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いつもより静かな朝にぽつらぽつらと降り出した雨。
その雨は百姓、町人、武士、将軍、街、山、海誰であろうと何処であろうと江戸を平等に濡らしてゆく。あちらこちらでぱっと開く傘に当たって弾ける雫の小気味いい音が街を賑やかす。
四畳半程の小さな部屋に横になっている一人の女。顔には白い布がかけられ、胸の上には三本の簪が横一列に並べられている。
題名のない真白な冊子が置かれた文机の僅かに開いた引き出しから使い古した煙管が顔を覗かせた。
戸から流れてくる風に乗って一羽の蝶々が部屋に入ってくる。その風は胸の上の簪を撫でて奥へと通り抜ける。風に流された簪は、その胸から伸びる枝のようにあちこちを向いて止まった。
その風が閉じられた冊子を捲る。開かれた末尾には弱々しく不格好な文字で『亡き影を 求めて登る 富士の山 その山道に 髄を落とさん』と綴られていた。そしてそれは反対側へこう続く。
亡き人を 憂いて俯く 土の上
哀の溜まりの 真を拾わん
寛永15年2月28日
三代目 翡然花魁(善) 楊梅瘡の為逝去 享年19
人が死ぬとき、その生涯を綴った想いはどこへ仕舞われるのか。
風が吹き開いていた冊子がぱたりと閉じられる。
雨が優しく落ちながらも、青空を見上げる不思議な日であった。
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