指の隙間

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 だが俺達の幸せな日常も長くは続かなかった。 いや、長く続かなかったどころか、早すぎる終焉は残酷なものだった。 ――今日は遅いな。  店は完全に終わっている時間、アフターなどで遅くなるといった連絡も入っていない。 仕事で飲み足りなかった彼女のために好きな銘柄の酒と、飲みすぎた彼女のための水を準備して待っていた俺の携帯が小刻みに震えた時には、すでに結構な時間が経過していた。 ――ごめん、しばらく行けないや!  メッセージを呼んだ直後、月が顔を隠し闇の深さが増した。 わかってる、こんなもの何てことない社会人の連絡の1つ。俺だって出張で何日も留守をすることだってあるし、家庭の事情や体調面の問題で動きが取れないことだってある。大丈夫、心配いらない。 ――じゃあなぜ走ってる?  この方向は立入禁止にも等しい夜の街。 彩り豊かなネオン達に坊や扱いされ、毎日スゴスゴと戻ることになるネオン街だぞ? ――相手が忙しいだけなんだろ?  街へ走る自分を諫めるように、これまでで習慣と化した自問自答が列をなして俺を襲う。質問という名の刃を、1つずつ迎え撃たなければならなかった。  忙しいなら忙しいと、気分じゃないなら気分じゃないと、体調が悪いなら体調が悪いと、画面の前であの澄んだ目を申し訳なさそうに細めながら打ち込む彼女だ。しばらく行けない、だなんて曖昧に済ませる人じゃない。  数を減らした街の明かりが糸のように流れる中で、それでも刃は止まらない。 ――短すぎる付き合いのくせにわかるのか?  すべてを知った気になって慢心しているだけかもしれないが、勘違いなら勘違いで済む話だ。心配だったけど何事もなくてよかった、おかげで君の世界に入ることができたよ、それで大団円。 ――本当に何か起きてるとして、お前に守れるのか?  大きな刃が襲い来る。 彼女のことを、ハルカのことを何も知らない俺に守れるのか? 俺との逢瀬がひと夏の些細な寄り道だったとしたら、この心は耐えられるのか? ――お前には耐えられないよ、わかってるだろ?  わかってる、わかってるから、もう続きは・・・ ――二の足を踏んで、好きとも言えないくせに?  心が大きな音を立てて軋みだした。 きっかけはただのよくある一目惚れだったが、多いとは言えない逢瀬でも俺は確かに彼女に恋をし、愛し始めた。  だけど彼女はどうなのか?  瞬く星の下で水を跳ね上げはしゃぐ彼女は、俺と同じで日常に非日常を求めていただけだったのでは? もし正解だとしたら、俺の日常は彼女にとっての非日常で、彼女の日常は俺にとっての非日常で、結局は住む世界の違いを見せつけられ続けるだけなのではないか?  回り続けていた足の回転が急速に落ちる。 薄ぼんやりと向こう側に夜の街の電飾門が見えてきたが、勢いは完全になくなってしまった。 ――引き返すならまだ間に合うぜ?  心と電飾門が強く訴える。 ここで引き返せば、もしかしたら自分が見たくないものを見ないで済むかもしれない。  だから、だから俺は・・・ 「嫌だっ!!」  叫んだ。  いつまでも心に緩い蓋をして、無機質に生きていくのはごめんだった。 もしも彼女に大したことはなくて、また2人の逢瀬の海で再会した時に、俺は彼女の目を見返すことができるのか? 心配した、不安だった、そんな思いをすべて押し込めて蓋をして、でもその蓋は緩くて時折こぼれ出てきてしまう。 同情のように「心配してくれたの?」「大丈夫だよ」と笑うその顔を、真正面から見ることができるのか? ――できるわけ、、、ねーだろ!  見たいけど見たくない、見たくないけど見たい、これまでのそんな生活の中で取りこぼしてきたものの多さや大きさを俺は嫌というほど知っている。 怖がりながらもホラー映画を観るように、指と指の隙間を開けるような生き方を続けていては、最後には大切なものさえもすり抜けてこぼれ落ちてしまうだけ。  指の隙間をギュッと塞ぎそのまま拳へ変えると、感じていた震えが少しマシになった。大丈夫、これで進める。すべてを見れる。 ――行くのかい、坊や?  そびえる電飾門にいつものような撥ねつけるような強さはなく、淡く優し気な光で口を開けて待っていてくれた。 「今日は行くよ、通してくれ」 ――行ってらっしゃい、奏太(かなた)。  これまで俺を坊や呼ばわりしていた門は初めて名前を呼び、もう声をかけてくることはなかった。 過去に一度上司と来た時の記憶が確かなら、初めて見かけた路地は遠くないはず。
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