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第五話「朋来」
その次の夜。
枕元の携帯電話が、熟睡中の空子を叩き起こした。表示時刻は、午前一時すぎ。夏海景からの着信であった。
「んぬー」
『おう、クウコ。夜中に起こしてごめんな』
「ううん。どうしたんケイちゃん」
『コトには、さっき電話したんだけどな——』
眠っていた景の部屋の窓を、外から突然何者かが叩いたのだという。
『知らん女が、二人来てる』
「フハッ?」
景の部屋は二階であるが、窓の外には手摺りなどなく、誰かがよじ登ったとしても、捕まっていられず落下してしまうはずだった。
『なんだか知らんがよ、ひらひらした格好の女が二人来てよ。話があるとか言いやがってよ』
景の語調は本人の眠気もあり、ひどく刺々しい。
『此奴ら、アレなんだってよ。例の、エトピリカ』
「ハアー!? なんじゃすってえー!?」
空子は一瞬で目を醒ました。昨晩の、あの二人だと、確信した。
『それでクウコ。この女らに聞いたんだけどな、お前、昨夜化けもんに襲われたんだってな。なんで、あたしらに言わんの?』
「……あ、うん」
『うんじゃねえだろうが。お前、危ないとこだったって、此奴ら言ってんぞ。夜だろうが何だろうが、すぐにあたしらに電話して、助けを呼べって言ってんだよ。ケータイ持ってなかったんか?』
「う、ううん」
『莫迦っ、じゃあ電話せいよっ』
景の語調はきつかった。空子を案じ、本気で怒っていた。過去、この世ならぬ者の所為で幼い少年をみすみす死なせた、という事実が彼女の中で蘇り、残悔が怒りに変わって噴出していた。
『助かって帰って、今朝になってからでも良いんだよ。そういうことがあったって、あたしとコトに言えよ。莫迦たれ』
「うん。ごめんねケイちゃん。ありがとう」
空子は萎らしく、友人に詫びた。
『——あッ! お前ら、ふざけんなよ! 人ん家に上がり込むなら、靴脱げッ靴!』
電話の向こうで、景の怒声が飛んだ。
電話を切って、両親に見つからぬよう着替え、こっそり玄関を出た途端。空子の後頭部あたりから、憶えのある声が聴こえた。
「もし」
「空子様」
「……あんた方か」
阿吽であった。相変わらずの半裸に褌姿である。
「その後ご無沙汰しております」
「此度は折り入ってお願いしたき事がございまして」
「甚だ恐縮ではございますが」
「誹りを免れぬのを覚悟のうえで」
「こうしておめおめと罷り越しました次第でございます」
二人が全く同一の挙動で、慇懃に頭を下げる。
「景様からお聞き及びかとは存じますが」
「夏は尸澱どもの動きが活発化する季節にて」
「他のエトピリカの方々と投合協力していただけないものかと」
「……そこまでは、聞いてないっすよ」
空子は半ば諦めたような顔で、阿吽らを見上げた。
*
「蓬莱萵苣!」
全身に豪奢なドレスを着込んだ少女が、腰に手を当てて名乗った。何が面白いのか、機嫌良さげに目を細め、にこにこと笑っている。
純白のドレスはフリルとレースに縁取られ、随所が小さなリボンで過剰に装飾されている。ミニ丈のスカートからはこれまたフリルがぎっしりと詰まったペチコートが覗き、その中から伸びた健康的な脚には白のオーバーニーソックスが履かれて、それがガーターベルトで吊るされている。頭にはヘッドドレス。そして傍に脱いで揃えられた、これも真っ白なエナメルのハイヒールシューズ。
夏海景は一目、なんで此奴、ウェディングドレスみたいな服を着てるんだ——と怪訝な顔でその少女を眺めた。それが一部で白ロリ、などと呼称されているストリートファッションであることを、景は知らない。
「蓬莱蕃茄」
