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その日以来、俺とレイはダンス練習を強化するようになった。互いが家にいる僅かな時間さえあれば、五分でも十分でも庭に出て踊るようになったんだ。
家の庭にはたくさんの花が植えられている。しっかり手入れされた花壇の横で、二人で汗を流しながらとにかく必死になって練習を続けた。
俺がどんなに些細な動きを指摘してもレイは素直に聞き入れ、改善しようと努力していた。彼女が頑張れば頑張るほどついアドバイスにも熱が入っていく。
レイは弱音を吐くことなく、むしろどんどんやる気を出しているようだ。
俺たちが熱心にダンス練習をしていると、いつしか父と母はキッチンの窓からこちらの様子を眺めるようになった。どことなく二人共安堵しているような、優しい眼差しを向けてくるんだ。
「ヒルス、ありがとうな」
唐突に父と母が俺に向かって話してくる。
「レイと仲良くしてくれて、嬉しいわ」
「いや、別に。あいつが大会に初めて出るって言うから」
照れ隠ししながらわざと低い声で二人にそう返す。しかし父も母も、優しい笑みを絶やすことはない。
「レイの為に、あんなに熱心になってくれるなんて」
「今度の大会が楽しみだ」
そうやって、二人は幸せそうに笑うんだ。
――最初あいつが家にやって来たとき、なぜ父と母はレイのことをあそこまで溺愛できるのか、正直疑問だった。でも今ならその理由が分かる気がする。
レイはとても愛嬌がある子だ。家族に対してだけでなく、スクール仲間にも友だちにも先生にも、そして俺に対しても。それでいて素直で努力家なところがある。
ダンスを通して、俺はレイの良い部分を知ることが出来たんだ。
だがやはり妹として見ることは難しい。ただの同居人というわけではなくなったが――どちらかと言うと俺の中でレイは、趣味の合う友だちという、ちょっとだけ親しい関係になれた気がする。
◆
ただひとつだけ、気になることがあった。
深夜眠りについていると、隣の部屋から苦しそうな声が聞こえてくる。そのことに気がついたのは、俺とレイの関わりが深くなった頃だろうか。
「やめて」
「痛い」
「熱い」
「ごめんなさい」
「許してください」
「もう泣かないから」
「お願い、お願い……」
悲痛な叫び声を聞き、俺はその日も目を覚ましてしまった。
時刻を確認すると、深夜の二時前。いつもこのくらいの時間になると、魘されているレイの悲鳴が壁を伝って俺の部屋の中にまで届いてくるんだ。
そっとベッドから起き上がり、レイの部屋の前に立ち軽くノックした。
「おい、レイ」
……反応はない。
彼女の耳には届かないかもしれないが「入るぞ」と声をかけてから、ドアをゆっくりと開けた。
するとそこには、ベッドに横たわりながら目を閉じて小さく唸るレイの姿があったんだ。
額に汗を滲ませ、何かに怯えるように首を左右に振り「やめて」と、何度も何度も誰かに懇願するように声を上げていた。
「レイ……?」
名を呼んでも、返事はない。
――父と母には言えないが、レイのこの悲痛な叫び声を俺は既に何度も聞いている。この魘されかたは尋常じゃない。彼女が起きている時、絶対に見ることのないその怯えた様子は、俺の胸が張り裂けそうになるほど苦しいもの。
「レイ、起きろ。平気か」
肩を軽く叩き、優しく揺さぶってみる。
しばらく唸り声を上げていたレイだが、ハッとしたように瞼を開き、虚ろな目でこちらを見上げた。
「……ヒル兄?」
息が荒くなっているレイはまだ状況が把握できていないのだろう、俺を見つめたまま固まってしまう。
そんな彼女の頭をそっと撫でてから、穏やかな口調で言葉を向ける。
「大丈夫か。変な夢でも見ていたんだな」
レイは束の間目を逸らし、瞳の奥を滲ませた。感情を堪えるように歯を食い縛るんだ。
「悪魔が、いるの」
「……え?」
「暗い部屋の中で、いつも悪魔が私の隣にいるの。怖い顔をして、叩いたり殴ったりしてくるんだよ……」
低くそう話すレイの瞳から、恐怖に包まれた一粒の雫がこぼれ落ちる。暗がりの中、頬が濡れていくのを俺は気づいてしまった。
居たたまれなくなり、どうしていいのか分からず、けれど身体だけは――そんなレイを慰めてやりたいと言う気持ちが溢れ出ていた。声を殺して肩を震わせる彼女のことを、そっと抱き締める。
「心配するな。ただの夢だよ。どんなに怖くても、目を覚ませばそれで終わりだ」
「……うん」
暫しの間口を閉ざし、震えるレイの背中を擦り続けた。
室内はしんと静まり返り、時折外からの風の囁き声が通り過ぎるだけとなる。
どれほどの時間が流れたか分からない。腕の中で小刻みに揺れていたレイは、しだいに落ち着きを取り戻し、ゆっくりと俺の方に笑みを向けてきた。
「ヒル兄」
「ん?」
「ありがとう。……もう平気」
掠れた声だったが、表情は穏やかだ。そっと彼女を包み込む腕を離し、俺もふと微笑んでみせた。
「一人で寝られるか?」
「もう子供じゃないから、大丈夫だよ」
「そう言っているうちは立派なガキだな」
わざと意地悪く言うと、レイは頬を膨らませて俺の腕を軽く叩いてくる。
「もう。私を子供扱いして」
顔を赤くするレイのリアクションがなんだか可愛く思えてしまう。
普段の調子に戻った様子を見て、本当に落ち着いたのだろうと判断した俺は、自分の部屋に戻ろうと背を向けた。
「ヒル兄」
名を呼ばれ、もう一度振り返る。
優しい笑みになってレイが俺に向かって静かに言うんだ。
「おやすみなさい」
何でもない挨拶の言葉だ。それなのに、その一言がとても透き通った音色に聞こえた。俺は小さく頷き、
「おやすみ」
そう返事をしてから、再び自分の部屋に戻ってベッドへと身を投げる。
――多分、レイはまた悪夢を見てしまうのだろう。俺はなんとなく直感で分かった。
本番前で疲れているのだろうか。いや、大会に出ると決まる前からレイは深夜になると魘されていたんだ。
とにかく、またあいつが怖い夢を見て怯えていたら俺がなんとかしてやろう。
天井を眺めているうちに欠伸が出た。いつの間にか俺は目を閉ざして寝息を立て、そのまま朝を向かえる。
◆
レイは大会が近くなるにつれ、スクール後も居残り練習をするようになった。もちろん俺もそれにとことん付き合う。レイの頑張りを見て、ジャスティン先生も遅くまでいつもダンスの指導をしてくれた。
「うん。なかなかの仕上がりだよ。ヒルス君もそう思うだろう?」
練習中は厳しく指導するジャスティン先生だが、レイのダンスにはやはり光るものがあり、先生もそれを認めている。
俺は大きく頷く。
「正直、ここまでレイが出来る奴とは思いもしませんでした。今度の大会、もしかすると入賞もあり得るんじゃないですかね」
俺は偽りのない感想を述べた。レイはダンスの汗を流しながら嬉しそうに、しかしどこか戸惑ったような顔をしていたんだ。
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