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月が満ちていく
仕事以外はダラダラと歩き、目も半分しか開いていないようなこの人が、今日は早足で歩き、目もキョロキョロとあちこちに向いて快活な様子だ。
隣を歩く僕は気付く。そうか、この人は今、休日にショッピングを楽しんでいるのではない。「仕事」をしているのだ。
31日の遅くに仕事が終わり、激務から解放されたこの人は、1月1日の昼頃に起きてきて、カップラーメンをすすってからまた毛布にくるまって寝てしまった。
夕方に起きてきたこの人は、僕が焼いた餅と、店舗で予約して買ったおせちを食べながらビールを飲んだ。おせちに飽きると、チョコを食べながらビールを飲んでいたが。
「明日はさ、都内に百貨店巡りに行くんだけど。一緒に行く?楽しくないとは思うけど。」
チョコを口に放り込みながら、開き切らない目をこちらに向けて言った。
楽しくないって、なんで?
僕は実家からもらってきた餅の伸びを確かめていた。今年は餅米がいまいちだ、と母が言っていたが、僕に違いはわからなかった。
「1月2日は百貨店の初売りたがら。年末の残りがあるかなーとか、あったらどう売ってるか、とか、新年の売出し品はなにか、とか見に行ってんの。毎年。買い物目的じゃないから、歩いてあちこち回るだけで疲れるから…。」
そんな宣告をされたら、めんどくさそ…と正直思ったけど、行かないわけないじゃないか。
12月中はほとんど一緒にいられなかったんだ。一日隣にいられるなら
それだけでいい。
百貨店巡りは、本当に宣言通りだった。目的は百貨店の「地下」。青果、精肉、鮮魚、日配、グロサリーと地下二階から一階をぐるぐる回っていく。
「つまらなかったら、どっか見てきていいよ。」
なんて申し訳なさそうに言われても。僕はこの人の隣から離れるつもりなんてないので、いいよいいよ、と付いて回る。隣というより、後ろか。
「ね、見てみて。」
鮮魚売場の刺し身を指して、小声で僕の袖を引く。
「こっちとこっち、マグロの厚み、違う?」
あー若干、変えてるかな。値段が高いほうが、薄くしてる。
「そういうの、やるもの?」
うちは、切り落としは薄くして、刺し身は大体同じ厚さにしてますけど。
「刺し身の厚さに決まりはないもんねぇ。さすが鮮魚さん、ありがとう。」
僕の肩をトンと叩くが、その手はそこに残りそっとなでられてから離れていく。
それからもちょろちょろと…アメリカ産の牛肉の値段が国産よりいくら高いだ、ほうれん草を根本からじっと見て「ちょっと古いな…」とつぶやいていたり。たまに僕の事を思い出したように、このウィンナー昔売ってたよね?うちじゃロスになってばっかりで…なんて言っていた。
僕には、この人が言ってたことの半分は当てはまり、半分は当てはまらなかった。僕も9年、こんな仕事をしていたし、今だってバイトでやっているくらいだ。物を売る工夫を探すっていうのは面白い。
「買い物目的じゃない」と言っていたけど、見るだけじゃね、なんて言いながら、あじの干物、好きなんだよ、食いたい、このみかん、なかなか見ないブランドだから、とちょこちょこ買い物をしていく。
白いイチゴってどんな味がするんだろう…と目を奪われている間に見失ってしまったあの人を探していたら、良く知っている顔と並んでこっちこっちと手招きされた。
「ごめんね。久しぶりに店長に会って。びっくり。」
隣では僕がバイトで働く店舗の店長が驚いた顔をして僕を見ていた。
「あれ?まだ仲良くしてるんだ?」
「はい、今日は付き合ってもらってるんです。毎年のに。」
ここはしっかり「仕事」の顔で笑うんだ。
店長、お久しぶりです~と、いつもの調子で声をかけると、
「一昨日会っただろう!年末お疲れ様。これ、大変だろ。連れ回されて。下から上に見て回るだけなんだから。」
店長が店舗では見ない顔で笑っている。こっちは休日のお父さんという雰囲気だ。
今日は、ご家族とご一緒ですか?
