出発前日の奇蹟

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  1  山岸夫妻がフルムーン旅行に出発する前日、自宅の台所で電話のベルが鳴った。昼下りのことだった。喜久雄は夫婦水入らずの時間を邪魔された気がして、むっつりした顔を紀美子に向けた。  ちょうど二人の昼食が終わったところで、流しの窓から四角い陽射しがよく磨かれた床に射し込んでいる。  紀美子は特に気にする様子を見せず、むしろいそいそとして立ち上がった。 「あなた、達也よ。間違いないわ。もうあの子はいつもそうなんだから」  紀美子はコロちゃんのスリッパをパタパタさせて、電話機に飛びついた。  喜久雄は湯呑を置いて言った。 「まったく、電話の一つも寄こさないで、あいつは……」  喜久雄はぶつぶつ独り言をこぼしながら湯呑のお茶を喉に流し込んだ。彼は半日かけて台所と居間、そしてガランとした息子の部屋まで丁寧に雑巾がけし、疲れている。  紀美子は受話器を持ち上げ、「はい、山岸です」と言った。 「母さん? おれだよ。さっき東京駅に着いたところ。それでさ――明日は何時に出発するんだっけ? この前聞いたけど覚えてないんだ」  達也の声は悪びれることなく、受話器の向こう側で笑っているようだった。  紀美子は微笑み、喜久雄の不機嫌な顔をちら見して、口元に手を当てる。 「午前十時。家の鍵を渡したいから余裕を持って来てちょうだい。お父さんったらね、朝から珍しく掃除なんかして、よっぽど楽しみにしてるみたいよ、明日からの旅行。それで今日はどうするの?」  紀美子は夫がケロちゃんのスリッパをパタパタさせて、のんきに食器を後片付けしている姿を見た。 「とりあえず東京でうまいもんでも食ってから考える。急いでアパートを飛び出したから何も食べてないんだ。大丈夫、時間に間に合うように行動するよ。今日は秋葉原のマンガ喫茶にでも泊まるから心配しないで。じゃ、父さんによろしく」  達也は返事も聞かずに電話を切った。  紀美子は目を細めながら受話器を下ろし、流しの前に立っている喜久雄に言った。 「達也は元気そうよ。前もって秋葉原のホテルを予約してるって。それに明日の約束の時間もちゃんと覚えていたわ。さすがあなたの息子ね。ほんと親子とはいえ、こうまで似るのかしら」  紀美子の言葉に喜久雄は、まんざらでもなさそうに掌であごをさする。 「そうか。あいつにはおれの血が流れているからな。几帳面なところが似ているとたしか……小学校の先生だっけ? まあ、とにかくいわれたことがあった気がする」  得意満面の夫に紀美子は、吹き出すのを懸命にこらえている様子だった。 「あ、あらそうなの。知らなかったわ」そう言ってすぐに、もう一度口元に手を当てた。   2  二人が住んでいる北国の秋は短く、常緑性の針葉樹に紛れて季節の移り変わりを見過ごしがちだった。油断していると、いつの間にか空が雲に覆われ、すぐに長い冬が到来してしまう。「幸運の女神には、前髪しかない」というのは英語のことわざで、原文は、レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉らしい。喜久雄はそれを知ってか知らずか、窓越しに広がる青空に気づくと、居間のサッシ窓を開けて、涼しい風を室内に取り込んだ。昨日と打って変わって、今日は本当にいい天気だった。日に焼けたレースのカーテンが踊り、裏庭から澄んだ空気の匂いが舞い込んできた。  居間のソファに腰掛けていた紀美子が、「気持ちがいいわね」と言った。  喜久雄は何も言わず、彼女の隣に腰を下ろした。お互いの指を絡ませている。  二人は三十数年間連れ添ってきた。たがいに相手の存在が安らぎとなり、達也が家を巣立ってからめっきり会話が少なくなっても、それは変わらなかった。  貴美子が口を開いた。「あなた、今までありがとう」  喜久雄の目に不安の色が浮かんだ。 「そんなことをいうのはやめろ。