こちらは真っ黒なドレスに、まっすぐ伸びた黒髪。どことなく神秘的で、なんとなく妖しげな雰囲気を纏った少女である。
全身のシルエットは先の少女とほぼ同じものだったが、目の周りに黒いアイメイクを施し、蝙蝠の意匠の髪飾りや髑髏の指輪等でごてごてと身を飾り、ご丁寧にも黒い日傘まで携えた、ゴシックロリイタと呼ばれる類のファッションである。これまた、景は呼び方を知らない。
この、ロリイタ服の少女二人が、不躾にも景の部屋の窓から突然訪問し、話がある、と唐突に切り出したのだった。
聞けば、二人は隣町の中学生で、昨年から継続して尸澱を相手に戦っているのだという。
「——それで? お二人一緒にエトピリカとして活動なさっている、ということまでは分かりましたけれど……」
薄手のサマードレスのまま景の部屋に駆けつけた龍泉寺琴律が、景に出された麦茶を飲みながら話を促した。
「私がお姉さんだよ!」
これまた麦茶を飲んでいた白いドレスの少女——萵苣が胸を張った。手に持っていたグラスの中身を一気に飲み干し、がちんと音を立ててガラステーブルに置く。
「そんなことは訊いてねえよ」
景はいよいよ目が据わってきた。熱帯夜にようやく寝付いたところをいきなり起こされたため、眠気と苛立ちがピークに達する勢いである。
「何しに来たんかって言ってるだろ」
「あら、それじゃやっぱり、お二人は姉妹なんですね?」
琴律が、萵苣の話に乗っかった。
「そう。姉さまと私は。一歳違い」
出された飲み物には手をつけず、傍らに置いた日傘を丁寧にたたみながら、黒いドレスの少女——蕃茄もそれに答える。
「珍しい苗字ですものね。よく見れば、お顔もそっくり」
「お前ら、わざとやってんのか」
景は、夏を迎えてそろそろ切りたいと思っているボブショートヘアの頭をがりがりと掻き、胡坐をかく脚を組み替える。
「あと、白いお前。あんまでかい声出すな。階下で親と兄ちゃんが寝てるんだよ」
「私らは、君らにお願いがあって来たの! 私らのイオマンテを、手伝ってほしいんだ!」
萵苣はぱっちりとした目をくりくりさせながら、景と琴律に迫った。
「だから、お前、夜中に人ん家でだな……」
「君ら、真蛇の尸澱をやっつけたんだよね! 聞いてるよ!」
「しんじゃ?」
「真蛇は、蛇がパワーアップしたやつだよ!」
ああ——と、景と琴律は一年前の惨劇を思い起こす。忘れようと努めていても、瞼の裏にこびり付いたまま決して離れぬ、忌まわしい記憶だった。
「私たちも。真蛇は見たことがない。それと。親獅子も」
「いえ、あれは——」
琴律が寂しげな顔で口を開く。
あの時はいわゆる、双方のタイムオーバーによるサービス勝ちみたいなもので、決して自分たちが闘って倒したわけではない。——否、大地を守りきれなかった分、むしろ敗北であるとさえ云える。
それを琴律が姉妹に説明している間、景は終始目を閉じ、瞼の上から指で押さえるようにして俯いていた。
景の部屋の襖が、控えめに敲かれた。
「こんばんみゅー……ケイちゃん、来たよう」
景の家族を起こさぬよう気遣い、空子がそろそろと襖を開けて入ってきた。
「おう。早かったな。走って来たんか」
「うん。まあ」
続いて、阿吽の二人も入室する。
「夜分遅くに痛み入ります」
「皆様にはご足労いただき恐縮です」
事前に同学年の中学生だと聞いてはいたものの、恩のある二人の姿を部屋の奥側に認め、空子は心なしか緊張の面持である。
「天美空子でっす。どもっす。昨夜は、助けてもらって、超ありがとうございました」
深々と頭を下げ、挨拶をする。
「どういたしまして! 私は蓬莱萵苣だよ!」
「蓬莱蕃茄」
姉妹も再び名乗る。
「君も、エトピリカだったんだね! 私ら、びっくりしたよ!」
「それならそうと。言ってくれれば良かったのに」
