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傘と煙管と簪と
──■■──
『田沼さんのとこで火事だってよ!』
『火消しはまだ来ねェのか!』
夜を爛々と照らす炎の柱。いつもであれば静かな長屋周りの空気は無数の声で掻き消されていた。
「杏。善。家の奴らが逃げたら中に入るぞ!」
「それなら結構前に出て行ったよ。」
「もう逃げた!?馬鹿野郎もっと早く言えよ杏!」
周りの喧騒に負けないほどの明るい声で話す烈と淡々と言葉を返す杏。
親に捨てられその身一つで動乱の世を生きてきた私達三人。生きるために盗みをすることが日常となっていた。
盗みが店主に見つかり殴られることも日常茶飯事。しかし三人でいれば顔を腫らした姿さえ笑いの種に変わった。
ある満月の夜のこと。川沿いの土手に座りながら夜空を見上げていると烈が話し始めた。
「俺さ、旨い飯食ってるときが一番の幸せだと思ってたんだけどよ。こういう静かな月夜の晩に、お前らと何でもねぇ馬鹿話をつらつらと話してるのも悪くねェなってこの頃思うんだよ。」
「烈、お前──。こんな寒い夜に熱に当てられたか?いや、さっき拾い食いしてた饅頭のせいかもしれないな。」
普段は口数の少ない杏も私に続けて口を開く。
「それに馬鹿話って、馬鹿話してるのは烈だけでしょ。」
「善だけじゃなくて杏、お前まで俺を馬鹿にしやがって!」
後ろから杏の首を腕で締め付ける烈。
「ゔぅ。人の言葉を話す猿に襲われてゔ。善も笑ってないで早ぐこの猿引っ剥がしてよ!」
苦しそうな顔でうちに救いの手を求める杏。
三人の純朴な笑い声が川のせせらぎと混ざり合う。
烈の言葉を笑って誤魔化したが、その想いを抱いてるのはうちも同じだった。そしてそれはきっと杏も同じ。
今更照れくさくて伝えられないそんな言葉を声に出して伝えられる烈はなんだか少し大人に見えて羨ましかった。
烈は杏に耳打ちしたかと思うと得意げな顔でうちに話しかけてくる。
「おい善っ。お前に良いもん持ってきてやるからちょっと待ってろよ。行くぞ杏。」
何でもない日。こんな日がいつまでも続くと思っていた。
その二人が戻ることはなかった。
半刻、一刻。待てども待てども影すら見せぬ二人。痺れを切らしたうちは街を歩きながらその姿を探す。
二人を探して四半時程経った頃、雲から顔を出したまんまるな月が辺りを照らし、狭い路地に座り込む二つの影をうちの目に映した。
「お前ら遅ぇよ。全くいつまでうちを待たせるつもりなんだ?烈に合わせて杏まで馬鹿なことやってんなよ。」
そういって杏の肩に手をかける。
振り向いた杏の首と口は切り裂かれ、これまでに見るはずもない夥しい量の血が小さな体を紅色に染め上げていた。
杏の奥に横たわる烈の傷は更に深く、目を見開き息をしようとするたびに喉の裂け目から漏れる風切り音が狭い路地に妖しく響いている。徐々に荒く、大きくなっていくその音が怖くて怖くてたまらなかった。
杏が首の裂け目を小さな手で塞ぎながら途切れ途切れの言葉を紡ぐ。
「盗んだ先でドジ、踏んじまってさ。相手が、悪かった。でも死ぬ前に、もう、一度だけ。善の。善の顔を見たくて、二人で、なんとか抜け出して、来たんだ。ほら。俺らから、善にだ。」
そういって私の手に握らせたのは金と銀と二本の簪だった。それぞれの頭の部分には翡翠の玉飾りが付いていた。
「店主、がさ。俺たちを探して、直ぐに追ってくる。善。俺たちの、ことは、いいから、早く、ここから逃げろ。」
喋るたびに喉元から漏れ出る赤。元々色白な杏の顔色は更に白く変容し、優しいその声も次第に小さく掠れてきていた。
「何杏まで馬鹿なこと言ってんだよ。うちらはずっと一緒なんじゃねぇのかよ。杏の嘘付き!馬鹿野郎!なぁ、烈も黙ってないで何とか言えよ。」
動かなくなる体を揺さぶっても声が落ちるわけでもなく、杏は静かにこちらを見ていた。
怖くて堪らなかった喉から漏れる風切り音がやっと小さくなってくれたのに、今度はその音が消えるのが怖くて堪らなくなっていた。
『クソっ!あの薄汚ェ餓鬼共何処に逃げやがった。』
路地に増えるもう一つの声。
うちに残された時間はなかった。
「分かった。分かったよ!うちがお前らをおぶって連れて行ってやるから安心しろ。善様に感謝しろよ!」
路地にころんと転がる二つの体。それを連れ出すことが出来ないのは分かっていた。頭では分かっているが体が言うことを聞いてくれなかった。背負っては重さに耐えきれず倒れ込む。傍から見れば無理と分かるそんな馬鹿なことを何度も何度も繰り返した。
『おい餓鬼。お前そこで何やってんだ。』
さらなる恐怖が背中に刺さる。
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