おれたちの人生はこれからじゃないか。寂しいこというなよ」  居間の卓袱台には、JRが発行したカードサイズの切符が置いてある。  夫は「フルムーン夫婦グリーンパス」と印字された切符と昨日本屋で買った日本地図に視線を落とした。 「だけどね、わたしが先に死ぬことはもう決まっているの。あなただって知ってるでしょ?」妻は夫にかまわず、言葉をつなげた。「末期がんだってことは、あなたが黙っていてもやっぱりわかるのよ。だって自分の身体ですもの」  かすかな笑みを浮かべる妻に夫は言った。 「そんなことわかんないぞ。明日になったらおれが先にぽっくりいくかもしれない。現にうちの親父がそうだったじゃないか」 「あなたの身体は頑丈そのものよ、山岸先生。高校生相手に定年まで柔道を教えていたおかげで強くなった。わたしの内臓はぼろぼろだし、もう疲れてしまったわ。来年もこうしていられるか、それすらわからない」 「おまえの世話はおれの仕事だよ、紀美子。今まで散々苦労をかけたんだ。少しでも長く生きてくれよ。おまえのいない人生なんておれには耐えられない!」  喜久雄は語気を強めた。紀美子は困った顔を夫に向けた。 「達也がいるじゃない。わたしがいなくてもあの子がいるわ」 「そういう問題じゃない」喜久雄は首を振った。「おれより先に死んでもらいたくないんだ」 「わたしだってそうよ。当然じゃない。それにあの子を愛しているけど、世話にはなりたくないわ。あの子はいずれ結婚して家庭をもつんだもの。老人なんか邪魔になるだけよ」  喜久雄は笑った。「なんだ、おれたちは二人とも勝手だな」  紀美子の目元のしわが一段と深くなった。 「そんなにいうのなら一緒に、ぽっくりいければいいわね」 「まったくだ」  尿意をもよおした喜久雄は立ち上がり、トイレに向かった。振り返って紀美子の背中を見守る。先月退院したばかりで、入院前より小さくなっているようだった。彼女は日本地図を眺めているだけだったが、喜久雄には臨終のことを考えているのがわかった。  彼はひどい孤独感に襲われた。  彼女と同じく、死ぬことよりもひとり残されるほうが怖かった。つれあいがいなくなれば、彼は生きているのではなく、生きているふりをするだけの人形になってしまう。  神様、仏様。彼は心の中で祈った。なんとかなりませんか?   3  喜久雄がトイレから戻ったとき、紀美子はソファで横になっていた。その顔はしわもなく、妙に若々しく見えた。寝ているときは彼女の中に巣食う病魔のことを忘れられるのかもしれない。  前髪が風でそよいでいる。彼の目にはいつまでも変わらない妻の寝顔。そして柔らかい陽射しに照らされている愛しい片割れ。彼にとってこの一瞬、この時間がとても価値あるものに感じてならない。  彼はスリッパを脱いで、畳の上を猫のように足音を立てずに歩き、押入れから薄手の毛布を引っ張り出すと、彼女の身体ににそっとかけた。  念のために指をつばで濡らし、鼻のそばに近づける。 「よかった」  彼は素直に安心する。「まだだぞ。まだ駄目だからな……おれを置いていかないでくれ」ささやくように言った。   4  電話のベルが鳴ったとき、喜久雄は台所で手紙を書いていた。一瞬だけベルの音がいつもと違うような気がしたが、紀美子を起こさないように必死で電話機に駆け寄り、受話器を持ち上げた。 「はい、山岸です」 「おじーちゃん? あたし、ミユだよ。わー、ほんとにつながった! ヤッター!」  耳をつんざく女の子の声だった。何歳ぐらいだろうか? 受話器の向こう側でキャッキャと騒いでいるようだ。思わず耳から受話器を離した。居間に目を向けて、紀美子が目覚めていないことを確かめる。受話器のコードを伸ばしても手が届かなかったので、一旦置いてからガラス戸をゆっくり閉めた。  それから喜久雄は眉をしかめると、 「お嬢ちゃん、間違いじゃないのかな? おじちゃんはね、山岸喜久雄ですよ」と受話器に向かって優しく諭した。 「しってるよ。