 何時だったとか、詳しいことは思い出せないのだけど…… 「ねえ雅、私この駅に来たことがあるみたい」 正直に打ち明けてみた。 でも雅は笑っていた。 「確か……」 そう言って、又笑う雅。 「確かって何よ。笑ってないで教えてよ」 喉元まで出ているってこのことだろうか? 私は思い出せそうでいて思い出せない現実に苛立ちを隠せなかった。 「全くもう……。雅の意地悪」 私は泣く真似をした。でも真似なんかじゃない。本当に泣きたかったのだ。 「だから……、私も良く解らないの。兄貴なら何か知っていると思うんだけどね」 (えっ、兄貴って!? 雅に兄弟なんかいたのかな?) 雅とは幼稚園時代からの友人だ。無二の親友と言ってもいいほど私達は何時も側にいた。 それなのに私は雅にお兄さんのいたことすら知らなかったのだ。 これで本当の親友なんて呼べるのだろうか? 私は少し凹んでいた。  電光掲示板も発着ダイヤ標示表も他の駅そう変わりはない。 でも私は何かを感じて緊張していた。 ただ私が周りを良く見てこなかっただけなのかも知れないけど…… (階段も、改札口も大して変わりなかった。それじゃ私の、あの直感は何? 何故私は雅のお兄さんのことも知らないの?) 雅の背中を追いながらそんなこと考えていたら何時の間にか会場に到着していた。 私は方向音痴だった。だから地図を渡されただけだったらこんなに早く辿り着けなかったろう。 改めて雅に感謝した。  其処は体育館だった。 (此処も……) 何故だか判らないけど、私の頭の中で何かが蠢いている感じがした。 私は何故か焦りを感じながら、過去が空白になっている現実に苛まれていた。 記憶喪失とでも言うのだろうか? 私は今までそんなことに疑問を抱いたことなどない。だから余計に気持ちが揺れていた。 (雅のお兄さんだけじゃない。もっと大切な誰かも……) そんなことを漠然と考えていた。それでもそれが誰かさえも思い出せなかったのだ。私はモヤモヤした気持ちを落ち着かせようと胸に手をやった。  階段を上りながらもあれこれ目をやる。もしかしたら何か思い出させるきっかけを探しでみるつもりだったのだ。 それでもやはり駄目だった。 仕方ないので、アリーナに目を落とす。 其処には顔にマスクを着けた人達ばかりいた。 「へー。これが噂のフェンシングってやつか?」 「そうよ。見たことあるでしょう?」 「ううん、初めてかな? 勿論テレビではあるよ。だからなのかな? 本当は初めてだって気がしない……」 「初めてじゃなかったりして……」 勿体ぶっているのか。それ以上言わない雅。 (もう、雅の意地悪) 私は又モヤモヤ始めた。  私は雅に誘われて幾つかの電車を乗り継いで今此処にいる。 雅は手慣れているらしく、切符の手配やら全ての雑用をやってくれた。 だから幾ら感謝しても足りないくらいなのだ。 もっとも、雅に無理矢理連れ出されたのだけどね。 「それじゃ初めてだってことにして、ルールなんか話すね」 私の態度で何かを感じとったのか、雅は真面目な顔つきになった。初めてだってことにして、と言うセリフはいけ好かないけどね。 「あっ、それじゃよろしく。やっぱり知っていた方が断然面白いと言うか……」 礼儀として、とりあえず合わせてみる。少し間が空いたことで、雅の態度が変わるのが解った。 (悪いことしちゃったかな?) 私は又悄気ていた。 私は何時も雅に気を遣わせていた。 それが何を意味するのかは判らないけど、まるで腫れ物にでも触る感覚だったのだ。 だから雅には申し訳ないと思っていたのだ。  「じゃあまず競技の種類ね。フルーレ、エペ、サーブルってのがあるの」 雅はそう言いながらパンフレットを渡してくれた。 「注目株は、何度もオリンピックでメダル取ったフルーレね。何でもつい最近まで、団体で世界ランキング五位なんだって。でも兄貴はエペをやっているわ」 「えっ、どうして?」 「フルーレで攻撃出来るのは胴だけなのよ。でもエペは爪先からマスクまでだから楽しいんだそうよ。そう言えば『日本はエペにも力を入れてる』って兄貴が言ってたわ。先見の明があったのかもね」 「ふーん、そうなんだ。雅のお兄さんって凄いね」 「ふふ、ありがとう。実はエペの世界ランキングも上がってきているみたいなの」 「それじゃ、益々凄いじゃない」 「そうかもね」 雅は気を良くしたのか笑っていた。 「今選手が構えているでしょう? 彼処はピストと言う舞台なのね」 雅は引率の責任を果たすかのようにフェンシングの決まり事を話し始めた。 私は礼儀として耳を傾けることにした。 「ピストの幅はおおよそ二メートル以内。長さは十四メートルと決まっているの。昨日の夜、五人掛かりで仕上げたそうよ」 雅の言葉を受けて、私は体育館の中に設置してあるピストを数え始めていた。 「合計八面で三時間係ったそうよ」 「どんな競技も裏方が居なくては始まらないのね」 私は解りきった発言をしていた。  雅の解説によると、フェンシング用語はフランス語だそうだ。 「だから返事はウィとノンなの。審判はピストに立った二人に向かって『エドプレ』か『プレ』と声を描けるの。『準備はいいか?』と聞いている訳だ。それに対して選手は『ウィ』又は『ノン』と答える。両方共に『ウィ』となったら試合開始になる訳なの」 雅の説明を受けながらパンフレットに目をやる。  「今、審判の『アレ』の後で『ラッサンブルー、サリュー』って聞こえたでしょう? 挨拶なんだけど、日本で言うことの『気をつけ礼』かな? その前に言った『アレ』は『位置に着いて』みたいなものね」 「へー。