第三話「無慚」

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第三話「無慚」

「あっ、何あれ! なんかめっちゃ光ったよっ」  怖々(こわごわ)と共同墓地に入ってきた空子は、一瞬の猛烈な発光と、それに続く物音に、身を竦めた。  阿形が顔の側へ飛んできて告げる。 「あちらは景様琴律様でございますね」 「えっ、二人ここで、何してんの!? 大ちゃんは!?」 「どうやらお二人はエトピリカになられたようでございます」 「は!? ええっ何それっ!?」 「大地様は——」  阿形が言いかけたとき、空子から少し離れた横の砂利に、大きな何かが吹き飛んできて倒れ込んだ。 「ひょわああ」 「()ッ……おぉのれぇ……」  墓場の外からかすかに届いた街灯の光を頼りに目を凝らして見ると、唸りながら身を起こしたそれは、白い着物を身体に巻きつけた女である。黒く長い髪や白く(しし)起きのよい身体の所々には青白い炎が燃えており、只事でない様子が見て取れた。 「ちょっ、大丈夫っすか!?」  駆け寄ろうとした空子の眼前に、阿形が飛び降りてくる。 「いけません空子様」 「へっ」 「彼奴(あやつ)が大地様を勾引(かどわ)かした張本人である橋姫(はしひめ)でございます」 「なっ……なんですとおお!?」  空子は素っ頓狂な声をあげて、そのまま絶句した。阿形に手を取られ、慌てて墓石の影へと身を隠す。 「おのれおのれぇ、何ぞ何ぞ、()れは何ぞ……!?」  女は空子に気付くことなく、苦悶の呻きを漏らしながら、飛ばされてきた方へ向かって歩いてゆく。 「憂き世じゃ——憂き世じゃ——!」  着物の女——橋姫は、歩いてゆく途中に落ちていた煙管を拾い上げると、大事そうに懐へ入れた。  空子は矢も盾もたまらず、浮いていた阿形を鷲掴む。 「あの人が、大ちゃん攫ったの!?」 「如何にも」 「それなら——!」 「このたび景様琴律様がエトピリカになられた以上お二人に任せておかれれば問題ございませんよ」  阿形は空子の手から抜け、ふらふらと浮かぶ。 「それよりも空子様が近付かれては危険でございます」  空子は喉をぐびりと鳴らし、墓石の影から顔を出して、よろよろと墓地の奥へと歩いてゆく橋姫の後ろ姿を見送った。  ふと、夕方に帰ってきた大地が言っていた“きれいなお姉さん”とはあれか——と思い出す。 「ねえ。ケイちゃんたち、エトピリカってのに変身してんの?」 「仰る通りでございます」 「それなら、あたしも変身できる?」  空子の周りを飛び回っていた阿形が、ぴくりと空中に静止した。 「空子様——」 「え」 「戦われたいのですか」  明らかに、男の声が一段低くなった。空子は少し身構える。 「だってさっき(うち)で、あたしに変身して戦えって……」 「空子様単独(おひとり)であればお願いしたでしょう」 「じゃあ、あたしはもう必要ないってこと? あたしが何にもしなくても、二人が大ちゃんを、助けてくれるってこと?」 「御自宅にお邪魔していた時点では景様琴律様がお出ましになり変身なさるとは予想致しませんでしたので」 「あたし、ただここで待ってるだけとか、()だ!」  空子は阿形を見据えて言い放つ。 「空子様」  あくまで低く静かな口調で、阿形は空子に語りかける。 「失礼ながら私が愚考いたしますに空子様はお二人に加担なさりたいというよりも変身してただお暴れになりたいというお気分だけではございませんか」 「そ、そんなことないっすよ! 弟のために、友達が闘ってくれてんのに、あたしだけ……」 「何かと戦うということはテレビ番組のように格好の良いものではございません」 「そう、かも知れないけどさあ……」 「敵かご自身かのどちらかが死ぬまでエンドテロップは出て参りません」  空子に分かりやすいように、阿形は敢えて通俗な喩えを用いて説いた。 「(いわん)や今回相対するのはこの世ならぬ化物どもでございます」  一段と声を低め、更に空子を脅かす。 「獣の牙や爪にお顔を裂かれお(なか)(えぐ)られ腕も脚も力任せに引きちぎられることもありましょうね」 「うー……」 「安全な所でお二人の凱旋を待たれませ」 「……」  空子は少し黙った後、阿形を睨んで口を開いた。 「そんな危ないこと、ケイちゃんとコトちゃんにやらせてんだね?」 「……」  今度は、阿形が押し黙った。 *  琴律は呆れた。  なんたる卑俗、なんたる破廉恥。いったい、この露出度はなんたるや。  光が収まり、目の前から橋姫らが消え失せていることに気付いた琴律は、自らの変身した姿を確かめるや否や、両腕で体を抱いて蹲った。 「——すっ、げぇー……!」  すぐ横で、景が放心したように呟く。全身を(さいな)んでいた擦り傷や切り傷、打身(うちみ)が、完治していた。  彼女はサーファーのウェットスーツのようにぴったりとした服を首から下に貼り付けるようにして着込み、虚空を見詰めて立っていた。両拳を胸の前で握り締め、全身を打ち震わせている。  友人の機能美すら漂わせるスマートさと、己の(みだ)らさとの差を目の当たりにし、琴律はますます羞恥を募らせた。 「コトっ」 「は、ひゃい」  うまく舌が回らなくなるほどの琴律の混乱ぶりを気にもかけず、景は興奮気味に喋る。 「これ、すげえわ。わかんねえ? この感じっ」 「はい……?」 「(なか)が熱くてさ、こう、噴き出すっていうか、溢れてくっていうか」  辺りが明るければ、上気した景の顔が琴律にも見えたのであろう。 「やれるっ。これなら、あの女にも負けることないぞ!」 「えっ?」  琴律はきょとんとした顔で景を見上げる。 「あの、今ので、やっつけてしまったのではないんですか……?」 「いや。残念ながら、違うな」  景は両掌を握ったり開いたりしながら、軽くステップを踏み始めた。はあっ、と口から熱気を吐き出す。 「今のは、ただ吹っ飛んでっただけだよ。またすぐに——」  琴律の方へ視線を落とした景は、先程とは違った意味で頬を真っ赤に染めた。