空子は何度も瞬きしながら、二人の顔を交互に見比べる。
「ふゃー、可愛い名前だね。レタスちゃんに、トマトちゃんか」
景から麦茶のグラスを手渡され、空子は胡座をかいて座る。寝間着からTシャツと短パンに着替えてはいたが、お姫様のような出で立ちの蓬莱姉妹を目の当たりにすると、その対比で、自分の身なりが取り立ててラフに感じられ、空子は少し恥ずかしさを覚えた。
「あなたも。可愛い。とてもお洒落だし。小さくて」
「うゆ。小さいのは、まあ、もう、仕方無いっすね。これから伸びるのに期待っていうか」
人形のような蕃茄から褒められ、空子は照れた顔をする。
「でもレタスちゃんとかトマトちゃんとかって、なんか野菜を呼んでるみたいな感じするにゃー」
「こ、こらクウコさん。失礼ですよ」
琴律が窘めるが、萵苣は意に介す様子もなく笑う。
「なら、私のことはレタスって呼び捨てたらいいよ! 私ら、同級生だしね!」
「私は。一歳下」
蕃茄もぽつりと口を挟んだ。
「えー、その方が野菜っぽいけど……まあいいや。レタスって、カタカナで書くの? それとも、漢字あんの?」
「えーとね! ちょっと難しい字だよ!」
萵苣は景から紙をもらい、ボールペンでさらさらと自分と妹の名前を書いた。
「これでレタスって読むんだ! もともとは、チシャっていう字だけどね! 妹は、バンカって字だよ!」
空子たちは、囲むようにして紙をのぞき込む。
「あらぁ。普段はなかなか見ない字ですね」
琴律は携帯電話を取り出し、姉妹の名前を単語登録する。
「ねー、トマトちゃんっていうのは野菜だって分かるんだけど、バンカって何? なんか茄子みたいな字だね。それと、チシャってどんな意味? 猫?」
「ああ! あのね! チシャっていうのは古い日本語の、レタスってことらしいよ! それに、トマトはナス科だよ!」
「おー、そのまんまの意味なのか。それでお野菜姉妹なんだ。超可愛えー」
眼を輝かせる空子に、萵苣もえへへ、と笑ってみせる。姉とは対照的に、蕃茄は表情を変えない。
「あと。下に二人。菊苦菜と花薄荷というのがいる」
「野菜縛りじゃないんかーい」
胡座のままで景が後方へひっくり返った。
「下の二人はまだ小学生で、エトピリカじゃないけどね!」
此奴には声をひそめて話すという観念が存在しないのか、と景は仰向けのまま歎息する。
車座に並んで座る五人の少女の中心に、浮かんでいた阿吽が降りて来た。
「これで皆様お揃いでございますね」
「深夜でもありますので先程よりこの室内のみ時間の流れを鈍行させていただいております」
「我々よりお話ししたい事もございますが」
「まず皆様には交流を密にし親睦を深めていただきたく」
「女性のお声はよく通りますし時間を気にせずお話しいただければと考えます」
「——あたしは、むしろ時間を気にしてほしいんだけどなあ」
景は相変わらず眠たげな目で、阿吽を睨んだ。
中学二年女子が四人に、一年女子が一人。饒舌・寡黙の違いはあれど、打ち解けるのに時間はかからなかった。
菓子と飲み物が順調に消費され、阿吽を除く全員が一度ずつトイレに立った頃。
「あの……」
琴律が、蓬莱姉妹に向かって切り出した。
「その服は、エトピリカの、ですか?」
「うん! そうだよ!」
萵苣が胸を張って答えた。蕃茄も、無言で頷いている。
「とっても可愛らしいですけれど、闘いにくくはないんですか?」
「そういえば、助けてくれたときも、その格好だったよねー」
空子もアイスクリームを舐めながら、前夜を思い出して、にっこり笑う。
「ううん、別に! 気にならないよ!」
「可愛い方が良いから」
気にしたこともない、という顔で、姉妹は答えた。