「家族と来てるんだけど、あっちは上で買い物してる。お父さんはいつものでしょって入口から別行動。クレジットカード持ってっちゃうんだよ。ひどいよなぁ。」
「じゃあ、明日またよろしくね!」と店長は人混みの中をのたのたと少し背中を曲げて去って行った。
あっちは完全に「休日」なんだけどこの人は…。「お疲れさまです。」と店長に手までふっている。
今日の本題は終了。昼食を食べてから、本屋に寄って。見てきちゃうから30分後にここね。と指定されて僕は書架の間に取り残された。
僕は雑誌を見てから、マンガ本のコーナーへ行ってみた。前の彼女はマンガを読んでいたなと、思い出す。
いつも読んでいる少女マンガ、少年マンガの続刊が出ると買って来て読んでいたけど。作風、だいぶ変わったな、と言っていたなと思ったら、ある日全部売ってしまった。そのあたりは彼女が昇進した時期だったから、新しい自分にはマンガは必要ないと思ったのかもしれない。
「やりたいことやってもいいけど、私は嫌だから」と言われた時は、結局いつもこれだ…って、彼女でも自分でもないものを呪った。
ブブ…とバイブが鳴り「先にさっきの所で待ってるから。」と言われて切ると、あけましておめでとうのメッセージが数件届いているのに気が付いた。
帰る前に、牛肉が食べたいと言うので、また地下に戻ったけれど…
「肉、やっぱいいや。こっちにする。和牛メンチかコロッケ、どっちがいい?これじゃなくてもいいし。」
肉、食べたいなら、買えば?
「いいの。フライパン洗う時間ももったいないし。」
帰ろうと電車に乗った時は日が傾き始めていた。
マンションまでの最寄駅に着くと、僕は一つわがままを言った。
こっちの道だと15分、こっちだと25分なんです。
こっちから帰ろう。
球場行きの電車に乗り換えて一駅。マンションの最寄駅は駅前に必要最低限のコンビニ、銀行、居酒屋、塾、不動産屋を備えているものの、少し歩けば車の音よりも虫の音が勝る。
「なんで、嫌だよ。タクシーに乗ってもいいくらいの気持ちなのに。」
紙袋を両手に挙げて笑う。
今日は僕、付き合ってあげたんだから、これぐらいは聞いて。
「はいはい。」
「じゃあさ、これ、リュックに押し込んでくれる?みかんと干物。きっと入るから。」
紙袋を折ってリュックに荷物を押し込むと、見た目はまずかったが、本人は気にならないようで「軽くなった。」と満足してゆるやかな坂道を歩き出した。
「どっちに行っても、坂道なんだね。ここ。」
ちょっとした山の上にあるからね。あそこは。なんでまた…あんなところのマンション買ったの?
「あんなとこって言うなよ。ローン30年だよ。」
さっきから全部笑ってくれる。それはね…と僕の肩に手がかかる
「あんなとこには、君も越してはこないだろうと思って。でも、来たからびっくり。」
なにそれ。冗談でしょ。
この人、実は冗談が好きだ。
「半分ね。…ここは、ファミリー層が少ないから…こんな不便な場所だからさ。ああいう未来は俺にはないから、眩しいの。目に入ると。」
「さびれたニュータウンの一戸建ても良かったんだけど。自治会とかゴミ当番とか大変でしょ?一戸建て、庭付きでこのマンションと同じくらいの値段だったけど。」
マンション談義になってきたが、こんなことを話したくて遠回りをしているのではない、と思い直し。僕は話を無理矢理に変える。
僕ね、さっき前の彼女のこと、思い出してました。正月は2人でどうやって過ごしてたかなって。
何、急に?と目が言っている。
彼女が朝、お雑煮作ってくれて、餅も焼いて入れて。おせちは買わなかったけど、毎年買うかどうするか迷って。結局、伊達巻と黒豆あたりをお皿に盛って出してくれるんです。年末どうだったか彼女の愚痴聞いて。その後はアウトレットに買い物に行ったり、初詣に行ったりしてたんです。
「ふーん。楽しそうじゃない?」
まずい、良い思い出の振り返りになってしまった。完全にしらけてる。
あなたにこうして欲しいって言いたいわけじゃないんですよ。ええと、そんな日々もあったけど。僕は今年のこんな感じも良くて。ん、違うな?
「クリスマスも忘れてたし、俺は正月寝てばかり、でしたが?」
まずい、まずい機嫌悪くなってきた。
あなたが、あなたのままでいてくれて僕は居心地がいいって言いたいんです。
「そんなことないでしょう。料理、洗濯、掃除してくれて、イベントは忘れずに楽しむ。素敵な男女の姿だよ。そういうのに戻りたいなら…」
そうやって、いつか僕があなたを捨てて、家庭を持つだろう。とか考えてますよね?