二の句が告げず、言葉が途切れる。 「コト、お前——なんだそれ!?」 「見ないでくださいッ」 「エっロ」 「言わないでくださいッ」  涙目になりながらも、琴律は気丈に立ち上がる。 「そっ、そ、それよりも! 私達あの方を、まだやっつけていないのでしょう!?」 「——その格好(カッコ)、立つと、ますます」 「もういいですッ」  不意に、二人の背後の闇の中から、大きな塊が飛び出してきた。  景は振り向きざまに、だあっ、と吠えてそれ《・・》に右フックを叩き込む。  それ《・・》は墓石に激突して、御影石の破片やら枯れかけた花やらをめちゃめちゃに散乱させる。それ《・・》の背から大きく突き出ていた骨が一本、ぼっきりと折れた。  景は反射的に動いた己の拳を見つめながら、はああ、と再び熱い息を吐きだす。 「……大地か……」  琴律は目をぱちぱちと瞬かせながら、獣と化した大地と傍らの景とを交互に見遣る。 「(うぬ)らぁ……」  今度は反対側から、女の声がかかった。 「汝らが使うた其れは、死人(しびと)(すだま)であろう。身罷(みまか)りし者の遺した朝露の(こころ)()き出し固め、荒事(あらごと)に用いようとは——小娘とは云え、見下げ果てた外道じゃわ」  全身に青白い炎を纏い、前髪をほつれさせた格好で、橋姫が闇から現れる。帯だけで体に巻きつけていた白い着物が汚れて乱れ、胸元からはたっぷりとした乳房が覗いていた。 「これは異な事を仰ります」  双方の中間に、吽形が音も無く降りてくる。 「あなたのような方がいらっしゃるから我々もこのような手を尽くさねばならぬのですよ橋姫」 「黙れェ!」  橋姫は三枚歯の高下駄で地を蹴った。瞬く間もなく距離を詰め、煙管を振るって吽形を叩き落す。  不意を突かれて、吽形は声も無く弾き飛ばされてしまう。  そのままスピードを緩めることなく、橋姫は琴律の方へ向かって走り寄った。 「往生せい、小娘!」  琴律の顔面に、黒壇の煙管が振り下ろされる。しかしその雁首(がんくび)は、琴律の靴底に受け止められた。  長い脚を高々と上げた格好から、琴律は無言で反対の脚を振り上げ、橋姫の手から煙管を跳ね飛ばす。 「何——!」  驚きを隠せず、橋姫が息を呑む。  琴律は間髪を容れず、そのまま連続で回し蹴りを放ち、橋姫の顔面に何十撃もの踵を叩き込む。  その流れるような動きは、舞踊のようですらあった。身体が軽快に動く——というよりはむしろ、琴律がこうしたいと考えた通り、身体が勝手に動いてくれる感覚に近かった。  あまりのことに為す術もなく、橋姫は体を錐揉み状に回転させ、地面に倒れ込む。  琴律は軽い音とともに、その傍にふわりと両足を揃える。 「起きろコラぁ!」  怒号一発歩み寄り、景は橋姫の長い黒髪を掴んで目の高さまで引き上げると、綺麗に整った顔の中心にパンチを叩き込んだ。  美しい女の鼻を折った手応えを得て、景は首回りがぞわぞわするような感じを覚える。しかし、それが快感だという自覚は無い。  髪を掴む左手は離さぬまま、 固く握った拳骨(げんこつ)で、景は女の顔を的確に、執拗に、むちゃくちゃに殴打する。殴り続けることによる拳の痛みも無ければ、大人の女を吊るし上げている腕の疲れも無く、息切れのひとつも無い。  やがて景は、頭髪を掴んでいた手を離し、ぐったりと動かない橋姫の体を足元に放り出した。 「どっるああああ」  とどめに両の拳をがっきと組んで振り上げ、仰向けになった橋姫の顔面に思い切り振り下ろす。  墓地の石畳に放射状の亀裂が入り、窪んだ。  身を起こした景は、両手をぱんぱんと(はた)きながら、橋姫の顔を確認する。  全身に纏っていた青い炎は消えている。髪を結わえていた紐が千切れて失くなり、かつて流行したワンレングスのような髪型になっていた。しかし、あれほど殴られたにも拘らず、顔の骨が砕けた跡は無く、血も流れてはいない。ただ、きつく目を瞑っているだけであった。 「こんだけやっても、傷とか()ぇんだな……やっぱ、幽霊ってことかぁ?」  景はつまらなさそうな顔で、墓場の石畳に唾を吐き棄てた。  琴律も無言で歩み寄り、転がった橋姫の身体を爪先で(つつ)いた。  橋姫は目を閉じて横臥したまま、ぴくりとも動かない。 「——あたし、幽霊を殴る日がくるとは思わんかったよ」 「私もです」  二人は暫し、互いに顔を見合わせつつ、辺りを見渡した。物音が止んで静まると、闇の中には相変わらず、虫の声だけが響いている。  景が殴り飛ばしたはずの大地も、今はその獰悪な気配が感じられない。 「しかし……どうすんだ、これ」  自分たちが暴れた結果、共同墓地は見る影もなく荒れている。やりたくてやったわけではないが、さすがに自分たちの住む町の墓地が破壊された様を目にして、気分が良くはなかった。 「なあ。そういえば、彼奴(あいつ)は? あの、()っこい仏さん」 「吽形さんですか? どうしましたっけ」 「——いやはや油断致しました」  二人の声に答えるように、頭上から吽形が降りてきた。 「お恥ずかしいばかりでございます」 「……あんたさァ」 「はい」  景は呆れたと言わんばかりに(ためいき)()いて見せた。 「仮にも、仏さんなんだろ? あたし達みたいなか弱い乙女にあんな化物(ばけもん)任せっきりで、高見の見物決め込みやがって。いい御身分だよなぁ。ちったァ手助けしてくれようって気は無いんかよ!?」 「恐れ入ります」  吽形は恭しく頭を下げた。 「我々は直接手出ししてはならないと根之國にて決められておるのです」 「なんでだよ!?」 「我々阿吽はいわゆる警備員のようなものでございましてどのような悪鬼羅刹に相対しても手を出す権限がございません」 「何だよそれェ」 「あの……」  琴律も語気を荒げることりそなかったが、憤りを隠せぬ様子で吽形に詰め寄る。 「私たち、殺されてしまうところだったんですよ。