だってパパからそうきいたもん。ミユのおじーちゃんのなまえはね、『やまぎしきくお』っていうんだよ。だから、おじちゃんはミユのおじーちゃんなの。ねー、おじーちゃんのこえ、パパにそっくりだよ!」  喜久雄は目を丸くした。言葉が出てこない。 「ねー、ミユの声、きこえてる?」  女の子からの問いかけに、「もちろん」と答えるだけで精一杯だった。受話器を持つ手に汗が滲んでいる。視線が泳ぎ、どこを捉えても今の状況を説明してくれるものはなかった。  しばらく女の子は誰かと話しているようだった。ややあって、女性の声に代わった。 「うちの子がすみません。夫がこの番号に電話するようにって言ったものですから。あの……それで、たいへん失礼ですが、そちらは山岸喜久雄さんのご自宅でしょうか?」 「ええ、そうです。それが何か?」 「そんな、信じられない! あの、わたくし、山岸達也の妻です。沙織と申します。はじめまして……いえ、そうじゃなくて、ああ、もうなんていったらいいのかしら……」  女性は狼狽しきっているようだったが、喜久雄も負けていなかった。口の中がカラカラに乾いてどうしようもない。しかし、どういうことだ? 達也は独身で大学院に通っているはずだが。まさかおれたちに黙って籍を入れていたとか? 「父さん、おれだよ。達也だ。久しぶり、とでもいえばいいのかな? とにかく時間がない。今からいうことをよく聞いてくれ」  今度は間違いなく達也だった。やや落ち着いた感じに聞こえるが、一人息子の声を忘れるわけがない。彼の胸に怒りがこみ上げてくる。 「達也! おまえ、どういうつもりだ、こんな手の込んだいたずらをしおって!」 「父さん! 頼む、一生のお願いだ。落ち着いて聞いてくれ。これはいたずらでも、冗談でもない。ただ、強いていえば、奇跡――そうだ! これは奇跡なんだ。そうとしか考えられない」 「……おまえ大丈夫か? 勉強のしすぎでおかしくなったんじゃないだろうな」 「残念だけど、そうじゃないみたいだ。今のおれだって信じられないと思っているぐらいだからね。ところで、父さん。今からいうことをメモしてくれないか」 「ふん。わけのわからないことを。いいから明日十時までにこっちへ来てくれ。母さんからそう聞いているだろう?」 「いいから早く! さっき言ったとおり、あまり時間がないんだ」  逼迫している感じがひしひしと受話器から伝わってきた。あの息子が一生のお願いとまでいっている。頑固者で父親に頭を下げることが嫌いなあいつが……。 「……早くいえ。時間がないんだろ」 「よし。こっちの今の時間は二〇三三年十月十日午後四時四分。それをそっちのおれに、どんな手段でもいいから伝えておいてくれないか。そしてその時間になったら実家に電話するようにとも。いいね」  喜久雄は溜息をついた。「おまえのいっていることは何一つわからん。わけを教えてくれ、わけを」 「そうだな。一つだけいえることは、二〇二二年十月十日午前四時四十四分、つまり明日の早朝にそこでなにかが起こる。そして父さんと母さんは二人とも死んでしまうんだ。間違いなくね。だから……。いや、そこから先はいえない。だってこうして未来のおれが話をしていることで、さらに未来が変わるかもしれないじゃないか。そうだろ、オカルト好きの山岸先生」 「はは、面白い。最近の秋葉原では『未来電話』ゲームでも流行っているのか? よし、ちょっと待ってろ。今から母さんを呼んでくるからな」 「やっぱりノリがいいね、父さんは。でも早くしなよ。いつ電話が切れるのかわかんないんだから」  喜久雄は受話器を置いてガラス戸を開けると、貴美子が立っていた。 「あなたの声が聞こえてきたから……。ねえ誰なの?」  心配顔を向ける妻に喜久雄は微笑んで答えた。 「達也だよ。それにあいつの嫁と孫も一緒だ。おまえも話してみるがいい」 「あなた……酔っ払ってるの?」 「いや」にこりとすることしかできなかった。  紀美子は不思議そうな顔をしていたが、夫にすすめられるままに受話器を握り、話を始めた。