傘と煙管と簪と

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用足しの帰りしな、通りの隅っこに座る物乞いの親子が目に入る。女子(めのこ)の方は(ここのつ)に届くか届かないかという様子だったが、痩けた身体が真実を有耶無耶にする。何の気なしに近くを歩くと「どうかお情けを」と、母親が手を伸ばす。 「そのような薄汚れた手で触りんしたら着物が汚れるでありんしょ。気安く触れんでおくんなんし。」 はっ、として周りを見渡すも誰もいない。それは間違いようもなくわっちの口から出た言葉だった。 逃げるように立ち去る背中を女子は憐れんだ目で追っていた。犬にも等しいとわっちを蔑んできた憎い大人に自分がなってしまったという現実が前から突き刺さる。 そんな羞恥の思いさえも半刻もすればまっさら抜け落ちていた。それほどまでにわっちの心は粉々にひび割れていた。 そんな淋しい日々を重ねて二年。 ──あちきは太夫と成りんした。 ここへ来た日から低かった背も伸び、漸く姉さんと同じ位まで上り詰めたのでありんす。あちきの意にそぐわぬ客は「嫌でありんす」のひと声で追い返すことができ、皆一様に絢爛な着物を纏うあちきの伺いを立てるのでありんした。 何処かに追いやった、使われることがない銭が詰まった木箱の中身を遥かに越える充分な持ち合わせも手に入れやんした。 そうして地位も銭も全て手に入れた筈だけんど、あちきが心より欲しいものは決して手の届かない何処か遠くに消えてしまったのでありんす。 持てる全てを失ったあちきは、高い所に登れば見える景色は変わると信じて苦を無に変えてここまで登ってきたのでありんす。けんど、その目に映る景色は下で見た景色となんら変わっていないのでありんす。あるのはただ空っぽの身体だけ。 そんなちっぽけで唯一残ったこの命さえも病が奪おうとするのでありんすなぁ。姉さんと同じ赤い斑点と出来物があちこちに出て、痛くて痒くて堪らないのでありんす。 障子を開けど誰一人として見舞いにも来てくれやしんせん。当然でありんす。あちきが遠ざけたのでありんすから。 けんど寂しくは無いでありんす。一人は慣れっこでありんすから。 朝から夕の殆どを床に臥して過ごすようになりやんしたが、その合間を縫ってこうして文机に向かっておりんす。 真白な表紙の冊子を開いて筆を持つ。直ぐに尽き果てる命を居もしない仏様に無理言いやんして先延ばしにして書くそれは、わちきの生立ちを綴った回想録でありんした。 それも今日でようやっと終わりでありんす。  亡き影を 求めて登る 富士の山   その山道に 髄を落とさん ──末尾の空白にそう書き残すと翡然は筆を置いた。 朝の日が小窓から陽陽と差し込むと、光指す方へ目を上げる。 「いい色でありんすなぁ。」 そう呟いた翡然の目に入り込んだ青がゆらんと煌めく。 目線を冊子に戻し、置いた筆をもう一度手に取ると末尾のそれに何かを書き足し満足そうな顔を見せて再び静かに床についた。
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