あなたの目の前で人が死んでしまうかという時に、決まりだからと手をこまねいて、見ているしかないと仰るんですか」 「その為の変身でございます」 「そんな……」 「大変申し上げにくいのですが私共根之國(ねのくに)の者はどの世に居られる方に対しても中立平等に接しなければなりません」 「でも!」 「ご理解くださいませ」 「——もういい、分かったよ。変身させてくれただけでも、助かったと思えってことだろ」  景は苦々しげに唾を吐き棄てる。 「コト。大地探して、帰ろうや」 「……ええ」  琴律も納得行かぬ顔だったが、目を閉じたままの橋姫をふたたび睨みつけると、吽形に問いかける。 「それで、この方、死んでしまわれたんでしょうか? 私たちが、死なせてしまったということになるんでしょうか?」 「いえ」  琴律の顔の近くに飛んできて、吽形は首を振る。 「尸澱(シオル)は元々死んだ人間の成れの果てでございますゆえ生死の区別自体を持っておりません」 「それでは……」 「中津國(こちら)にて暴れるだけの霊力——彼女の場合は怨念の力を使い果たしたというところでしょう」 「じゃあもう、動かないってことか?」  少し安心したのか、景も橋姫の近くにしゃがみこんで、恐る恐る顔を覗き込む。 「恐らくは」 「……」  倒れた橋姫の顔を見詰める二人は、いつの間にか彼女の右手に、琴律に蹴り飛ばされたはずの黒壇の煙管が握られていることなど、気付きようもなかった。  煙管の雁首の中に、青白い火が燈った。 「——憂き世じゃ。あら憂き世じゃ」  橋姫の口から声が漏れ、片目がかっ(・・)と見開かれた。 「——!」  二人は慌てて、橋姫の身体から跳び退る。 「浮世(うきよ)()()じゃ」  呟きながら、橋姫はゆっくりと身を起こす。身体のあちこちが、青白い炎をあげて燃え始める。 「()に憂き世じゃ——」  開かれた片目は、血走って真っ赤に染まっている。 「此奴(こいつ)、やっぱり……!」 「(うぬ)らぁ……妾を打ち据えて、足りたかやぁあ?」  橋姫は自らの懐に手を差し入れると、鈍く白い光を放つ(たま)を取り出した。  なんと、景たちがつい先ほど目にし使用したのと、全く同じものである。琴律が転ばされた際に取り落とし、失くしたと思っていた霊珠であった。 「ほほほ。ほぅれ、千早(ちはや)()霊玉(れいぎょく)じゃ。(うぬ)らの虎の子なのであろう?」 「あれは琴律様の——」  吽形はそれを見ると、明らかに狼狽した顔になった。琴律は思わず俯いてしまう。 「ほほほほ。妾が有難く使うてやろうな」  女は光球に頬ずりをすると、手でそれを押し付けるようにして、顔を覆う。  次の瞬間、珠はぐにゃりと形を変えて、橋姫の顔に貼り付いた。 「ほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほ」  狂ったように哄笑する鬼女の顔を覆うそれは不気味に蠢き、般若(はんにゃ)の面へと形を変えてゆく。 「何だ? 何やってんだよ、あれっ」 「——よもや霊珠を使われてしまうとは想定しておりませんでした」  吽形は焦った様子で飛び回る。 「どういうことですか!? あの方も、私たちのように、変身してしまうということですか!?」 「先述しました通りこの霊珠は其処此処に在る亡者の(おもい)を抽出しましたもの」  動揺からか、吽形はやたら早口になっている。 「見えるよう(さわ)れるように細工を施しただけのものでございます」 「それが何だよっ」 「中津國にて生きて居られる方は先程のように防具などを介してようやくインストール可能なのですが尸澱(シオル)であれば亡者でございますゆえ」  琴律ははっとした顔で、吽形を見上げる。 「——死んだ方同士であれば、ああいった媒介が無くても使うことができる——ということですか!?」 「仰有るとおりでございます」 「おいっ、そんなん聞いてないぞっ」  橋姫は般若の(おもて)を掛けたまま突っ立ち、わなわなと身を震わせている。  闇の中から、ぐるぐると喉を鳴らす音が聴こえてきた。 「はっ——大ちゃん!?」  どすん、どすんと、足音が響いた。先程までの、ずんずん走り回る素速い足音とは異なり、あまりにも巨大で重い音であった。  景の頭に、熱く重い液体がかかる。  見上げると、景の頭よりも遙かに高い位置に、大きく開かれた口があった。 「うわっ」  景は慌てて、頭を濡らした液体を拭う。瘴気(しょうき)じみた不潔な臭気を放つそれは、頭上の口から溢れた(よだれ)であった。 「何です!?」 「——大地か!」  夏の夜の墓場に、獣の吠える声が響く。虎、ライオン、(ひぐま)——二人が()っているそれら肉食獣のいずれとも異なったそれは、相手を威嚇するためではなく、ただ己の内なる破壊衝動に突き動かされて発せられた声である。(もっと)も、かれがこの瞬間、この地上に於ける最強の捕食者、食物連鎖の頂点であることは疑うべくもなく、威嚇などしてみせる必要は無いのであろう。  暗闇からのっそりと現れたそれは、もはや大地(にんげん)の姿などとうに捨て、荒れ狂うだけの凶獣であった。  まるで電信柱の如き太さの尖骨が、全身から突き出している。先刻とは比較にならぬ体躯の巨大さと、咆哮の凄まじさ。それだけで、二人は足が竦み、動くことができなかった。 「おいおいおいおい何じゃこりゃああ!? こんなもんお前、どうすりゃいいんだよぉ!?」  常識から外れた巨躯をうち震わせ、獣は二人に飛びかかった。  咄嗟にバックステップで身をかわすが、続く第二撃を避け切れなかった二人は、巨獣の前肢をまともに喰らうことになった。 「きゃあッ」 「うぐ……」  立ったまま動かない橋姫を間に挟む格好で、二人は石畳に叩きつけられる。 「……オ親獅子(おやじし)じゃ」  般若面を掛けた橋姫が、口を開いた。 「なに?」 「……ワ(わっぱ)は……ハ般若と化した、ワ妾の……ネ念により……オ親獅子に、ナ成りよった……」 「おや……じし?」 「ちっくしょう、また大地に、いらん事しやがったんだな!?」 「……ほほほほほほ。ああははははは。