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翌日の深夜、俺は痒みに耐えていた。
――冷え込んできたのにまだ蚊がいるのかよ!
宵闇に紛れ込んでいたのはどうやら俺だけではなかったようで、緊張感との戦いの中、黒い刺客こと蚊との戦いも強いられていた。
――来た。
蚊との戦いを終えてしばらくして、待ち人が千鳥足でやってきた。
すっかり酩酊しているようで、潜んでいる俺との距離が近くなるとご機嫌な鼻歌までも酒気に乗って流れてきたぐらいだ。
酔っ払いは千鳥足のままボロボロの家に向かい、立て付けの悪い引き戸をガタガタと鳴らしながら家の中に入っていた。
俺は知っている、盗まれる物が何もないと思っているあいつが鍵を閉めないことを。
居間の電気が灯った瞬間、俺はその身を堂々と起こした。
こんな深夜過ぎに、街外れのボロ家を訪れるのはあと1人しかいない。その1人が戻ってくる前にすべてを終わらせる必要があった。
この日のために購入した名工の包丁を右手にしっかりと握る。
こんな目的で使うのが違うということはわかっているが、抑えきれない情動のためにはやむなかった。軽く押し当てるだけで切れてしまう高級な刃は、時間との勝負になるこの夜には皮肉にも打ってつけだった。
これからおこなう悍ましい行為が、間違っていることはわかっていた。しかしあんなに美しい目をした女性が、今も、そしてこれからも苦しみながら生きていかねばならないことの方が間違っている。
――よしっ、行くか。
施錠されていない玄関へと向かう。
情報屋に金を握らせて調査をさせたので、出勤日である今日のこの時間、彼女が不在なのは間違いない。
「ギャアァァァァア!!!」
静寂を切り裂く断末魔が木霊した。
予定どおりに進んだハルカの父親殺害計画。
最後の最後に、唯一にして最大の誤算が発生してしまった。
――ガラッ
居間と廊下を隔てる襖の音が、やけに大きく響いた気がした。
開いた襖の向こうにいたのは、そこにいないはずの、いてはいけないはずの人だった。
「どうして、、、ここに?」
絞り出すように声を上げたのは、俺と彼女のどちらだったろうか?
俺が愛した澄みきった綺麗な目はそこになく、絶望の眼差しで見つめる彼女と何も言えずにただ見つめ返すだけの俺。見つめ合う2人の間に漂うはずの甘やかな空気が発生しなかったのは、小さな呻き声を上げながら血まみれで床に転がる男の存在のせいだった。
「どうして、、、殺したの?」
凶行を示すようにポタポタと血を滴らせている古い出刃。
部屋の至る所に薄汚い血が派手に飛び散り、傷を見るまでもなく致命傷であることを窺わせる。
「君を救いたかった……」
――カランッ
左手から滑り落ちた包丁が乾いた音を立てた。
俺の言葉に涙した彼女が、よろよろと力ない様子で歩み寄ってくる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
初めての抱擁は鉄の香りがした。
服が血に汚れるのも厭わず、俺達は泣きながら抱きしめ合った。
星の輝く夏空の下で少しずつ温めあった不器用な恋が、不本意な形でこの夜に結ばれてしまった。互いが孕む事情ゆえに触れ合いを避けていた2人が、紅く染まりながら1つになった。
「君はここにいなかった。後は俺に任せて」
冷たい雨の夜が境だったろう、彼女の悲しみをすべて背負うのが俺の夢だった。
最後まで抵抗する彼女を何とか説き伏せ、この地獄の家から逃がして「いなかった」ことにする。
――大丈夫だ。
去り際のあの深紅のキスがあるから、もう何もいらない。
罪に苛まれはするだろうが、彼女を苦しめるものはもう何もなくなったのだ。
遠くからサイレンの音が聞こえる。
あと5分もすれば警察がこの家に雪崩れ込んでくるだろう。
――もう十分だ。
ずっと忘れないで、そんな声が聞こえそうなキスだった。
刑務所で過ごす長い時間、君との思い出ばかりが溢れ出して、思い出の扉の向こうの君はかつての綺麗な目で笑ってくれるだろう。俺にはそれで十分だ。だからこんな俺のことも、もう動かなくなった父親のことも忘れてしまって、どうか幸せになってほしいと思う。
サイレンの音が近くなり、予想どおりに警察が乗り込んでくる。
冷たい手錠がカシャリと両手にかけられた時、なぜか時間が止まった気がした。
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