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店に着き頼んだ蕎麦を待っていると隣の席で喧嘩が始まった。
俺の悪口を言っただの、借りた金を返さないだのくだらない理由の喧嘩だった。仲裁に入った咲さんは殴り合いに巻き込まれて目の周りを腫らして帰ってきた。
本当は喧嘩の腕は江戸一だが本気を出しちゃあいつらが可哀想だと思って手加減してやった、などと言い訳を並べていた。
馬鹿みたいな話し口で烈を思い出し笑顔が漏れる。
「おっ!善、お前笑えんだな。やっぱ子供は笑ってるのが一番だよ、な?先の見えねぇ真っ暗な森の中に迷い込んだとしても生きていくための道までは俺ら大人が引っ張り出してやるんだから子供はそれまで黙って笑っときゃあいいんだよ。そっからどの道を進むかはお前ら次第だけどな。」
「さてと、それでだ。」
煙草の煙を吐き出すと、それまでの笑顔を消し真剣な表情を見せる。
「どこまで話した?」
いつまで経っても本題に入らない態度と、わざとなのか本気なのか分からないその言葉に苛立ち、つい睨みつける。
真剣な表情が焦ったような間抜けな顔に変わるとまた話し始めた。
「待て待て、安心しろ。今ハッキリと思い出した!何をそんなカリカリ急いでんだよ。急がなくったって蕎麦は逃げねぇよ。」
「そんな話してないし。」
そんな意味の無い会話を重ねているうちに机に置かれた蕎麦を啜るのに合わせて漸く本題について語り始めた。
咲さんは女の人を遊郭などに斡旋する仕事をしている所謂女衒だった。
「いきなり連れ出して悪かったな。まァ飯食わせてやったんだし貸し借りなしって事で。な!それでさっきの話の続きだけどよ、善が嫌なら仕方ねぇ。無理に連れて行くなんてことはしねェ。蕎麦食ったらそこでおさらば。哀れに振られた男が出来上がる、ただそれだけのことよ。」
うちみたいな子供相手にも丁寧に言葉を選ぶ咲さん。時折子供みたいな馬鹿話を挟む咲さんは、烈と話してるときみたいな妙な懐かしさがあった。
「でもよ、怖いところじゃねぇぞ。尤も楽な仕事ではねェがな。何よりアイツがいるから困ったときには助けになってくれるだろうしよ。なんせ俺はアイツの間夫だからな。」
ハハハッと笑う咲さん。
断る理由も無かったうちはそのまま咲さんに連れられて吉原へと向かった。
別れ際、俺はだいたいここにいるからよ、と渡してくれた紙には街の地図が描かれていたが、烈に似て酷く不格好な字だった。
「あの──、」
呼び止めた声に振り向く咲さん。
「“アイツ”って──。」
私の問いにいつもの笑顔を見せる。
「ハハハッ、アイツはアイツだ。まァ、会えば直ぐに分かるだろうよ。」
後ろ手に手を振りながら去っていく咲さん。何故か二度と会えないような気がして、華奢で元々小さいその背中を点になって見えなくなるまでじっと見送った。
それから私は禿として花魁の身の回りの世話や礼儀作法、三味線の稽古に勤しんだ。
『山美ちゃんの突き出しは道中?嗚呼見世張かい──』
『こっちの結い方が横兵庫、そんでもってあっちが伊達兵庫──』
『廓詞っていうのは方言を──』
『またのご登楼をお待ちしているでありんす──』
『もう顔を見せんでようざんす。おさればえ──』
知ることのなかった世界があたしの視野を押し拡げる。
吉原に入って一ヶ月ほど経った頃。反物屋へのお使いが終わり通りへ出ると雨が降り始めていた。傘も持たないあたしはその軒先で雨が止むのを空を見上げながらじっと待っていた。
「その翡翠の簪──。
もしやあんたさんが善でありんすか?」
黒く澱んだこの空に似合わない、夏の澄み切った空の青を切り取ったようなその声。
声に目を向けると目を見張るような絶世の美女が立っていた。吉原で働くうちに花魁達を何人か見ていたが、その姉さま方でさえ霞むような姿だった。
「“レツ”さんに善のことを聞いてから、会いたくて会いたくて随分と探したでありんすよ。」
ニカッ、と笑うその様は咲さんを思い出させた。
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