ふひひひひひゃへへ」  橋姫の顔は今や、(おもて)の般若と完全に同化し、浮世絵の”笑い般若”の如く狂気に満ちて、二人の背筋を凍らせる。  親獅子と呼ばれた巨獣は、獲物をいたぶる快楽に味を占めたと見え、嬉しそうに舌舐めずりをしながら二人に歩み寄る。  ひひぃ、ひひぃ、という上擦った笑い声をあげながら、橋姫が二人に迫った。動体視力さえ追い付かぬ(はや)さで景の目の前を素通りし、琴律の顔面を片手で掴む。 「あっ——」  一瞬、何をされたのかも理解できぬまま、琴律は橋姫の手で顔を鷲掴みにされ、墓石に叩き付けられた。腕を振りほどこうと必死に足掻くが、そのまま頭を地面の石畳に突っ込まれ、()り付けるようにして、めちゃくちゃに引きずり回される。  橋姫の狂った笑い声と琴律の悲鳴が混じり合い、墓場の崩れる破壊の音に紛れ消えてゆく。 「うあっああああっああ……!」 「こっ、コトーっ!」  駆け寄ろうとする景の前に、親獅子と化した大地が立ちはだかった。恐ろしい唸り声をあげ、剥き出した牙を眼前の“肉”に突き立てようと、大口を開く。動きこそ緩慢であるが、一撃でも喰らえば只では済みようもない重い攻撃が、景を抑圧する。  不意に背中にぶつかるものがあり、景はそのぶつかってきたもの——琴律であった——と一緒になって吹っ飛ばされた。  二人は弾丸の如き勢いで、巨獣の下腹部にぶち当たる。  大地は苦悶に呻き、暴れ回った。墓場の石塔が折れ、石の破片が飛び散った。  丸太のような巨獣の四肢に蹴飛ばされ踏み散らかされ、二人は失神寸前、這々(ほうほう)(てい)で離脱する。  ずずん、という地響きをたてて、巨獣は倒れ伏した。全身をびくびくと震わせ、口から泡を噴く。 「夏海さん……ごめんなさいっ」 「こ、コトかよ……大丈夫か……!?」 「ええ……お陰様で、なんとか、生きてはいます……!」  二人の頭上から、引き攣った笑い声が降ってきた。 「——うわっ!」  般若と化した橋姫が、景の頭頂を目掛けて垂直に落下してきた。景は不意を突かれて地に倒れる。 「()ってえなっ……この、ど畜生……!」  橋姫は景の側頭を踏みつけたまま、狂声をあげて、琴律の両腕を掴んだ。帯だけで結わえ付けていた白い着物が翻り、乳房や尻がまろび出る。 「ひ、ああっ——」  琴律は怯えた声を出し、橋姫の腹に前蹴りを当てた。虎趾(こし)が下腹部にめり込んだが、それを気にも留めぬ様子で、橋姫は大口を開く。  血の色に染まった口の中から、五寸釘の如き牙がグイと生えた。  橋姫はニイッと笑うと、琴律の喉笛に咬みついた。 「いぎゃああああああ——!!」  日頃から淑女を標榜し、清楚可憐な振舞いを忘れぬ琴律の口から、粗野で原始的な絶叫が漏れる。人が誰かに助けを求めようと、意識して出すような声ではなかった。痛みに耐え切れず、生存本能のままにただ搾り出された声音(せいおん)であった。 「コトおおおお!」  景は頭を踏まれ、目で様子を伺うことは叶わなかったが、断末魔も()くやという友人の叫びに、事の異常を伺うことはできた。ようやく手の届いた橋姫の足首を掴んで握り締め、ぎりぎりと力任せに爪を立てる。  橋姫は一旦、牙を立てていた白い喉から口を離したが、今度は琴律の中学生離れした豊かな乳房に、服の上からかぶりついた。  琴律は喉から鮮血が溢れ出しても咳き込むことすら赦されず、ごぶりという汚らしい音を漏らして白目を剥く。 「くっそぉ……何だよこれ! どうにもならんのかよ!?」  景の瞼から、本日幾度目かの涙が零れた。 「——ケイちゃーん! コトちゃーんっ!」  少し幼い声が響く。 「ああ!? クウコっ!?」  半分霞んだ景の視界に、暗い墓地を走って来る空子の姿が見えた。その手には、鈍く輝く珠を握り締めている。 「なんで……彼奴(あいつ)……!?」 「うおおい、二人ともー! 大丈夫ー!?」  パジャマを着たまま、ぜいぜいと息を切らして、小さく可愛らしい中学生の少女が、破壊と暴力の渦中に飛び込んだ。 「うわあ、ケイちゃん!」  ようやく場の様子が目に入り、空子は怒鳴る。 「ちょっと、あんた! ケイちゃんに、何してんのー! 退()いてよ、早くっ」  空子は、景の頭を踏み付けている半裸の女に向かって走り寄った。が、次の瞬間、もう一人の友人が、女に咬みつかれて血塗れになっているのに気付き、足が停まる。 「え……?」  目の前の惨状を認識できず、空子は絶句した。 「え、コトちゃん……これって」 「く、クウコ……なんで来た、お前……!」 「だっ、だっ、だって……」 「逃げろクウコっ……ここから逃げろ、危ない、早く逃——げ、が、がわああッ」  ぎりぎりと踏み締められる痛みに耐え切れず、景は苦悶の声を漏らした。  ようやく琴律の胸から口を離した橋姫は、血で汚れた口元を拭いもせず、ベッ、と肉片を吐き出した。琴律の乳房から咬みちぎったものであった。口の中に残った肉をくちゃくちゃと咀嚼し、嚥下する。  琴律は見開いた目を閉じることもできず、全身を痙攣させている。命の尽きる寸前であろうと、空子の目にも見えた。  空子の両脚は愕々(がくがく)と震え、下半身の力が抜けてゆく。熱い(しずく)が脚を伝って水溜まりとなり、湯気をあげた。下瞼には涙が溜まり始める。  橋姫の口から、ひひっ、と笑い声が漏れた。 「う、う——うわああん」  空子は小児(こども)のように泣き声をあげ、橋姫に向かって駆け出した。  橋姫は走ってくる空子に向かって、もはや虫の息である琴律の体を投げつけた。 「うぎゃっ」  自分よりも大きな人体の激突をまともに喰らい、空子は琴律と一緒になって地面に転がった。手から、珠が取り落とされる。  なんとかよろよろと起き上がり、空子は鼻血を拭った。口を開けると、出血とともに数本の歯がこぼれ落ちた。 「ひゃあああ」  恐怖に震えた声が、空子の口から吐き出される。 「コトちゃんっ。コトちゃああん」  空子は泣きじゃくりながら、血塗れで昏倒する友人をかき(いだ)き、名を呼び続ける。が、応えは返らない。