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思い出に事欠くことはなかったが、空が見えない日は俺は苦しんだ。
空を見上げることが思い出の扉を開く鍵だと気づくのに時間がかかり、空が見えず思い出に縋れない夜に、何度か俺は手首を切った。
別に死にたかったわけではなく、空を見れなかった日に見る夢の中で、彼女が泣き叫んでいるのが苦しかった。懸命に何か訴えかけているようだったが、声が聞こえることはなかった。
――俺がやったことは間違いだったのか?
寝ても覚めても同じことばかり考えてしまう。
叫ぶ彼女の声が怨嗟や呪詛のような気がして、自責の念が膨らんだ夜にも手首を切りつけた。
空が見える日には、「この空は彼女につながっている」だなんて陳腐なことを考えて心を慰めた。空さえ見れれば、思い出の扉だってすんなり開いた。
それに、空が見えない日に思い出の扉が開かない理由もわかっていた。
俺達の逢瀬はいつも必ず海だったから、雨の日は会えなかった。会えない日は共に空を見上げることがなかったため、思い出の扉の鍵がなくなってしまうのだ。
「それにしても暑いな」
思わず愚痴ってしまうがどうしようもない。
暑いと口にしたら余計暑くなるという返しは、意外と的を射ているんだと変な関心さえしてしまう。
だが、感じていた暑さがすべて一瞬にして吹き飛んだ。
ひやりと首元に冷たさを感じた。
「おかえり」
懐かしい声だった。
ずっとずっと胸の中で反芻するしかなかった声が、あの耳触りのよい声が、俺の耳を今まさにくすぐった。
咄嗟のことに声を詰まらせた俺は、返事もせず、首に押し付けられたペットボトル飲料を手に取ることもなく、立ち上がり振り返った。
「ごめんね、私のせいで……」
「そんなの……」
数年ぶりの抱擁とキスにもちろん血の香りはなく、代わりに磯の匂いが俺達を包み込んだ。止まっていた時間が動き出した気がした。
――俺の恋はずっとあのまま、1人で大人になるんだって思ってたのに。
苦しめる父親がいなくなったから、借金返済も順調に進んだろう。
何の不安もなく仕事をして、返済の目途が立てば幸せな生活だって待っていたはずだ。待っててくれなんて頼んでいない。
――それなのに。
自分の罪を忘れることなく、彼女は俺を待っていてくれた。
勝手に俺が引き受けたのに、それでも彼女は良しとしなかった。
あの日、居間で立ち尽くしていた彼女は紅く染まっていた。
俺が身辺調査をしていたのをどこかで耳にしたのだろう、俺の手を汚させないため、仕事をサボって俺より先に父親を殺したのは彼女だった。
父親に奴隷のように使われる生活だったろうが、俺と出会わなければ彼女はその手を汚すことはなかっただろう。生活に耐えかねたわけではなく、俺を思っての殺人。彼女の殺人は俺のせいであり、俺の罪だ。
だから俺は罪を被ることを選んだ。
正解だったかどうかなんてわからない。自分の罪を俺に押し付けた事実で彼女が苦しんだかもしれないし、様々な労苦が待ち受けていただろう。
だが今は目の前にある彼女の笑顔を信じよう。
俺は殺人犯のレッテルを張られ、彼女は真犯人である記憶を抱え、悲しみも苦しみも2人で分け合いながら、死が2人を分かつまで一緒に歩みたいと思う。
罪を忘れないために、俺が婿入りし『空野』の苗字を残そうだなんて話してみたりして真剣にふざけたりしてみた。
婿入りしたら俺の名前は『空野 奏太』、どこまでも広がる空を思わせる素晴らしい名前になる。
彼女が嫁入りしても『公野 春香』『公野 奏太』となって、『君の』なんて、お互いがお互いの相手だと示してるような気がして照れくさいけど嬉しくなった。
街は出ていこう。
ここは悲しい思い出の象徴であり、周囲の目が俺達の穏やかな生活を許しはしない。それでも2人一緒ならば、春香・奏太まで歩んでいけるさ。
空はどこまでもつながっている。
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