1・我が家の同居人

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◆  同じ屋根の下で暮らす同居人がグリマルディ家に来てから、五年ほどの月日が経つ。相変わらず俺とレイは会話すらまともにしない仲だ。  八歳になったレイは、よく笑い、明るい娘に成長していた。  俺は変わらず趣味のダンスは続けていて、休日は庭で練習をしていることが多かった。  ――その日両親は仕事があり不在で、俺はレイと留守番をしていた。  夕暮れ時に庭でダンスをしていると、レイが窓からこちらを眺める様子が横目に映る。さすがに五年前とは違い、窓から落ちることはないくらい大きくなったが、あの苦い思い出がふと蘇ってしまう。 (何だよ、こいつ、こっち見てくんなよ……)  イヤホンで音楽を聴きながら集中しようにも、レイの姿が気になって全くリズムに乗れない。  物心ついた頃から俺に無視されてきたレイは、積極的に話しかけてくることはしてこない。無言の圧で話しかけるな、といつも俺が訴えているからだ。  しかし、今日は少し様子が違った。 「ねぇ、ヒル兄」  やけにもじもじしながら、レイは作り笑いのような不自然な表情で声を掛けてきた。面倒臭いがシカトするわけにもいかず、一度音楽を止める。 5d32ac3e-aca7-4086-a2ce-cb4820e7715b 「……なんだよ」 「ヒル兄って踊るの上手だよね」 「そりゃお前くらいの年からずっと踊ってきたからな」  返事をするのも億劫なのに、レイは構わずに続けた。 「よかったらさ、私にダンスを教えてほしいな」 「はあ? なんでだよ、嫌だよ」 「いいでしょう、私も踊ってみたい」 「俺は誰かにダンスを教えられるような立場じゃないんだ」 「ずるい、自分だけカッコよく踊れて!」  頬を膨らませてレイは眉を潜める。 「だったら父さんたちに相談してみろよ。お前もダンススクールに行けばいいんじゃないか」 「ヒル兄の通ってるところ?」  スクールに通ってまで踊りたいわけじゃない、という返事を期待していた。が、一時の難逃れのために出した俺の提案に、レイは目を輝かせている。  ――その日の夜。父が帰宅してからレイは、なんと本当にスクールに通いたいと相談をしていたんだ。いつもレイにお願い事をされると、大抵のことは頷いてしまう父だ。もちろんその日も二つ返事で快諾していた。  母もその話を聞くなり、あなたがやりたいことならやらせてあげる、とニコニコの返事。  あっさりとスクールに通うことを許可してもらったレイは、満面の笑みで俺に喜びを向けてくるんだ。 「私も一緒にダンスの練習が出来るんだよ!」  俺は額に手を当てながらふう、と深く息を吐く。 「……あのな、そんなに甘い世界じゃねえからな」  軽い気持ちでダンスを始めた奴の中に、すぐ飽きて去っていく連中を何人も見てきた。どうせすぐに「出来ない」などと言って、こいつも辞めていくのだろう。 ◆  数日後。  いつも通りダンススクールへ訪れ、着替えを済ませてから俺は特待クラスの一角でストレッチを始めた。ダンサーにしては身体が固い方だから、いつも念入りにしている。 「やぁ、ヒルス君」  練習場のドアが開くとほぼ同時に、声をかけられた。  このダンススクールのボスである、ジャスティン先生だ。スクールに通い始めてから今までずっとお世話になっているインストラクターで、俺が唯一リスペクトしているダンサーでもある。ブラウンヘアをばっちりオールバックに決めていて、長い睫毛が今日も際立っている。鏡越しで目が合うと、ウィンクしながら先生はこちらへ近づいてきた。 「毎日一番乗りで準備をしていて、本当に君の熱意には感心するよ」 「いえいえ。早く来ないと落ち着かないんです」  俺の言葉を聞くと、先生は上機嫌に笑う。 「そこも君のいいところだね! 今度新しく入る君の妹も、熱心にダンスを習ってくれたら嬉しいな。楽しみだよ!」 「そうですね……」  俺は思わず心の中で苦笑した。  早速来週から、レイがスクールに通い始める。初級からのスタートだから、特待生の俺たちとは別のクラスだ。関わることもない。  