時折、か細い呻きが血と一緒に口から漏れることで、死んでいないことだけは確認できた。 「こん畜生があ!」  一瞬の隙を突き、頭を踏みつける足からようやく開放された景が、橋姫の足を持ち上げて、地に転がした。腹の上に馬乗りになり、鬼面と化した顔を殴りつける。  それでも橋姫は、耳障りな引き攣り笑いをやめようとはしない。黒目がぐりんと上を向き、気味の悪さに拍車が掛かった。  ふと、景は少し離れた所に転がっている光球を目に留めた。今しがた空子が落としてしまった、霊珠であった。  また、化物女に獲られ使われては、堪ったものではない。そう思った景は橋姫の上から身を退()かし、輝く霊珠に駆け寄る。 「おい、クウコー! 投げるぞ、捕れーっ!」  琴律に縋って泣く空子に向かい、景は拾い上げた珠を放り投げた。  ピッチングフォームから直らぬうちに、景は後ろから斬り裂かれた。  身を起こした橋姫が、医療メスのような爪を伸ばして、景の背中に斬りつけていた。背から幾筋もの血を噴き出し、くぐもった呻き声とともに、景は石畳の上に倒れ伏す。  身も心も鬼と化して狂った女が猛り、怪鳥の如きヒステリックな笑い声をあげる。身体の所々に灯っていたはずの炎はいつしか全身を包み、白く艶やかだった肌や、黒く美しかった長髪からは、焼けるような匂いがたち始めた。  (かたわら)に転がされた珠を拾い上げ、空子は立ち上がる。鼻汁と鼻血の混じったものをぐすんぐすんと啜りあげると、再び意を決して、橋姫を目掛けて駆け出した。  橋姫は、走ってくる空子に一瞥をくれた。が、それを無視して気味の悪い笑い声を発したまま、絶入(せつじゅ)した景の背中にもう一度振り下ろしてやろうと、鋭爪を振りかざす。乳臭い小娘が何するものぞと、空子を完全に無礼(なめ)きった所作であった。  手に握り締めた珠を振りかぶり、空子は泣き叫ぶ。 「馬鹿ーっ! なんでコトちゃん達に、こんな事したーっ! お前なんかああ!」  突き出された珠が橋姫の腹部にめり込み、杭でも打ったかのように、その部分に風穴を空けた。橋姫は振り上げた腕をだらんと落とす。  それでも、狂った笑いが止まることはなかった。  空子が慌てて手首を引き抜いても、血や肉が噴き出すわけではなく、ただ真っ黒な穿孔が、珠の放つ(ぼう)とした光に照らされているばかりであった。  橋姫は耳につく笑い声をあげながらも、がっくりと膝を突いた。舌と涎を垂らし、ひいいひいいという掠れた声を漏らして、()ち抜かれた腹部を手で覆う。  空子は涙と血と(はな)でぐちゃぐちゃになった顔を手の甲で拭うと、今度は橋姫の肩口あたりに珠を叩き付けた。  珠は(あやま)たず橋姫の左肩をえぐり、やはりその部分を無慈悲に消し飛ばす。片側の肩を失い、左腕がぼとりと落ちた。 「うわあああああん」  空子はまた、幼児(おさなご)のように泣いた。 「返せ! 戻せ!」  空子は全身を怒りに震わせ、思いの丈を叫ぶ。 「ケイちゃんとコトちゃんを! 元に戻せ! 大ちゃんを! あたしに返せ!」  空子は何を血迷ったか、手に持った珠を口元へ運ぶと、前歯を幾本か失った血塗れの口で、がっと喰らい付いた。そのまま饅頭か握り飯でも頬張るように、がぶがぶと霊珠を食い、ごくりと飲み下す。  上空に控えていた阿吽が、言葉もなく目を丸くし、その様をただ見ていた。  ——頑張りなさい、(そら)ちゃん。  空子は己の内から、優しく囁く声を聴いた。それはこの春に他界した、空子らの祖母の声のように思えた。  はあはあと息を()き、空子は顔を上げて、鬼面の霊女を見据えた。涙が止め処なく溢れた。  空子の全身が、白色に発光し始める。 「うわっ、うわっ、——うおおおおおおお!」  言葉にならぬ叫びをあげ、空子は仰け反って天を睨む。  眼孔、鼻孔、耳、口、更には胸や下半身からも、強い光が横溢した。  光が一気に拡がって弾け、またもや橋姫を吹き飛ばす。  拡散した光の粒は、倒れ伏した景と琴律の全身をも包む。  やがて光が収まると、周りは再び静まり返り、空子の荒い息遣いだけが響いた。 「クウコ……」 「クウコさん……」  景と琴律が歩み寄り、空子の背中に声を掛けた。死ぬ寸前まで傷つけられた身体は、空子も含めて、何事もなかったかのように完治していた。 「あっ! ケイちゃん、コトちゃん! だ、大丈夫なの!?」  空子は大きく目を見開き、二人の顔を不思議そうに見詰める。 「おう、大丈夫だ。お前のおかげだよ」 「ありがとうございました、クウコさん」 「いや、そんな……あたし、何にもしてないんだよ!?」 「そんなことありません」  琴律がしゃがみ込み、両腕を広げた。空子は瞼から涙を零し、わっと叫んで琴律に抱きつく。琴律の目からも涙が流れた。景の目には、ふたりは親子のように映る。 「おう、そういえば、また服が変わってんな」  自分と二人を見比べながら、景が呟いた。  空子をはじめ、景や琴律の着衣も変化し、三人揃いの装束になっていた。  和服のような衿と袖のついた腿丈の着物を太い帯で締め、その裾は一見すると、ミニスカートにも見えた。額には色違いの鉢巻が締められ、随所に飾りリボンがあしらわれた、可愛らしい意匠であった。景の腕には手甲、琴律の脚には脚絆が着けられていたが、それは最前までの頼りなさげな質感ではなく、しっかりと手脚をガードしてくれようという、不思議な安心感を漂わせていた。 「ねーねー、これって、あたしのせいかな?」  空子が自分の服を見ながら呟く。 「左様でございますね」 「これこそが私共の望んだエトピリカの在るべき姿」  阿吽が揃って、上空から降りてくる。 「変身時には各々が思い描かれた衣服が戦闘服として具現化いたします」 「現在のお姿は空子様がお二人と揃って闘いたいと願われた故でございます」  景と琴律は、先程まで纏っていた衣裳を思い出すと、やや複雑な気分になった。 「ま、いいんじゃねっすか。これ可愛いしさ」 「可愛い必要あんのかよ」 「可愛くないより良いじゃん。それともケイちゃん、『レッドガル』みたいなカッコイイ系が良かったー?」 