「頭で考えて、そのまま出来た服ですものね……。士気を昂揚させる、軍服みたいな役割なんでしょうか」
「うん! 蕃茄と揃ってこれを着るとね、さあやるぞ! 勝てるぞ! っていう気持になるんだよ!」
萵苣が蕃茄の後ろから両肩に手を置いて、満面の笑みを浮かべる。
「なるほど。バスケのユニフォームみたいなもんだな」
「へー、そうなんだ。じゃあ、もっと可愛い、揃いのやつ、考えたら良かったねぇ」
気を利かせて出されたロールケーキを口いっぱいに頬張りながら、空子が口を尖らせる。
「けどさ。お前ら部屋ん中で、そんなん着てても仕方ねえだろ。普段着に戻せよ」
景はロリイタ服の過剰なひらひらを鬱陶しく感じるのか、無塩に顎をしゃくった。
「どうする。姉さま」
「そうだね! そうさせてもらおうか!」
姉妹は顔を見合わせると、眼を閉じた。
二人の着ていたロリイタ服が、端から光の粒に変わってぱらぱらと剥がれてゆく。
萵苣はごくシンプルなタンクトップとショートパンツ姿。蕃茄はフリルがあしらわれたキャミソールとショーツの姿に変わった。
「わ、お前、下着かよ」
景が少し赤い顔をした。
「あ! そうだった! 忘れてたよ!」
「家での格好のまま。変身していた。……許して」
「暑かったからね!」
「——お前ら、人ん家に来るのにそんな、パンツ一枚でよぉ」
「まあまあ。女子だけですし、別に良いじゃないですか。ねえ」
琴律が笑顔で、景を窘め、姉妹に視線を向ける。
「コトは女子のそういうの好きだから、良いかも知れんけどなあ……」
景はわざと内緒話の格好で、蓬莱姉妹に口を寄せる。
「——あのな。このでっかい姐ちゃんはな、可愛い女に興奮する、エロい奴だからな。気を付けろよ。変なふうに触られたら、あたしに言えよ」
「あらっ、心外ですね夏海さん! 初対面の女の子に、どうしてそういう事を仰るんですかっ。それではまるで私が、変態女みたいではないですかっ」
琴律は大仰に、よよよ——と蹌踉めいて見せる。
「まるでっていうか、お前、変態じゃんかよ」
「でもさ。二人に脱げって言ったの、ケイちゃんだよにゃー?」
空子がにやにやしながら景をつついた。いひひ、と笑う。
「いや、下着のまんま変身してるとは思わねえだろうよ」
「まさかケイちゃん家に来て、脱がされるとは思ってなかったんだよ。きっと」
「うるっせぇ。無理やり脱がせたわけじゃねえっ」
景は赤い顔のまま、舌打ちをした。
琴律は蕩けたような表情で、露わになった萵苣の腿や、蕃茄の下着姿を眺めている。普段は親友らにも見せることのない、油断しきった顔であった。
五人とも、この場にいる阿吽の二人については、存在を忘れていた。少なくとも、男性であるという意識は無いようだった。阿吽たちも、意に介さぬ様子で佇んでいる。
「——先ほどのあれは、お二人で決めた服なんですか?」
琴律は、ロリイタ服に興味を持っているのか、姉妹がそれを脱いでしまっても話題を続ける。
「考えたのは、蕃茄だよ!」
手荷物から取り出した眼鏡を掛けながら、萵苣が答える。
「そう。二人でロリを着たかったから」
蕃茄は一見眠そうに見える半目で、薄く笑う。
「ゴスロリ、お好きなんですか?」
「そう。私は大好き。姉さまは知らないけれど。ゴスは初心者にはハードルが高いから。変なのを着るよりは良いと思って。普通のロリを着てもらった」
「私、服とかよくわかんないからね! 蕃茄に、決めてもらったんだ!」
萵苣は妹の頭を撫でながら、胸を張った。
「——ねえねえ。レタスって、目が悪いの?」
空子が萵苣の眼鏡を見つめて問うた。
「うん、そうなんだ! 普段はメガネだよ!」
「姉さまは。本が好きだから。小さい頃。暗いところで本を読み過ぎて。それ以来眼鏡」
