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「“レツ”?」
聞き覚えのない人の名前にぽっと声が漏れる。
そのお方は一瞬きょとんとした顔を見せたかと思えば、今度は全て分かったような得意げな顔を覗かせた。
「咲之屋、と言われたのでありんしょ。“レツ”はあの人の下の名前なんでありんすよ。枯辻と言いなんしてな、子供の頃にちぐはぐなその名前を散々からかわれた苦い思い出を持ち合わせている故、枯辻の名を言いたくないのでござりんしょ。それをあちきが面白がってこうして今でも呼んでるのでありんすよ。最初は枯さんって呼んでたけんど、段々と崩れて今はレツさんに落ち着いたという訳でござんす。」
咲さんの言葉をふと思い出す。
「うちと同じ名──?」
「そうでありんすえ。あちきは翡然。翡翠の翡に自然の然と書いて翡然。素敵な名前でござりんしょ。」
後光すら感じる眩しいその姿に見合った美しい名前だった。
けれど──。
「・・・同じだけど同じじゃない」
心の内から思わず飛び出た小言に慌てて口を塞ぐと「細かいことは言いっこ無しでありんすよ」と人差し指に口付けしてそのお方は優しく笑った。
「あちきと善の間柄。呼び名は翡然でいいでありんすよ。」
「翡然、殿・・・いや、様?」
「フフフッ、レツさんみたいなことをいう女子でありんすな。」
優しい笑顔を覗かせる翡然様。咲さんに似たその笑顔がまた言葉を思い起こさせる。
「翡然様はレツさんの“まぶ”?」
それを聞き、今日一番の笑顔を見せるその人。
「善。息苦しくて堪らぬ故これ以上あちきを笑わせるのはよしておくんなんし。間夫は真の愛を尽くしたいと思う遊客のことを言うのでありんすよ。レツさんは頭もキレるし、仕事も出来る。顔もまぁ悪い方じゃあ無いけんど──。
あちきは馬鹿な男は嫌いでありんす。
あちきらの関係を他の言葉で表すなら──。腐れ縁といったところでありんすな。」
黒黒とした空の切れ間から漏れた一筋の光がその髪を彩る 翡翠の簪をシャンと照らした。
「さぁ、入りなんし。うちへ帰るでありんすよ。」
一人佇むあたしに差し出される一面の紫に大きく白丸が引かれた雨傘。
吉原へ帰るまでの道すがら。
その人の優しい声と傘に弾ける雨音を傘の内側にしまい込んでそれをずっと聞いていた。
それから程なくしてわっちはその人に付くことになった。
曇り空に光さえもたらすその人といると、烈や杏がいた幸せな過去に戻っているようだった。
一つ歳を重ねた日、翡然姉さまがわっちの頭に触れながら話しかける。
「その翡翠の飾りが付いた簪。いつ見ても素敵でありんすな。」
あの日に烈と杏から貰った簪を指していた。今見れば薄汚れたあの街で売られていたそれ相応の安物の簪。安物だなんだと周りの禿に馬鹿にされることはあっても、褒められたことは一度も無かった。
「ありがとうござりんす。初めて会った時より思うておりやんしたけんど、姉さんのその翡翠の簪も綺麗でありんす。」
「こちらこそありがとうござりんすえ。皆は安物だなんだと馬鹿にするけんど、あちきはこの簪のことを一番好いているのでありんすよ。善。あんたさんの目は天下一でありんすなぁ。良し悪しも分からぬような人達の言うことなんぞ聞かず、あちきの言うことだけ聞きやんしておけばいいでありんしょ。」
翡然姉さんは少し間を開けて話を続ける。
「あちきは吉原一の花魁。揺らす着物の刺繍も持ち合わせも吉原一でありんす。そんなあちきのやることなすことまるっとその通りにしんしたら吉原一の花魁に成れると。そんなことはござりんせん。野暮な考えでありんすよ。
一番にはなりやんしたけんど、あちきの考えが全て正しいとは限りんせん。あちきの影を追い駆け、追い越したその先でどのように進むかがなにより大事なのでありんしょう。どれだけ同じように見える双子でも中を見れば二人の人。その数だけ分かれ道はありんしょうなぁ。」
何かを思い出したかのように表情に僅かの憂いを含ませる。
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