だが、先生は楽しみにしているのか──それを聞くと、何だか複雑になってしまう。  いや、あいつのことはどうだっていい。俺は自分の練習に集中するのみだ。  強くそう思っていたはずなのに─レイがダンスを習い始めて数日が過ぎた頃。 (あいつ、しっかり練習しているのか?)  なぜだろう。ふと、あいつの様子を見てみたくなってしまった。  小休憩中、ほんの軽い気持ちで俺はレイがいる練習場の前を訪れる。それからこっそりと、窓の外から覗いてみた。ヒップホップダンスの基礎中の基礎である、ボックスステップを教わっている真っ最中だった。  レイは──隅の方で、鏡に向かって練習している。  俺は影に隠れながらその様子を眺めた。 「いい? 両足を交差しながら、スクエアを描くようにステップを踏むのよ。ゆっくり、全員でもう一度やりましょう」  先生の言葉に、レイは真剣な表情で姿勢を整えた。  しかし、前列にいた少年が大きなため息を吐いて呆れたような声で言うんだ。 「先生、ちょっといいですか」 「何か質問でもある?」 「いつになったらダンスを教えてくれるんですか」 「……はい?」  ダルそうな声で少年は大きく伸びをすると、その場に座り込んでしまった。 「何を言うの? これはダンスの基本よ。基礎をしっかり習得しないと」 「はぁ。おれはこんなことするためにスクールに入ったわけじゃない。クールな音楽にノッて踊りたいんだよ!」  先生が困ったように立つよう促すが、少年は不貞腐れたように眉間に皴を寄せて言うことを聞かない。  俺はその様子を見て心底呆れた。 (たまにいるんだよな、ああいう奴。ベースもクリア出来ていないのに、音楽に合わせて踊りたいだと?)  他のメンバーも困り果てている。一人の少年のせいでレッスンは完全に中断された。  お節介ながらも、口出ししてやろうかと思った。ゆっくりとドアノブに手を掛け、中に入ろうとした。──そのときだ。 「先生、お願いです。このままレッスンを続けてほしいです」   遠慮がちで声は小さかったが、はっきりとした口調だった。一歩前に出てインストラクターに懇願したのは、紛れもない、レイだったんだ。  胡座をかきながら汗を拭く少年は、面白くなさそうにレイを見上げる。 「何だよ、お前。こんなつまらないレッスンでいいのかよ?」 「つまらないも何も。基礎練習はダンスをする上で重要だって最初に聞いたよね?」 「ふん。おれはそんなもんすっ飛ばして思いっきり踊りたいんだよ!」 「君は基礎を身につけなくても踊れるんだね。ここにいても退屈なわけだよ。私には真似出来ないから、羨ましいなぁ」 「お、お前……」  少年は勢いよく立ち上がった。  それでも引く様子も見せず、レイは少年を眺め続ける。 「そこまでよ」  パンパンと手を叩き、先生は二人の前に立った。 「ボスに言われなかった? ダンススクールでは生徒もインストラクターもみんな仲間なの。一人の勝手な行動で、チームを乱すなんて御法度よ。基礎練習が嫌なら休んでもらってもいいわ」  厳しい口調で言われると、少年は歯を食いしばった。 「わ、分かったよ。仕方ないからやってやる……」 「ふふ。でも、君の気持ちは分かるわ。基礎練が終わったあと、最後に軽く音楽を流して踊ってみましょう。いいわね?」  少年はムスッとしながらもぎこちなく頷いた。  その後、レイは何事もなかったかのように自分のポジションに戻り、ステップの練習をこなしていった。  少年はというと、集中力が完全に切れたのだろうか、誰よりも動きが乱れてしまっている。  一部始終を見た後、俺はドアノブにかけてあった手をそっと放した。  ──正直、意外だった。どうやらレイはかなり真剣らしい。  まだまだ始めたばかりではあるが、ボックスの踏み方はそこにいる誰よりも滑らかで、機敏で、綺麗なんだ。必死に鏡に向かって何度も同じ動きを繰り返し練習していく。  その顔は、家にいる甘えん坊の八歳のレイとはまるで違う。  彼女の姿を見て、俺の中で何かが変わっていくのを感じる。この気持ちが何なのか、今ははっきりすることはなかったが。
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