「おう、そっちがよっぽど()いね。こんなん、恥ずいっちゅうの」 「ふふ」  琴律が笑みをこぼした。 「——それにしましても空子様」 「媒介の防具なしで変身なさるとは驚きです」 「よもや霊珠をお口で召し上がるとは」 「我々の想定する枠に留まらない御仁でございます」 「……は!?」 「あの、珠を——食べた!?」  景と琴律が絶句する。 「あ、まあ。食べたというか、飲んだというか、啜ったというか、そういうアレだね」  空子は少し照れた様子で、着物の裾を手でいじる。 「なんでそんなもん、お前!」 「いや、なんかさー。つい」 「ついじゃねえよ! 旨そうに見えたんか、あれが!」 「へ、平気なんですか?」 「はい」  頭を掻く空子の代わりに、阿形が返事をする。 「とくに人体の害となるものではございませんよ」 「だ、だからって」 「クウコお前、何でもかんでも口に入れんなって、いつも言ってるだろが」 「面目次第(ボクメンダイシ)()ぇです。ハイ」 「まあ今回は、そのおかげで助けてもらった訳ですし。ね」  琴律も景も、呆れ顔をしながら、空子の頭を撫でくりまわす。 「でもなぁクウコ。あたし、家で待ってろっ()ったろ?」 「うん。でも、大ちゃんが心配で——あっ、大ちゃんは?」 「……」 「あー、うん。大地、いたぞ。……いたんだけど……」  琴律はそっと目を伏せて俯いた。景も言葉を探しているようである。  不自然に押し黙った二人を、空子はじっと見据える。 「無事なんだよねっ」 「えっ」 「二人が今、笑って話してくれてるってことは、大ちゃん、死んだりしてないんだよねっ」 「……おう。死んでねえよ」 「じゃああたし、信じるよ。大ちゃんは、助かる」  空子は口をきゅっと結んで、真っ暗な空を仰いだ。 「お気を付けくださいませ」 「橋姫は未だ黄泉へ還った訳ではございませんので」 「……!」 「そ、そうかっ」  阿吽に釘を刺され、三人は身構える。  焦げ臭い匂いがした。足元の雑草が青い火に焼かれ、ぱちぱちと音をたてている。  琴律がそちらに目を遣った瞬間、足元の石畳が割れて穴が空き、長い鉤爪を宿した手首が突き出した。  足首を掴まれた琴律は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにその足を高々と振り上げ、地中の鬼女を引きずり出す。 「来たかッ」  景は待っていたかのように、軽くステップを踏んで、一気に駆け出す。 「そいつ押さえてろよ、コト!」  琴律は言われたとおり、蹴り上げた橋姫の右手首を掴んで、目線よりも高い位置に固定する。  景は間合いを詰めると、髪を振り乱した橋姫の腹部に、重いボディブローを叩き込んだ。 「おらおらおらおらぁ! いい加減、しつっこいんだよ手前(てめえ)はよぉ! あの世に戻って大人しく寝てろや、このくそ(あま)ぁぁ!」  琴律によって吊るされた格好をサンドバッグに見立て、景は半裸の女体をこれでもかと乱打する。 「——夏海さん」 「何だよっ?」 「私、腕が疲れました」  琴律は面倒臭そうな顔で橋姫から手を離した。  景は舌打ちをすると、渾身のアッパーカットで橋姫の顎を打ち上げる。 「交代だ」  景が言い終わらぬうちに、琴律は逆立ちの体勢を取り、落ちてきた橋姫の身体を両足で受け止める。  身体を捻り、演舞じみた動きで、琴律は橋姫を蹴り飛ばす。橋姫の身体は墓場の石塔をいくつも薙ぎ倒し、砂利の上に転がった。  琴律は反動をつけて大きくジャンプし、橋姫の腹の上に両足を揃えて落下した。腹部を圧迫された橋姫の口から、耳障りな音が吐き出される。琴律はそのまま、橋姫の残った右肩を、無表情で踏みつけた。 「こちらも、()いでしまいましょうね」  肩に乗せた足に体重をかけ、めきめきと音を立てる。 「はい、っと」  小枝か何かを踏みしめる程度の感覚で、琴律は橋姫の骨の折れる音を聴いた。  肩に乗せた足は動かさぬまま、橋姫の右腕を両手で抱えて引っ張る。ぶちぶちという、無理やりに筋が断裂させられる音がする。 「よいしょっ」  皮膚と肉との繊維が引き吊り合ってちぎれ、橋姫の右腕は胴体から()ぎ取られた。橋姫はもはや、声もあげない。  やはり、引きちぎられた断面からは、血の一滴も、肉の(くれ)ひとつも、こぼれ落ちる様子はなかった。  琴律は自分の手で()ぎり獲った敵の腕を、何の興味も無いとでも言いたげに投げ捨てる。腕は墓場の砂利の上を転がった。  琴律は、両腕を失い芋虫のように転がる女の胴体を、空子の立っている足元まで、ぽんと蹴って寄越す。 「さて、クウコさん。あなたも、脚か首あたりを引き抜いて差し上げては?」 「……」  空子は眉根を寄せて、目を伏せた。 「あのさ。こういうのさ、やめない?」 「えっ?」 「可哀想だよ。あたし、あんまりひどいことしたくないよ」  琴律は、このガキは何を言っているんだ、という顔をした。 「この女が何をしでかしたのか、知らないんですか」 「大地にもあたしらにも、ムチャクチャしてくれたんだ。刻んで擦り潰したって足りねえよ。やったれクウコ」  景も歩み寄ってきて、空子の頭に手を置く。  空子はそれを振り払い、景の目を見上げる。 「そうかも知れないけど、こんなのは、違うと思う」 「お前……」 「そういえば——」  琴律は頭上を見上げ、浮かんでいる阿吽に問いかけた。 「ええと、私たち、大ちゃんを追いかけて、連れ帰りに来てるんですよ。つい激昂して暴れてしまいましたけど、結局、この方をどうすれば宜しいんです? 大ちゃんは、どうなったんですか?」  阿吽は揃って琴律の顔の横に現れる。 「尸澱(シオル)は亡者であるがゆえに肉体を持ってはおりません」 「ただし今回は中津國(こちら)にて現れ動き回るために仮初(かりそめ)の肉体を伴っております」 「それを私共では醜女(シコメ)と呼称しておるのですが」 「よしんば此奴(こやつ)めの目論見が肉体復活であるとするなら」 「文字通り“肉を食らう”しか手はございません」 「“食う”という行為のためにもやはり生前の姿で現れたものと我々は考えております」  琴律は頷きながら話を聞いていたが、先を促すように問うた。 