傘と煙管と簪と

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「話が寄り道しんしたな。さてと。この簪は世話になった姉さまから譲り受けたものでありんしてな。命尽きるその間際にあちきにこそ似合いんしょと授けて頂いたものでありんす。狂おしいほど可愛らしく愛おしい善とはいえあげられないのでござんす。 けんど、いつの日か善があちきを超えるような立派な花魁に成った時には譲っても良いかもしれないでありんすなぁ。」 そう言いながら翡翠の簪を撫でていた──。 いつもの反物屋に寄った帰り。道端で座り込む女子(めのこ)に声をかけ、小遣いを渡す姉さんの姿を見かけた。知り合いかと思い聞いてみると「他所の子でありんす。けんど、親を無くし腹を空かせている可愛らしい女子を放っておく理由など無いでありんしょ」と答えた。 後に宿のおっかさんに聞いた話では姉さんも元は捨て子で、わっちと同じように咲さんに連れられてこの吉原に棲み着いたということだった。 わっちは身分や金の隔たりを気に留めず、等しく皆に優しい姉さんが大好きだった。 またある日のこと。わっち宛の一通の(ふみ)が届いた。咲さんからだった。 あれっきり咲さんと会うことは無かったが文のやり取りは続いていた。地方の大名にならないかと声がかかってるだの、隠密の頭としての仕事があるだの。わっちの話をまるっきり無視して一方的でくだらない話がつらつらと書かれていた。 そして度々「咲様からの褒美だ」の殴り書きとともに駄賃を超えるほどの当時のわっちには余りある金が送られてきた。 気遣いはいらないと何度送り返しても、更に上乗せした上でそれをまま送り返してくるのでその内に突き返すのをやめた。その気遣いは一銭足りとも使わずに木箱に貯めておくことにした。いつかこの金で腹がはち切れるまで蕎麦を食べさせてあげよう。そう思って大切にとっておいた。 文の綴られたその字は相変わらず不格好で一枚読むのにも一苦労だった。 けれど、毎回その文の結びに一際大きく書かれてくる言葉達。 「風邪に気をつけろ」「メシはちゃんと食え」「助けてくれる人に感謝しろ」・・・。 短いけれど咲さんの思いを読み取るには充分だった。 「話のここがつまらない」「とめはねはらいがなってない」そんな総評とわっちの近況を綴った文と、一部が破り取られた咲さんからの文を一緒にして送り返した。 文机の引き出しを引くと、不格好で愛らしい言葉達が身を寄せ合って住み着いていた。その部屋を時折眺めては心を温めていた──。 それから六年の月日が流れる。 わっちは小さな部屋で寝たきりになっている人の側で座っていた。 その人の美麗で優しげな顔は面影すら残さず崩れてしまっていた。 横たわるその人の柔らかい手を握り声をかける。 「翡然姉さん。善が来たでありんすよ。」 「善。可愛らしい声がよぉく聞こえるでありんす。」 この小さな部屋の隅々でさえも届かないような、今にも消え入りそうな声が口から漏れる。 「あちきは出逢った頃よりずっと、善を騙し続けていたことを謝らねばなりんせん。」 そう言うと発疹が蔓延る細い腕を伸ばして側に置かれた簪を手に取る。 「あちきの翡翠の簪。世話になった姉さんに貰ったのはそれだけじゃありんせん。あちきが看取った姉さんの名は“翡然”。あちきのこの名は姉さんから簪と一緒に貰ったものなのでありんす。 あちきの本当の名は“善”。あちきの可愛い善とおんなじ素敵な名前でありんしょう。」 「わっちは──」 「細かいことは言いっこ無しでありんすよ。」 心の内をぐるぐると飛び交う、喜びなのか悔しさなのかも分からないその思いをなんとか言葉にして何とか伝えようとするも、それは姉さんの人差し指に引っかかって胸の内へ戻っていった。
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