「ひょへー。あたし、周りに目が悪い人っていないからにゃー。メガネって、なんか憧れちゃうわぁ」
「あら。私も目はかなり悪いですよ」
琴律が空子をひょいと抱え、膝に乗せた。
「ほへ? コトちゃん、メガネしてないじゃん?」
「今はコンタクトですけれど」
「え、クウコお前、知らんかったの」
景も驚いて空子の顔を見た。
「えええ、そうだったんだ。そういうのはさー、言ってくんないとだねー」
「別に、わざわざ言う事でもねえだろ」
「家では眼鏡なんですよ」
「ふわー……」
空子が、琴律の眼をまじまじ覗き込んで感心したような声をあげる。
「ケイちゃんは? ケイちゃんも、実はコンタクトだったりする!?」
「残念ながらあたしは、左右とも1・8」
「おおっ、あたしより良い」
雑談は取り留めなく続いた。深夜の会合ではあったが、こうして楽しく話しているのが、大きな秘密を共有する戦友同士であるという事実が、五人のうら若き少女たちを高揚させていた。
どれほど経った頃か。目もすっかり冴えた様子の景が、軽く居住まいを正しながら切り出した。
「阿吽さんよ。あたしひとつ、訊きたいことがあんだわ。いいかな」
「はい」
「どうぞ」
「この二人も、去年からエトピリカやってるって聞いたんだけどよ」
「仰有るとおりです」
「去年、あたしらがあんな目に遭ってるときな。あんたらがこの子らに報せて、一緒になってあの幽霊と闘ってもらう、なんてこと、できんかったんかな」
変身道具を取り出して景や琴律に与えただけで、後は見ているだけだった阿吽に対する、痛烈な非難であった。
「恐れ入ります」
「我々の記憶では」
「あの時点でこのお二人はエトピリカになってはおられないはずでございます」
「そうなんだっけ。姉さま」
阿吽の返答を受け、蕃茄が姉に向き直る。萵苣は少し空を見詰めて考えたが、
「それって、去年の夏休み前でしょ! 私らは、その前のゴールデンウイークが、初めてのイオマンテだったからね! 慥か!」
顎に指を当てて、そう答えた。
「ああン!? それなら、やっぱり——」
景がその吊り目を更に吊り上げ、阿吽たちを射抜くように見据えた。
「まあ。仮にその時。そんな話を聞いていたら。私たちは当然駆けつけたと思う。あなたたちと私たちは。とくにご近所だし。歳も近いし」
「霊珠を使っちゃった尸澱とか、聞いたことないしね! 親獅子とか真蛇にもなったんなら、やっぱ手助けしてあげたかったよね!」
「初戦でいきなりその難易度って。考えられない。三人ともよく生き残った。と思う」
「——おうコラ! 仁王さんよお! あんたら、随分いい加減だなあ! そういうの管理するのが仕事なんだろうが!?」
腰掛けていたベッドを殴り、景が憤慨する。
「申し訳ございません」
「記憶が不正確でございました」
「はあ。私、正直、がっかりしました」
琴律も目を伏せて喟を吐く。
「それでは阿吽さんたち。あの夜は、このお二人がエトピリカとして活動なさってることも失念して、援軍も呼ばず、全くの素人である私たち三人を、ボス級の怪物と闘わせていたわけですね?」
「も」
「申し訳ございません」
「——それなら、あたしも言いたいな」
空子も口を開く。
「あん時さあ。最初はあたしに変身して闘えって言ってたよね。で、ケイちゃんとコトちゃんが来てくれて、二人がエトピリカになったから、あたしは変身しなくてもいいって、言ったよね。あたし、よく憶えてるよ。それってさ、大ちゃんを助けようと思って危ない目に遭ってくれた二人に超失礼でしょ。大ちゃんは、あたしの弟なんだよ!? あたしがもっと早く変身してれば、大ちゃん、助けられたかも知れなかったじゃん! あんなお化けと闘うんだったら、二人より、三人の方がいいに決まってんでしょ! 数の数え方も知らないの、って話だよっ」