フェンシングって、ルールや決まり事が多いね。私、頭がパニクリそう。雅のお兄さんって凄いわ。あっ、違った。それを私に判りやすく説明してくれようとしている雅が凄いのだった」 私の発言に雅は気をよくしたみたいだった。  「ねえ、どうしてそんなに詳しいの?」 持ち上げたついでに聞いてみることにした。 「兄貴の受け売りかな? ヨーロッパではエペが盛んだから敵わないって知っているの。それでもエペをやるの」 雅のお兄さんとは面識はない。だけど、自分の意志を貫いている人だと思った。 「兄貴はそれで女性を守りたいんだって。だから一生懸命なのよ。きっと頼りにされる存在になりたいんだと思うよ」 「幸せだね。雅のお兄さんの恋人は……」 その女性が誰なのか全く知らないけど、私は本気でそう思っていた。  「フルーレは初心者向きなんだって。だから兄貴もそれから始めたの。大体の女性や子供はそれからのそうよ。フルーレとエペは突くしかないの。エペの剣が一番重くて攻撃出来る箇所が全身だから面白いんだって。サーブルで攻撃出来るのは上半身で、突くだけじゃなくて斬るも入るの。ほら騎士が持つ剣をサーベルって言うでしょう? 私はサーブルの語源はこれじゃないかと思っているの」 「確かにそれはあるね。オマケに突くと斬るも入るのだったらね」 「でしょう?」 雅はヤケに嬉しそうだった。 「でも不思議、初めてって感覚ないの。私きっと何処かでこの競技見ているのかも知れないな」 私は感じたままを素直に雅に伝えていた。さっき雅が言った『初めてじゃなかったりして……』が頭の何処かに残っていたからだった。 でも初めてじゃなかったら、記憶の片隅にでもあるはずなのだ。私は胸に手を当てて深呼吸をした。  雅はそんな私をそっとしておいてくれた。 (見て見ぬ降りか?) 本当は嫌味も言いたい。でも思い遣りかも知れないと思ってもいた。 だからパンフレットを見ながらあれこれ考えることが出来たのだった。 「雅、さっきフルーレは剣が軽いって言っていたけどサーブルの方が小さいと思うんだけど」 「確かに……」 雅はパンフレットに記載されている剣の種類の項目を見て笑っていた。 「フルーレが百十センチ以下でサーブルが百五センチ以下だもの。でもフルーレと同じ長さのエペが一番重いのね」 「そう、だから兄貴はやっているの。サーブルと違って突くだけだけど」 「確かフルーレも突くだけって言ってたわよね?」  「過って女子はフルーレのみだったそうよ。今ではエペやサーブルもあるみたいだけどね。兄貴が始めた頃にはなかったの。だから兄貴は好きな女の子を守るためにエペを始めたの」 「そうなんだ」 「高校時代はインターハイに出場して準優勝したのよ。県予選では個人で四位まで八月上旬に開催される地区大会に出られるの。兄貴は其処までだったけど、上位の人は十月の国体に出場出来るんだって。その夢を今は叶えようとしているの」 雅はそう言いながらアリーナを見下ろしていた。 「ふーん。そうだジョー、じゃあなかった雅今夜電話するから色々教えてね」 「うん、解った。でも何でジョー? 今日は雅でって決めたじゃない。幼なじみの二人きりなんだからってさ」 私が雅をジョーと呼んだのには訳がある。 それはさておき、雅の返事に私は頭を掻きつつ何故かウキウキし始めていた。  「今、フェンシング界は大きな局面を迎えているらしいわ」 (えっ? 何?) 雅の言葉に私は又興味をそそられていた。 「体制が代わったこともあって、意識も変わったらしいの。兄貴が初めて試合を見たのはオリンピックの団体でフルーレの団体が銀を獲得して半年後のことだそうよ」 「えっ? フェンシングって銀メダル取ったことあるの? あっ、そうか。だから私も知っていたのね」 (あっ、だからさっき懐かしいって感じたのかも知れないな) 私は駅に降りた時から感じていた何かがそれなのだと結論付けようとしていた。 「そうかもね。兄貴の目の前のピストに立っていたのはその時のメダリストだったのだって。でも、応援に来た人は物凄く少なかったのだって」 「銀メダル取ったら、普通皆応援に行くと思うけど」 「兄貴もそう思ったらしい。でも、それが現実だったみたい。だから兄貴、余計にフェンシングに興味を持ったらしいの。その頃のフェンシングはマイナーなスポーツだったのかも知れないね。だけど何時かメジャーになってほしいって思ったそうよ」 雅はそう言いながらパンフレットを指差した。 「その日付、今日じゃないでしょう? それが答かな?」 「何それ、全く解らない」 「実は今日は予選なの。パンフレットにあるのは決勝戦の日なの」 「えー、気付かなかった」 私は慌ててパンフレットを見直した。 「今まで別々の日を告知していたのだって。だから人が分散されてしまっていたの。でも決勝戦の日は大勢来てほしいでしょ? だからフルーレもエペもサーブルも同じ日に決勝戦をやるようにしたのだって。その結果はいかに……だけどね」 「それは楽しみね。その日に又連れて来てね」 「うん、解った」 雅は大きく頷いた。 雅の説明だと、それは屈辱の無観客試合? だったそうだ。 でも雅の兄貴も観に行っているなら無観客ではないだろうと思った。  フェンシングの試合が終わるまで暫し無言になったけど、私と雅の会話は尽きなかった。雅は私にその後もルールや決まり技など話してくれた。 私は雅の説明を聞いているうちにフェンシングに物凄く興味を抱いくようになっていた。
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