少しずつ彼女の顔が明るくなり、途中から「ミユちゃん」とか「沙織さん」などと言って、和気あいあいと話している様子が見て取れた。  喜久雄はナンバー・ディスプレイの表示が、オール・ゼロであることを認めてからその場を離れた。そして、書きかけの便箋を破り捨て、新たに一枚書き直した。  内容は先ほどメモした時間とここの電話番号。用件は書いていない。どうするのか決めるのは達也自身だ。聞かれても教える気はない。あいつは先の見える物語なんかに興味はないはずだ。だっておれの血を引いた息子なんだから……。   5  午後八時。二人はいつもより少し早めに床についた。明日から七日間のフルムーン旅行が待っている。体力を温存しておこうと紀美子が言いだしたからだ。  布団を二つ並べて、お互いの指をからめる。それだけで満足していた。しかし今日は少しだけ違った。いつも寝つきのいい紀美子が、珍しく興奮しているようだった。 「達也のお嫁さん、沙織さんですって。それにわたしたちの孫はミユちゃんよ。やっぱり女の子ってかわいいわね。わたしも男の子より女の子が欲しかったわ」 「やめなさい。達也が聞いたらふてくされるぞ。それにあれは秋葉原の新しい商売に決まっている。サプライズ・サービスだか何だかしらないけれど、老人を喜ばせるためのな。それくらいわかるだろう?」 「だって……わたしには後がないのよ」 「……いいから寝よう。おれも疲れた。明日はおれが朝ごはんを作るよ。おまえはゆっくり起きればいい」  束の間、二人とも喋らなかった。やがて、紀美子が口を開いた。 「わたし決めたわ。ガンだろうがなんだろうが、病気なんかに負けてたまるもんですか。ミユちゃんをこの手で抱くまで生き延びるのよ。ね、あなた。わたしに手を貸してちょうだい」 「ああ。もちろん。もちろんだとも」喜久雄は片肘を起こすと、妻の顔を見た。「その調子だ、紀美子。二人で長生きしよう」  妻の顔が、サッシ窓から透けてくる四角い月光に照らされて輝くように見えた。  奇跡……。達也の言葉を百パーセント信じるわけではないが、ゼロとは言い切れないだろう。少なくとも紀美子の目には、生きようとする強い意志が宿っている。  まもなく紀美子は眠り、高いいびきをかいた。そんな妻とは対照的に喜久雄は眠れなくなる。原因の一端は、達也からの電話のせいだった。しかし、大部分は、『生きたい』と願う紀美子の言葉のためだった。  喜久雄は当初、遺書を書いていた。七日間の旅行が終わったら、その途中でもいいのだが、夫婦で心中しようと考えていた。手を付けていない退職金も、この崩れかけた古い家も達也に残し、後腐れがないようにして。  それに、明日の早朝になったら二人とも死ぬとの達也の予言。喜久雄はそれを信じているわけではないが、それならそれでもいいと受け止めていた。むしろそのほうがいいとさえ感じていたぐらいだ。  彼はもう一度片肘を起こし、妻の顔を眺めた。夜空の雲が風に流され、しわのない寝顔が月光に照らされると、暗い寝室にはっきり浮かび上がった。 「だめだ……」喜久雄は言った。「おれには……おれにはできない……おまえと心中なんて……そんなことやっちゃだめだ……」   6  十月十日午前四時四十四分。台所に吊るされている天井灯が揺れだした。徐々に揺れは大きくなり、やがて揺さぶるような横振動に変わった。建屋はそれに共振するように傾き、戻りを繰り返す。  拭き掃除のために外していた突っ張り棒の支えを失った寝室のタンスが、布団に向かって将棋倒しのように次々と襲いかかる。台所の水屋も同じくテーブルに倒れ込み、ガラスが、食器が割れて飛び散った。  老朽化の激しい風呂場のガス・ホースが外れ、プロパンガスが漏れ出した。ガスの比重は空気よりも大きく、締め切られた風呂場から床を伝って、廊下と台所に充満していった。  ガスは外気温との差で、さらに室内での対流を繰り返し、空気と混ざり合いながら濃く厚く床を覆い始めている。  