冷たい雨

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 今となってはタイミングが良かったのか悪かったのか、早足で彼女を探し回る俺の目に、ビルから出てきた人影が目に留まった。 「ハルカ!」  呼びかける俺の声にビクッと肩を震わせた彼女。 そして迅速に振り向き、意想外の叫びを上げた。 「奏太!? 逃げてっ!!」 ――どうしてここにいるの? ――入ってこれたんだね?  耳障りのよい声を驚きに染めながらもはにかむ、そんな言葉を期待していた。 しかし現実に飛び込んできたのは、恐怖が入り交じる声だった。 「逃げて? おい、どうし……」  言葉の途中でガシッと両肩を掴まれた。 感じる肉厚な手は信じられないほど力強く、身体の中でもわりかし頑丈なはずの肩でさえ痛みを感じた。 「お前だな、ハルカを(たぶら)かしてる男は」  振り返るとそこにはガタイの良いベタな黒服が立っており、こちらが口を開く前に鈍い痛みを頬に感じた。 「ガァッ!」  どうやら殴られたらしい俺はそのまま後ろに吹っ飛び、電信柱に体をぶつけて止まった。 人に力いっぱい殴られるのが初めてだった俺の視界はグニャリと歪み、頬の痛みと口の中に広がる血の味を感じながら、「やめてよ、奏太は関係ないでしょ!」と泣き叫ぶ彼女の声を聞いていた。  痛みに身が竦み立ち上がれないでいると、黒服とは別の仕立ての良さそうなスーツを着た強面の男が近づいてきた。 話しやすいようにとでも思ったのか、俺の目の前にしゃがみ込む。 「初めまして。私はハルカが働く店のオーナーの……」  どうやら自己紹介をしているようだが、あまりの痛みに話が飛び飛びにしか聞こえてこない。 だが、彼女がしばらく会えないとメッセージを送ってきた理由と、たったさっき俺が殴られた理由だけは妙にクリアに頭に入ってきた。 「私の店は普通の子なら恋愛は自由なんですよ、普通の子ならね」 「どう、いう、、、こと」 「やめて!」 「お前は黙ってろ!」 ――バシッ 「キャアッ!」  俺の視界の外でどうやら彼女は黒服に平手で打たれたらしく、悲鳴を最後に嗚咽以外聞こえなくなった。 「失礼、話の途中でしたね。お店の子のほとんどは一般の面接を経て雇用しているのですが、ハルカと他数名の女の子は、借金のカタに売られた女なんですよ」 「借金、、、カタ」  頬や口が痛むためまともに話せない俺は、出来損ないのオウムのように拾った単語を繰り返すことしかできなかった。 彼女の嗚咽は次第に大きくなり、おそらくは俺に聞かれたくなかった裏事情であることを察することができた。 「ハルカの父親がろくでもない人間でね、金を借りてはギャンブルに費やし、負けてはまた借りに来るようなクズ。たまに勝った時でも利子と少しの元金だけ返済して遊ぶ金は残す、いわゆる毒親でねぇ」  彼女との会話に親の話題がなかった理由までもが意図せぬ形で暴露された。 小説や映画やドラマではよくある設定だが、自分の身近な世界では耳にしない家庭環境。誰にでもおいそれと話せることでもない。 「母親は早くに亡くなってるので、そんなどうしようもない父親でもハルカは親元を離れることができず、売られて働くしかなかったんですよ」  ニヤニヤと笑いながら続けるオーナーの醜い顔が少しずつクリアになっていく。 痛む体に鞭打って少しだけ身を起こしてみると、アスファルトに膝をついてさめざめと泣く彼女の姿があった。 「これまでは真面目に働いてくれてたんですが、どうもここしばらく夜の仕事に身が入ってないようだと報告がありまして。調べてみたらお客様からのアフターの誘いもほとんど断っていたようで、常連のお客様からクレームまで入る始末」  大仰な動作でヤレヤレと手を広げるオーナー。 これ以上その醜い顔を見たくないと思った俺は、痛む鉄臭い口を開いた。 「ハル、、カの、借金は……」  決意と共に口にした言葉だったが、彼女とは違う別の眼力ですべてを見通しているかのようなオーナーは、俺の言葉を遮って希望を絶望へと転化させた。 「一介のサラリーマンが肩代わりできる額じゃないですよ? 男女平等な世の中だなんて言いながら、社会の闇は平等じゃない。若い女じゃないと大金を稼げない方法なんてザラにあるのですから」  現実に打ちのめされた俺を下衆な笑みで見下ろすオーナーの後ろに、頬を赤く腫らした彼女が歩み寄ってきた。いつもの輝きを失った目で俺を一瞥し、聞きなれた声で聞き慣れないセリフを投げかけた。 「さよなら、奏太」  満足気に頷いて立ち上がるオーナーに、彼女は頭を下げて言った。 「明日からは今までどおりに働きますので、どうかこれ以上は」 「よろしい! では今日はもう遅いので家まで送りましょう」 「ありがとうございます」  一連の流れに俺が関与する隙はなく、ただその後ろ姿を黙って見送るしかなかった。高級そうな車に彼女が乗り込んで発進した後、残っていた黒服の男が軽薄そうな声で笑う。 「ハルカのことなんて忘れちまいな。どうせあいつのダメ親父は今後も借金しに来るから、ハルカはずっと解放されることなんてねぇんだよ」  最後の最後まで絶望を与えたかったのか、俺に唾を吐きかけ高笑いしながらビルへと戻っていった。  少しずつ灯りを減じてゆくネオン街の景色が歪む。 彼女の――ハルカの代わりに涙するような夏雨が朝方の街に降り注ぎ、俺の体温を奪っていく。  不思議なことに目元を流れていく雨だけは少しだけ温かい気がした。
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