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『神様、どうしてですか。
どうして、僕の大切な人をいとも簡単に連れて逝くのですか』
妻を亡くした男は、そうブツブツと呟いていた。
男の名は灰谷修二。
妻である灰谷柚子を病気で亡くしてからずっとあの調子だ。
仏壇の前で泣き続ける灰谷を影でそっと見つめる女の名は、相川日奈子。
柚子の双子の妹だ。
日奈子は柚子にそっくりで唯一の違いは日奈子には涙ボクロがあることだけである。
心配でいたたまれない日奈子は灰谷の背中を思わず抱きしめた。
日奈子は、すぐにやめといたほうが良かったのでは、と後悔をした。
『ごめんなさい』と日奈子は謝る。
『柚…子?』
あろうことか日奈子を柚子と見間違えている。
日奈子は訂正しようとしたが、灰谷のあまりにも憐れな笑顔を見たら訂正なんてできなかった。
『はい、柚子ですよ』
日奈子は顔を引きつらせながら笑うが、灰谷は気付かずに日奈子を抱きしめる。
柚子は震えながら抱きしめられた。
それから日奈子は“柚子”として生きることになった。
朝起きたら柚子として、灰谷を起こす。
『修二さん、おはようございます』
灰谷は微睡む瞳で柚子を見上げる。
彼の瞳に映るのは、日奈子ではなく“柚子”なのだが、日奈子はいつもその時間が何よりも憂鬱なのだ。
それでも日奈子は懸命にそれを隠して笑顔で灰谷を起こして、朝ごはんを振る舞う。
黄金色をしたフレンチトーストに赤く艶めくプチトマトのフレッシュサラダに玉ねぎと人参とトマトのスープ。
朝ごはんらしく軽めに作ってみたが、灰谷は相も変わらず『柚子の朝ごはんは今日も美味しいな』と残酷なことを平然という。
はやく朝が終わって、と日奈子はひたすら願う。
灰谷が仕事に行ってから涙に暮れるのが彼女の習慣だから。
彼女が彼女でいられる時間なのだから。
ある日の夜、日奈子は耐えきれなくなってついに告白をした。
『あなた、いい加減にしてください。私は柚子じゃない、日奈子だ』
目に涙を溜めながら、彼女は叫んだ。
『なにをいってるんだ、柚子』
灰谷はきょとんとした顔で“柚子”を見つめる。
日奈子は絶望した。
もう“日奈子”として生きることなんてできないことを彼女は悟った。
『ごめんなさい、私は柚子なのに嘘をついて』
涙を拭き、笑顔でそういった。
『もう、変な嘘つくなよ』
そういいながら、灰谷は“柚子”の頭を撫でる。
彼女は、それを甘んじるしかできなかった。
それからも、日奈子は日奈子として生きるのをあきらめ、柚子として生きている。
灰谷の仕事は軌道に乗り始め、家を買い、子どもを身ごもり、やがて子が育ち離れていく。
定年後、灰谷は家にいることが多くなった。
家事の分担は気付いたら、灰谷が料理、買い出しで柚子が掃除、洗濯になっていた。
日奈子はいつものように洗濯物を畳んでいたら、灰谷はじっと見つめていた。
『日奈子』
灰谷は日奈子の名を呼んだ。
日奈子は驚き、灰谷のほうを振り向く。
『日奈子、いままでごめんな』
灰谷は、申し訳なさそうに目を伏せた。
日奈子は涙をポロポロと流し、ずっといえなかったことを灰谷にいう。
『修二さん、私、ずっとあなたのことが好きだったの』
それを聞いた灰谷は無言で日奈子を抱き寄せた。
日奈子はとびきりの笑顔で抱きしめられた。
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