「そうですね。クウコさんの言う事は、結果としては違っているかも知れませんが、あの時点では、大ちゃんが獅子口とやらに変えられて、元に戻れないなんてこと、分からなかったのでしょう?」
琴律が、空子の肩を後ろから抱いた。
「あたしさ。ほとんど無理やり阿ッさんから霊珠もらって、それ使って、闘ったよね。それでも、あんな形で終わっちったんだよ。もし、あのまま大地をケイちゃんとコトちゃんに任せて、あたしがすたこら帰ってたら——二人だって、生きてたかどうか……!」
一息でまくし立てると、空子は急に押し黙った。そのまま俯いてしまったため、他の者たちから顔は見えない。
空子が、洟を啜った。
忘れ得ぬ惨劇の当事者であった三人は、どうしてもあの晩のことについて、気持に整理をつけられなかった。今更だと分かっていても、吐き出し、ぶつけずにはいられないのだった。
阿吽の二人も、事のあった当夜の不手際の多さに関して弁明は無いと見え、ただ平伏するばかりであった。
「……」
「……」
橋姫の一件に直接携らなかった蓬莱姉妹は、空子の言葉に関しては何も言えず、ただ三人の顔を見ていた。
ふと、空子が鼻汁を垂らしたまま顔を上げ、阿吽の二人を見据えた。
「ねえ。阿ッさん吽ちゃん」
「なんだそのコンビ名っ」
景が本日何度目かの後方転倒を披露する。
「あたしさあ。あん時の、幽霊のネエチャン——橋姫が生きてた頃のこと、教えてほしいんっすわ。どんな人だったのか、まるっきり知らんもん」
「橋姫について——でございますか」
「禁を犯し甦ろうとした尸澱の女——というよりも以前の話でございますね」
「うん。なんで『大地を』攫ったのか、実のとこを知らないと、ただ憎んだりしちゃダメだと思うんだ。でも、あたしがいくら考えたって結局わかんなくて……」
「そんなもん、関係ないんじゃね? 学校帰りの児童を狙った、無差別な犯行。ムシャクシャしてやった、子供なら誰でも良かった、ってやつだよ」
年頃の少女とは思えぬ恐ろしい顔をして、景が口を挟んだ。
「そう、かも知れないけどさ。死んで生き還ろうとして、あんなんなっちゃったわけでしょ。生まれた時から鬼、ってわけじゃないんでしょ。幽霊になっちゃう前は、どんな女だったのかなって」
「けど、そんなの聞いて、意味あんのか……?」
ティッシュで空子の鼻汁を拭ってやりながら、琴律も阿吽を見上げた。
「私も、伺いたいです。あの方の執拗さ、凶悪さは、尋常ではありませんでしたもの。通常、他の亡者——尸澱たちがどのように襲い来るものか、私は存じません。ただ、少なくともあの方と対峙したとき、私は——生きて帰れる気がしませんでした」
「そうだね!」
萵苣も大きく頷く。
「私らも、真蛇にまでなった尸澱が、生きてた頃にはどんな奴だったのか、知りたいよ!」
「霊珠を。その女に使われたことも。聞いている」
蕃茄が自分の黒髪を指でいじりながら呟いた。
「了解致しました」
阿吽の二人は、五人に向かって頭を下げた。
「皆様は私共根之國のためにも闘ってくださった戦士の方々です」
「敵について知っておかれるのは当然でしょう」
「我々阿吽が把握している範囲に限られますが」
「ご説明を差し上げます」
吽形が浮き上がり、指で宙に枠線を引いた。家庭用テレビほどの大きさの枠線は実体化し、映像を映し出す。
結い上げた日本髪に髪挿を差し、絢爛たる着物から、白い腿を覘かせた女。手には煙管を持ち、雁首からは紫煙が立ち上っている。
女は布団の敷かれた座敷のようなところで寝そべり、物憂げな顔で天井を見上げていた。
「この方ッ——」
「おお。此奴だ」
「……」
空子たち三人が相対した、橋姫その人であった。