「思ってないし。俺は君のこと大好きだから、ちょっとのことじゃ、手放さないし。」
実はあいつのことだって、完全に忘れたわけじゃないんでしょう。
なんか話が変わってきたし、僕はこんな話をしたかったんじゃないんだが…。
「じゃあさ、戻りなよ。彼女のところに。俺といるより、明るい未来が君を待ってるよ。」
そうじゃなくて!あ、そうそう。彼女は来月、結婚するらしいです。
「誰とぉ?」
新卒で2年目の…うちの店舗の…
「あいつか…」
ご愁傷様…としか…
「だってまだ…23?24?とかでしょ?彼女と?うわ、かわいそう。そんな早まった選択を…」
自分のことのように悲しむその姿を見て、喧嘩になりそうな気分も萎えた。
「彼女、そんなにまめだったんだ。俺は、あいつになんもしてなかったけど。」
なんもしてなかったんですか?今みたいに?
「年末はビール飲んで寝て、それから正月はずっと寝てたし。2日は6年前から1人で百貨店行ってるし。」
百貨店、付いて来なかったんですか?あの人。
「最初は来たけど、つまんないって次の年からは来なかったな。」
朝、晩の食事とかは?今と同じ?
「同じ同じ!朝は適当に食べて出る。帰ったら自分の食べたいもの食べる。」
自由なんですね。あなたとの生活は。
なんで敬語なんだよ!はっはっは、と今日一番に笑い、マンション、見えた!やっとメンチが食えると足を早めた。
待って待って。わざわざ遠回りして言いたかったことがあって。ええと、あいつのこと、忘れなくていいから、あいつが待ってるなら、それでいいから。僕も、保険がほしいって…言いたかったんです。
足を止めてこちらを振り向く。「保険?」
この先、夢を諦めても、あなたと暮らしていけるように。仕事、頑張りたいんです。バイトから、頼んだら社員に戻してもいいよって言われるくらいに。
彼がニヤリと笑う。「社員になったら毎月5万から増額するかもよ?」
いい、それでも。だから、来年も連れて行って。一緒に百貨店巡り、させてください。
「いいよ。俺は。でも、クリスマスは年末前、正月は初売り前って頭のまま、君には何もしてあげられないけど。それでいいなら。」
いいです。それで。この先、それが嫌になるか、ならないかは僕にもわかんないけど。あなたのままでいてください。そこが、すごく好きだから。
「いいね。そうしよう。君も、君のままでいてくれれば、俺はそれでいいし。君がいいと思うまで、そばにいてほしいんだ。」
この人が手を握ってくれる。
何かを見つけたように上を向き、月を指して問いかけられる。
あの、満月になるの前の月、名前、わかる?
「あれ?」
半月の次の次の日…くらい。満月の前日の、前、くらいの。
「わからない。考えたこと、なかった。」
今夜の月は、確かに微妙な形をしていた。満月と半月の間の、間。明日は満月なのか、まだ満月の前日なのか、俺にはわからなかった。
あ、今、いい…と笑って、月の光で顔が影になり、良く見えなかったけど。すごく優しい目をして口付けられたようだった。
「さ、帰って、メンチ食って、寝よ。あ、睡眠の寝る、ね。
明日は俺…」
早番の6時出なんでしょ。はいはい、僕は7時出なんで。1時間遅く起きますから。
「遠回りしてこの話したかったなら、家で話せば良かったじゃない?」
家に帰ってビール飲んだら、あんたすぐに寝ちゃうでしょ。
男がチョコを食べようと、箱を手にした時、その裏に1枚の付箋が付いていることに気が付いた。
男は、動きを止めてそれを見ていたが、箱を持ってテーブルに置き、開封するとチョコを口に運んだ。
全て食べきってしまうと、その箱を右手、左手と持ち替え、また箱が右手に戻ると立ち上がり、それをゴミ箱に捨てた。
同居人はその動きを全て見ていた。
「おやすみ」と寝室に入る背中に
さっき捨てたチョコの箱にこれ、付いてましたけど。気付いてました?
と声をかける。
「なに?これ、あいつかー。」
ごめん、読んじゃって。こういうの、取っといた方がいいんじゃない?
「そうね。ありがとう。」
男の元に戻った付箋は翌日、また小さく丸められて捨てられていた。男の思い出の中に大切に保管されたのか、書いた男に未練はないのか、同居人にはわからなかったが。
今朝も自分で朝食を作って食べた。食器を洗って家を出た。
月が満ちていく おわり
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