別れの時

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 毎日のように2人はしゃいでいた海に彼女が来なくなり、しばらくの月日が経った。 あれだけ高かった夏の空を少し近く感じ、輝く星座も秋への模様替えを始め、いずれ例年よりも寒い冬がやってくる。  俺はこの街で冬を過ごすことはないだろう。 一世一代の大イベントがいよいよ明日に迫っているのに、胸が高鳴るようなことはなかった。むしろ今までの人生で1番落ち着いており、目の前に広がる海の夕凪のようだった。 ――さぁ行こう、明日は大変な1日になるぞ。  アスファルトの上で冷たい雨に打たれた日に誕生したもう1人の俺が、意気揚々と語り掛けてくる。こいつも随分と待たせてしまった。 「わかってるよ、最後にもう一目見てから行こうか」  明日か明後日にはこの街を出ることになるだろう。 会社を辞めて、アパートも解約した。振り返ってみれば、いい思い出なんて彼女との逢瀬しかなかった街。そんな街でも少しは惜しむ気持ちがある自分に苦笑する。  別れを惜しむように普段よりゆっくり散策していると、次第に目的地が見えてきた。ボロボロの古い一軒家。下手したら人が住んでることを疑われそうな家屋だ。玄関には辛うじて読めるぐらいの色褪せた文字で、『空野(そらの)』と書かれた表札がかけられている。 空野家をじっくりと検分。人の気配がないことを少し残念に思いながら、踵を返して次はネオン街を目指した。  あれ以降彼女の姿は見ていない。 電飾門もネオン看板も俺に語りかけることはしてこなくなり、こちらも周りの喧騒に器用に耳を閉ざしながら、決まったルートを歩くだけ。 店側が対策したのか彼女が客引きで外に立つことはなく、俺のことを殴った黒服が時々店前をパトロールしているぐらいだ。入る気はないが、俺はあの店のブラックリストに名を刻まれているだろう。  代わりに俺は街の人間から様々な話を聞いた。 キャバ嬢だったり黒服だったり一般客だったり街の情報屋を名乗る男だったり、おもしろい話をしてくれそうな人には手当たり次第に話しかけた。中には小遣いをせびってくるやつもいたが、今後しばらくは使い道のない金だったので、ある程度気前よく払ってやった。  おかげで本当にいろいろなことを知ることができた。 彼女が――ハルカが本当に借金のカタに店に売られていたことも、父親は相変わらず娘の収入で遊び惚けては借金をしていることも、手持ちの金がなくなったら娘の店でツケで飲んで帰ることも、働けど働けど豊かにならず相変わらず街外れのボロ家に住んでいることも、彼女の名前は『春香』と書き、苗字は『空野』であることも知った。 「今日もいないな」  わかってはいたが、それでも街を出る前に一目彼女に会っておきたかった。 いや、少し姿を見るだけでもよかった。気分はすっかりストーカーだ。 しかしいないものはどうしようもないし、あまり長居するとあの店の黒服達から追い回されてしまう。何とか逃げることができたが、一度捕まりそうになったこともあった。  やはり俺には夢幻(ゆめまぼろし)だった、違う世界だった街に背を向けて別れを告げる。 ――本当にいくのかい?  去り際、久しぶりに電飾門が話しかけてきた。 「あぁ、いかないといけないんだ」  誰に向けた言葉かわからない声は喧騒の中に吸い込まれて消え、電飾門とネオン看板達は熱を帯びながら無機質にチカチカと輝くだけだった。
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