生前の橋姫は、幽霊として現れたときとは違い、薄桃色の美しい肌色をしていた。唇に鮮やかな紅を刷き、襦袢の裾から覗いた腿には健康的な色気が漲っている。
「橋姫とは元々『愛し姫』と呼ばれておりました」
「それもあくまで一名ではございますが」
「美しく周囲からも愛された遊女だったようでございます」
「その美貌にて呼出昼三にまで昇り詰めた花魁でございましたが」
「苦界に沈んだ身を厭い」
「川に掛かった橋から身を投げて死んだのです」
「——くがい?」
琴律の膝に抱えられた空子が口を挟んだ。
「クウコお前、ぼーっとしてるようで、結構話聞いてんな」
「ええと。クウコさんに分かりやすいように言うと——あの女はもっと若い頃、親に身を売られて、厭な仕事を何年も休み無くさせられていたんです。それを、苦界に堕ちる、のような言い方をするんです」
琴律は空子の髪に指を通して撫でながら、言葉を選んで説明する。
「へー。若い頃って?」
「うーん。その仕事ができる頃ですから、今の私たちあたりの齢か、もう少しだけ上あたりが多かったんではないでしょうか」
「ええー!! そんなん、労基違反じゃね!? しかも自分の子供を他所に売るとか、完全に犯罪じゃんよ!」
「昔だから、そんな法律なんて無んだよ。ガキだって、家に金がなけりゃ働くのが当たり前だったんだからな」
「しかも、アクセサリー欲しいとか、カラオケ行きたい、という理由じゃないんです。親が貧しくて働くんですから、子供が稼いだお金は全部、借金の返済と生活費に充てるんですよ」
「三度の飯食わせてもらえるだけで、自由になる小遣いなんて、ほとんど無いぞ。よく知らんけどよ」
「ぎょへー、そんな仕事させられてたんだ。それなら、ジサツしちゃう人もいたかもねえ……かわいそ」
空子はすっかりテンションを消沈させて俯いた。
阿吽が説明を続ける。
「死んだ後も己の生様死様を嘆き現世に未練を持ち」
「尸澱となり竟には醜女と化したものでしょう」
「ただし彼女の場合は自ら命を絶たずともその身に残された時は少なく」
「蹴転や飯盛女に堕ち鳥屋に罹って死ぬか」
「いずれにせよ天寿を全うできる命運ではなかったと思われます」
「思えば哀れな女でございました」
「——阿吽さん」
今度は琴律が顔を上げた。
「貴郎がたの仰る“シオル”というのは、亡くなった方が現世に戻った姿だと伺いましたけれど。それというのはいわゆる、幽霊とは違うんですか? 私、この橋姫さんは、幽霊だと思っていたのですけれど……」
「左様でございますね」
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」
「いわゆる幽霊の目撃例というのは」
「多くの場合見間違いや勘違いなのです」
「何を以って幽霊を見たと言うのかは人それぞれなのですが」
「尸澱とは何らかの」
「つまりどのような姿でも構わないとして」
「非正規の手段を用い仮の肉体を無理矢理に得たうえで」
「こちら側へ出てきたものでございますゆえ」
「はっきりと視認できるという点が幽霊とは異なります」
「男性の場合は多く失敗し」
「器物や鳥獣に入り込むことが出来れば運の良い方でございますが」
「女性の場合は人——同じ女性に入り込み現れることがあるのです」
「人に取り憑いた姿で現れた尸澱を目撃し幽霊と呼んだ」
「例としてはそちらが最も多いことになります」
「一度死んで根之國へ来た者が中津國——つまり皆様の生きておられる現世へ戻ろうと足掻く姿」
「それが尸澱でございます」
「——なるほど。生き返ろうとしている者が皆、あの橋姫さんみたいに、立派な姿はしていない、ということですね」
琴律の言葉に、空子がふんふんと頷く。