地震の揺れが収まりつつあるのに、家の中で動く人影はなかった。代わりに外をうろついていた野良猫が、尻尾を丸めて去っていった。庭を駆け抜け、その向こうの草むらに姿を消した。隣の家までは五十メートル。そこにたどり着くまでに揺れは収まった。  ややあって第二波が来た。今度はさらに揺れが大きく、長い時間続いた。  台所のテーブルが滑り、朝炊き予約されていた炊飯器のコードが突っ張って、コンセントから抜けそうになる。  火花が散った! トラッキング現象だった。  一瞬で引火し、ガス爆発が発生した。全ての窓が爆風で吹き飛び、ガラスの破片が四方八方に飛び散った。同時に凄まじい炎が室内を走り、突き抜け、ふすまを、畳を、壁紙を瞬きする暇もなく黒焦げにした。平屋の天井まで燃えだすのに、それほど時間はかからなかった。喜久雄の父親が残してくれた家が、まるで消火訓練用の小屋みたいに赤黒い烈火で包まれていた。   7  午前四時四十五分。喜久雄は今年の四月に購入したばかりの四駆で東北道を南下していた。助手席の紀美子はすやすや寝息をたてている。後部座席とトランクには乗せられるだけの荷物を乗せていた。まるで夜逃げだった。  彼は昨晩、妻を起こし、通帳、保険証書、貴重品、着替え、身の回り品、その他当座の生活に困らない程度の荷物をまとめて車に積み込んだ。それから午後十時に出発。もう自宅には戻らない決心をしていた。とにかく南へ。暖かい土地へと向かおう。ハワイに移住した日本人の中に末期ガンを克服した人がいる。そんなよもやまのうわさ話でもよかったのだ。二人に必要なのは希望であり、それを支えているのは好奇心と少しばかりのお金なのだ。  そして午前五時。次のパーキングを示す標識が喜久雄の視界に入った。カーナビはあと三キロメートルと表示している。ここらで休憩しようと考えた。徐々に東の空が白み始めていた。遠くの山々が田んぼのはるか彼方に見える。日本の風景なんてどこも同じだなと思った。思わず、くすっと笑う。その音に反応したのか、紀美子の目がうっすらと開いた。 「なあに。何がおかしいの?」 「なんでもないよ。次のパーキングで休憩しよう」 「なんだか新婚時代を思い出すわね」 「そうだな。もう一度結婚式でも上げるか?」 「あら、いいのかしら」 「いいとも!」  二人は声を合わせて笑った。あやうく喜久雄は、ハンドルを切りそこねるところだった。   8  トイレから戻ってきた紀美子は、「寒い、寒い」と繰り返しながら助手席に滑り込んできた。喜久雄はハンドルに寄りかかり、じっとフルセグの車内テレビを見ている。地震速報が流れていた。津波の心配はないらしい。そのうち、自分の家が報道されるかもしれないと予想している。 「あなた、震度五強の地震だって。さっき高速道路情報で見たわ」  紀美子が話していると、彼女の携帯電話が鳴った。達也からだった。 「母さん? おれだよ。さっき地震があったみたいだけど、そっちは大丈夫?」 「心配してくれてありがとう。わたしもお父さんも大丈夫よ。実はね、車でそっちに向かっているところなの。午後には会えると思うんだけど」 「へっ? なにそれ。おれ、聞いてないよ」  喜久雄は、にやにやしながら紀美子から携帯電話を受け取った。 「達也、ありがとう。おまえのおかげで二人とも命拾いしたかもしれない。まさに幸運の女神だな。いや男だけど」 「いや、いやいや、いやいやいや。父さん? なんのことだかさっぱりわかんないよ」 「ま、とにかくだ。そっちにいくから一緒に飯でも食おう」 「もう……わかったよ。じゃ気をつけて。駅の近くにいるから」  喜久雄は携帯電話を妻に返し、エンジンを起動した。車は本線に乗り、一路東京へ向けて走り出した。テールランプが薄れ、やがて暗闇に溶け込んでいく。あとはただ、顔をのぞき始める朝日だけだった。 (了)
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