傘と煙管と簪と

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その男に頭を下げ来た道をとぼとぼと引き返す。その足取りはここへ来たときより更に重く、重しの付いた枷をつけられているかのようだった。 ただ帰ることだけを考えて歩みを進めた。それは考える力が残っていなかったのか、もう何も考えたくなかったからなのかは分からぬ。 咲さんのいた街を日が沈む前に出たものの、吉原に着いたのは日が変わり、昼も過ぎ、日の落ちた頃であった。 部屋に入り文机の前に崩れるように座る。引出しを引くと咲さんの言葉達が顔を見せた。その部屋に新しい紙切れが加わることはもう無いのだと思うと、その賑やかさがわっちの虚しさを余計に駆り立てて益々悲しくなった。 戸棚の上の箱にぎっしりと詰められた金達も使われることは無いのだと知り哀しく泣いていた。 わっちは部屋を抜け出して夜を駆けていた。 その右の手には煙管と翡翠の簪が。左の手にはニ本の安物の簪が折れんばかりに強く握られている。 あの日から七年が経っていた。 背も伸び、手持ちも増え、女の色気も増した。 持つものは増えたが、昔も今もその手には何一つ残っていなかった。 瞳から漏れ止め処なく流れ伝う雫。 誰かを失うたびに見境なく流れ出るこの涙が嫌いだった。まるで誰かが死ぬのを今か今かと待ち構えてるようなそれが。 涙さえ流さなければ誰も死なずに済むのではないかというちぐはぐな考えさえ浮かんできた。 そんな悪態が過去の叫びと重なりあって空虚な胸に響く。あの日と同じく向こうからの音沙汰は、無い。 「どうして皆わっちを一人にするでありんすか。どうか戻ってきておくんなんし。姉さん、また夜を通して恋の話でもいたしんしょう。咲さん、いつか腹一杯の蕎麦を奢ると言いしたでありんしょう。わっちを、わっちをもう一人の夜に置いていかないでおくんなんし。」 細い三日月が浮かぶその夜。わっちの心はぱりんと砕けた。 正確には烈と杏が死んだあの日には既にそれは割れていた。 咲さんと姉さんが砕けたその欠片を丁寧に拾い集め、元の形にはめ込んで中身が漏れないように手で抑えていただけで、その手を失ったわっちの中は漏れた感情達で既に一面濡れていた。 それ以来わっちは人と関わるのをやめた。 愛した人がわっちが関わったことで死ぬならば、最初から関わらなければ死なないと。二度と悲しむことは無いと信じ、誰もいない出会うこともない淋しげな細い道を歩き始めた。 関わるのは遊客との僅かな時間だけ。直ぐに断ち切れる買って買われての薄情な関係がわっちには丁度良かった。宿のおっかさんとも他の新造とも口を利かなくなり、はいといいえだけの貧相な繋がりだけ。 割れに割れた心から漏れ出た感情は歪な形で冷えて固まっていた。その棘は近付くものを不躾に傷付けた。 晴れの日にお天道様の元へ出ても、雨の日に足元を濡らしてもどうにも何も感じなくなっていた。次の日も次の日も、それは変わることは無かった。
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