「んー。話は解るんだけどにゃー。なんつうか、具体的にはイメージが湧かないっていうかさー」
「なあ。なんか教科書的だよなあ。教材ビデオみたいなの見せられてもよ」
景も空子に同調する。
「左様でございますね」
「それならば」
「皆様を根之國へお連れ致しましょうか」
阿吽の言葉に、空子と景が口をぱく、と開いた。
「……ええと、根之——って、いわゆる死後の世界、というやつですか……?」
琴律も、阿吽を見上げて目を白黒させる。
「はい」
「左様でございます」
「ええええっ」
「マジか!?」
空子と景が同時に叫んだ。
「皆様は私共根之國に与し尸澱と戦っていただくエトピリカでございますゆえ」
「ある程度の往き来は可能でございますよ」
「あ、あたしら、生きたまま向こうへ逝って、帰ってこられるんか!」
「そ、そんなこと、許されるんですね……」
琴律は軽く震えている。
「ただし我々阿吽と一緒でなければなりませんし」
「往き来できる“門”も決まっておりますゆえ」
「自由にいくらでもという訳には参りませんが」
「それにセキュリティ関連のコンプライアンスが非常に厳しい処でございまして」
「携帯電話やカメラ、レコーダーなど情報機器のお持ち込みは固く禁じられております」
「悪しからず御了承くださいませ」
そう言うと、阿吽の二人は窓際へ寄った。
「——いやいや、それは分かったけどよ。今からすぐ行こうってか? あたし、寝てたのを起こされたんだけどな」
景が憮然とした顔で皆を見渡した。
「ええと、それなら明日の晩でいいよね?」
空子は阿吽を見上げて問う。
「ふむ」
「左様でございますね」
「このお部屋の中を時間の進まぬ結界としておりますので」
「寝泊まりされても宜しいかとは存じます」
「あくまで景様のお許しがあればの話でございますが」
「勝手なことしやがって……」
景はいよいよ渋面を隠さず、自分のベッドに横たわった。
「お前ら、勝手にしていいぞ。あたしは寝るからな。すまんが、電灯だけ消してくれや」
そう言うと、壁を向いて黙る。
「ありがと、ケイちゃん」
「どうしましょう? せっかくですから、お泊まり会させてもらいましょぅか」
琴律が立ち上がり、部屋の電気スイッチをオフにする。部屋は暗くなり、壁の掛時計の針と数字だけがぼんやりとした緑色で浮かび上がった。
「私らも! お話してていいのかな!」
闇の中で萵苣が場にそぐわぬ声を出し、すぐさま妹にチョップを喰らう。
「姉さま。静かに」
「ああ! ごめんごめん!」
どうやっても、萵苣の声のボリュームを絞ることは難しそうだった。
四人の来客たちは、電灯の消えた景の部屋で、小声のガールズトークを続けた。
結局、暗闇の中で真っ先に寝息を立て始めたのは空子であった。
「私達も、少し休みましょうか」
琴律は知り合ったばかりの姉妹——とりわけ妹の蕃茄の側に寄り添い、やけにその髪やら肩やらを撫でたりしていたが、やがてあくびを手で隠しながら提言した。
「そうする。皆が自然に起きるまで。私達も横になった方が良い」
そう言うと、蕃茄はクッションを琴律に渡し、ごろんと横になった。
「そうだね! おやすみなさい!」
相変わらずの声で挨拶すると、萵苣も壁に凭れ掛かって目を閉じる。
「おやすみなさい……」
琴律は闇の中で座ったまま、蓬莱姉妹の寝姿を見ていた。やがて蕃茄を正面から抱くようにして横たわる。暗がりに目が慣れて、物の輪郭くらいは見えるようになっていた。
寝顔と下着姿とをじっと見較べたり、蕃茄の髪を撫ぜたり鼻を近づけて匂いを嗅いだりしていたが、そのうち目蓋を閉じて、琴律は本当に眠りに落ちた。
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