「それで、結局私たちが、どうすれば解決となるんでしょうか」 「その肉体を(めっ)してくだされば宜しいのです」 「滅する?」 「手段は問いません」 「燃やすなり細かく刻むなり形が残らぬようにしていただければ結構です」 「……だとよ、クウコ」  攻撃を非道なる行為と捉え、嫌悪感を顕にする空子をなだめるように、景が呟く。  琴律も空子に歩み寄り、肩に手を置いた。 「一度は亡くなった方なんです。これも、供養と考えましょう」 「……うん」  空子は大きく頷き、足元に転がる橋姫に目を遣る。しゃがみこんで、伏した背を押さえ、頸椎部分に手を伸ばす。 「痛かったらごめん。成仏してっ!」  次の瞬間、橋姫の全身が青い炎に包まれた。 「あっ!」 「この女、まだ!?」 「うわあちちちっ」  空子は咄嗟に跳ね飛び、橋姫の身体から距離を取る。  青白い炎は一瞬で燃え上がり、橋姫の肉体を火葬にするかの勢いでめらめらと立ち昇った。  炎の中から、獣の声とも人の声ともつかぬ、しゃああしゃああという異常な音がした。  橋姫は両腕を失っても(なお)、のたうち回り、身を()じる。  辛うじて残っていた着物はすべて燃え落ち、いよいよ全裸になってしまった。  燃え盛る火に包まれても、肉も髪も焼け焦げる様子はない。黒髪とのコントラストで、白い背中と尻が夜目にもはっきりと見えた。 「……まだ動くなんて……」  琴律は目を伏せ、己の上半身を抱いた。  橋姫の両脚が揃い、まっすぐに伸ばされた。脚はそのままぴったりと閉じられ、癒着しあい、ひとつに(あわ)さってしまった。爪先からは指が消え、先端までが一本の尾のような形状に変わる。  ひとつになった脚部がぐいぐいと長く伸び、鱗が生じた。いつの間にか、般若から元の顔に戻った頭部からは耳が消え、文字通り耳のあった部分まで口が裂け、真っ赤な色の舌が長くはみ出した。能面の般若ではない、元の顔のままという状態が、一段と不気味さを醸し出していた。  橋姫は、絵の中の人魚、あるいは清姫(きよひめ)の如き異形に変わった。 「な、な、な、何じゃああ!?」 「(おぞ)ましい——けれどなんだか、哀れな姿ですね……」 「さすがに、常識を疑うな」  姿を変えた橋姫は、真っ赤に輝く目で三人を睨みながら、しぎゃあしぎゃあと身の毛もよだつような声をあげて悶えている。 「あれは『(じゃ)』です」 「ジャデス?」  空子は思わず、阿形の言葉を鸚鵡返しにする。 「先程までは中成(なかなり)般若(はんにゃ)でございましたが」 「これはもはや本成(ほんなり)」 「それが(すなわ)ち『(じゃ)』でございます」 「『もはや聞く耳を持たぬ』ということなのでしょうか」 「あのように耳がございません」  目の前の光景を現実とは捉え難く、三人は息を呑む。 「先ほど琴律様から噛みちぎった身を食い姿を変えたものと思われます」 「しかしあれ《・・》では何もできますまい」 「えっ、そうなんですか?」  琴律は拍子抜けした顔で、阿吽を振り返る。 「はい」 「人を襲うほどの力はございませんね」 「ご覧の通りせいぜい陸に揚がった魚ほどのもの」 「それが仮に襲い来たとしても」 「エトピリカである皆様には敵いません」 「そうなんだー」  空子もほっとした顔で、側に立つ琴律の手をきゅっと握った。 「でも、火が消えてからやっつけていい? あたしヤケドしちゃうから」  三人が見守る中、橋姫はまだ乳房や臍の残る上半身を擡げると、ぎしゃああ、とひと声あげて、背後の闇の中へと身を躍らせた。 「あ、逃げたよっ」 「追いましょう!」 「クウコ、ぶっ潰したれ!」  三人は崩れた石塔を避けながら、橋姫を追って、墓地の奥まった方へと駆けた。  やがて目に入ったのは、石畳の上に倒れた“親獅子”の姿である。 「うおおお、何これっ」 「……!」 「こいつ、あのネエチャンが連れて来たん? ハイパー怖そうなんすけど!」  明らかに地上のどの生物とも異なる異常な姿を目にし、空子は圧倒された様子であった。反対に、景と琴律は足を止めて押し黙る。 「ねえ、二人でこんなデッカイ奴、やっつけちゃったんだにゃー! すっげー」  博物館で珍種の巨獣を眺めるかのように、空子は興奮している。 「これって、死んでないよねー? 白目剥いてるけど、ちょっと動いてるし!」 「クウコさん」 「うゆ?」 「これは——この大きな獣は、その」  琴律は説明しかけたが、空子の顔を見て、言葉を途切れさせた。  景は拳をぎりぎり握って、唇を噛んでいる。 「大ちゃん——なんです」  琴律は目を閉じ、蚊の鳴くような声を絞り出した。 「はっ?」  空子は口元に薄っすらと笑みを残したまま、絶句する。 「うそん?」 「本当だ。そいつ、大地なんだ」 「何それ。大ちゃん、こんな()っきくないし! こんな怖い顔じゃないしっ!」 「あのクソ女が、大地に——」  言いかけて、景も瞼から大粒の涙を溢れさせ、言葉を詰まらせる。 「何それ、どういうこと……」  空子は口をあんぐりと開けたまま、弟だと説明された獣の、巨大な体躯を見上げる。  その骨だらけの醜悪な体に、空子はそっと手を置いた。  巨大な“親獅子”は時折びくびくと体を震わせ、鼻と口から、(ふいご)の如く悪臭を噴き出す。 「でも、生きてる」 「……」 「だから大ちゃんは、絶対助かるよ。あたしが、助けるもん」 「クウコ……」  琴律も、景も、強い口調で空子が言い放った言葉を聞いて、泣いた。 「よし。何とかして、大地を元に戻してやろう。なあコト」 「勿論です!」 「うんっ。ありがとね、二人とも」 「実は私、大ちゃんと約束してるんです。私が『レッドガル』の二次創作小説を書いて、読ませてあげるって」 「それは、やめとけよ。子供の世界観を壊しかねんぞ」  景が苦笑したとき、獣の姿の大地が目を見開き、ぐるぐると唸り始めた。 「何!?」 「どうしたの大ちゃんっ」  唸り声が咆哮に変わり、大地の目は苦悶の色を浮かべる。 「あっ、あそこ……!」  琴律が大地の巨大な顔を指差す。口の中に、青白い炎が燃えている。そこに蠢いているのは、肌色をした大蛇の如き異様な姿。  “(じゃ)”と化した橋姫が、巨大な大地の口腔に顔を突っ込んでいる。大地は舌や頬を食い破られ、牙の隙間から夥しい量の血を流していた。 「うわわわ! や、やめろおお!」 「此奴(こいつ)っ」  三人が咄嗟に駆け寄るが、橋姫はひと声叫んで肉にかぶりつき、大地の体内に進入する。 「こん畜生がッ」  景が辛うじて橋姫の尻尾を掴み、引きずり出そうと踏ん張る。  大地は猛烈に身を(よじ)り、絶叫する。 「大ちゃん、しっかり! お姉ちゃんだよ!」  巨大な獣の身体にしがみつき、空子は声をかけて励ます。 「頑張れ! お姉ちゃんたちと一緒に、お(うち)帰ろう!」 「大ちゃん、しっかりしてください! お姉ちゃんたちが今、助けてあげますから!」  琴律も涙目で、景の手を握って、一緒に引っ張る。  しかし抵抗虚しく、ついに橋姫は大地に飲み込まれるような格好で、ずるりと口の中へ潜り込んだ。 「だ、大ちゃーんっ!」 「いやあっ」 「くそ! しくじった!」  景は地面を一発殴ると、両手で大地の顎を掴んで開く。 「手前(てンめえ)ーっ! 出て来やがれ!」  口の中へ向かって怒鳴るが、橋姫はすでに大地の喉奥へと入り込み、もはやその尾すら見えない。  大地はいよいよひどく暴れ、その目からだらだらと涙を流した。 「ケイちゃん、ごめん。そのままっ」  空子は景の手で押し広げられた大地の口に、自分の両手両足をかけて思い切りこじ開けた。小柄な全身で巨獣の顎を支えながら、片手を喉の奥に伸ばす。 「出て……来いーっ……!」 「クウコさん、大ちゃんが苦しんでます! やめてあげてっ」  それを見兼ねた琴律が、空子の身体を後ろから抱き竦める。 「でもでも、あいつがっ」  泣きながら、空子は琴律の腕の中でじたばたと足掻いた。 「うわあああああん」  身も世もなく、空子は号泣する。  このままでは、弟が死んでしまう。それは目に見えて明らかで、口惜(くや)しくて情けなくて、堪らなかった。 「——クウコ、すまん! あたし、大地の腹を割いて、あのクソ蛆虫(ウジムシ)(おんな)を引きずり出してやる!」 「えっ、ちょっと——夏海さん!? 何を言ってるんですか! そんなことをしたって、本末転倒でしょう!?」 「分かってるよ! だけど、あたしはどうしたって、あの女を赦せんのだ!!」 「莫迦(ばか)ッ! あの女を殺すより、大ちゃんを助ける方が大事でしょう!」 「く……!」  景は泣きながら地面を殴った。鼻汁も涎も拭わず、肺から絞り出すような声で泣き叫んだ。  琴律は空子の腕と背中とを捕まえ、子供のように泣きじゃくる小さな胴体をきつく抱きしめた。  やがて大地の腹の方から、下卑た笑い声が聴こえて来た。  三人は跳ね上がるように駆け出し、すぐに声の主を見つける。虫が果実に潜るように、大地の腹を食い破ってひょっこりと顔を出した橋姫が、赤い肉をぐちゃぐちゃと噛んでいた。 「この——××××××がァー!!」  景は怒りに我を忘れて口汚く女を罵り、掴みかかった。空子と琴律も、それに続いて躍りかかる。  景の拳がその首を捕らえて砕く寸前、橋姫の毛髪がぞろりと抜け落ちた。  ひと声叫ぶと、橋姫はその身を震わせ、脱皮でもするかのように大きく膨れあがった。  同時に、大地の胴体がおかしな形にひん曲がり、体内異物の巨大化に耐えきれずに肉が裂けた。あまりにも巨大な骨が幾本も露出し、大風(おおかぜ)の日の木造家屋の如くぎしぎしと軋み、肉からちぎれて離れる。  ばりばり、と音を立てて、大地の全身が破裂した。  大質量の肉の破片と血液が飛び散って、空子たちにも降り注ぎ、全身にへばりつく。  もはや人とは呼べぬ姿の橋姫が、大地の身体を内側から破り、その身を夜の闇に晒した。  中から現れたそれは醜怪で、巨大で、獰悪であった。  “真蛇(しんじゃ)”。——阿吽らであれば、そう解説したはずである。  目のあるはずの部分からは腕が生え、腕からは歯と舌が生え、辛うじて女性であった名残の乳房には、表面に無数の女性器が生じて見えた。右肩部分からは肉の管が生え、先端には腐って崩れ落ちる寸前の橋姫の顔が、左肩からは般若の顔が覗いていた。  全身から漂う「凶」の匂いが景の歯の根を鳴らし、「狂」の匂いが琴律の脚を震わせた。  七本の太い脚が墓場の地面を踏みしめ、三人の少女を喰らわんと向かってきた。  少女たちは、初めこそ異形に怯え、足を竦ませていた。しかし、それぞれの背に光り輝く翼が生じたことで、三人は橋姫に立ち向かう力を得ることとなった。  闘いは、長く続いた。  否——それは、闘いと呼べるほど上等なものではなかった。  あまりにも無残で、無慈悲で、無軌道な、肉の千切(ちぎ)り合いであった。  美しき“醜女(シコメ)橋姫(はしひめ)は、何百年の怨みを抱えて生変(いきか)わり死変(しにか)わり、裂けた皮から舌を生やし、もげた肉から牙を生やして、まさに鬼神の如き猛威を振るって荒れ狂った。しかし、その最期は、あまりにも呆気ないものであった。  光の翼をその身に背負った三人の戦士“エトピリカ”を力尽(ちからづ)くで薙ぎ倒し、今まさにその肉を食らわんとしたその時。東の空から射した太陽の光にその巨大な全身を焼かれ、灰となってぼろぼろと崩れ去ったのである。  後には、石に彫られた地蔵菩薩と、その傍らに黒檀の煙管(きせる)が一管、主を失って転がった。  双方の血と、引きちぎられた肉と、少しの毛髪が、墓地の砂利と石畳にこぼれて散らばっていた。  昇ってきた赤ら引く朝日の中、この世ならぬ暴力と破壊の(あと)が照らされて、きらきらと輝いた。  三人は変身を解き、無言で家路についた。
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