第六話「根之國」

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第六話「根之國」

 皆が目を覚ましたとき、相変わらず外は夜のままであった。どれくらい時間が経ったのか、すでに把握している者はいなかった。  五人は阿吽(あうん)に導かれるまま、夜の道を歩いた。  うら若き乙女たちが、貴重な夏休みの時間を使って、人が死んだ後に向かうと云われる国を見学するために、ぞろぞろと歩く。夏海(なつみ)(けい)は、(変なことになっちゃったなあ)と改めて思った。  姉の萵苣(れたす)はともかくとして、妹の蕃茄(とまと)は完全に下着姿で往来を歩いているではないか——と景が大声で指摘したのは、五人が景の自宅から十五分ほど歩いたところにある稲荷神社の階段を登っている途中である。  景の部屋の窓をこっそり出てからそれまで、景はその事に全く気付くことなく夜道を歩いていたのであるが、龍泉寺(りゅうせんじ)琴律(ことり)が妙に嬉しげに、初対面の蕃茄と話したがって隣に寄って行くのを不自然に思い、見咎めたものであった。  田舎の夜道にいくら人通りが無いからと云って、ダブルストラップのキャミソールにレース装飾のショーツだけという格好は常軌を逸している——と景は呆れ、他の四人がそれについて何も言わないことに関しても、不満げな顔をした。 「——え。ケイちゃん、気付いてなかったん?」  空子(そらこ)は呑気な様子である。萵苣も意に介さず、にこにこしている。 「逆にお前は、気付いてたんなら突っ込めよっ」  景は階段を登りながら蕃茄に近付き、呆れた様子で囁いた。 「お前なあ。こういうのは、コトを喜ばすだけだからな。次から、ちゃんとした格好(カッコ)して来いよな」 「どうして。龍泉寺さんが喜ぶの」 「えっ」  蕃茄から急に顔を見上げられ、琴律は顔を赤らめた。 「コト。お前も、こういう純な歳下の子に、悪戯(いたずら)とかすんなよ」 「あらまあ、非道い仰りよう。悪戯だなんて不名誉なことはしません。私はごく当たり前に、蕃茄さんと仲良しになりたいだけなのですッ」  景はやれやれ、と言いたげな様子で頭を掻いた。  そうこうしているうちに、五百段ほどの階段を登り切る。視界が開け、大きな鳥居と、奥に本殿が見える場所へ出た。日頃から走り回っているため平気な顔をしている景とは対照的に、インドア傾向の琴律は息を切らしている。 「さて」 「お疲れ様です」 「ここから鳥居をくぐっていただきます」  阿吽の言葉に、琴律は露骨に辟易した顔をする。 「ま……まだ登るんですか」 「そうだよ! むしろ、ここからが本番って感じかな!」  萵苣がにっこり笑って、琴律の背中をぽんぽんと叩く。 「一緒に頑張ろう。龍泉寺さん」  蕃茄がそう言って琴律の手を握ると、琴律は鼻息荒く背筋を伸ばした。 「——ちょっと待て」  景が後ろから、萵苣の肩に手を置く。 「えっ! 何かな!」 「お前ら、ここに来た事があるんか? というか——向こうへ行った事あるんかよ!?」  景が目を丸くして問う。 「うん! 一度だけね!」 「私と姉さまは。去年からエトピリカだから」 「本当(まじ)かよ——」  景は二の句が接げず絶句する。  死後の世界を見てきた——などという与太を口にする輩は、古今東西、幾らもいるらしい。しかし、それを証明できた者となると、残念ながら一人もいない。  果たして、人は死ぬとどうなるのか。  それはすべての人類に共通した、あまりにも遠大な命題であり、実際に死んでみるまでは分からない。——それが、不変の約束事のはずであった。  逝くだけならば、誰でも逝けるのだ。問題は、現世に戻って来られるか否かである。  だが、自分と仲良く喋っている目の前の姉妹は事も無げに、行ってきたよ、などと言う。景にしてみれば、平然とそんな事を言われても困るわい、という思いである。  生きたまま死後の世界を観て帰ってきて、年端もいかぬ少女が、正気を保っていられるものなのか!  それに、その話があまりに現実離れしすぎていて、自分がこれから生きたまま行く事になるのだ、という事実も俄かには呑み込めない。  景は天を仰いで嘆息した。 「——まあ、お二人が向こうへ行ったことがある、という話は不思議ではありませんよね。一年先輩の、経験者なんですからね。私たちも、それへ続くだけのことですよ」  琴律も心なしか緊張したような顔で呟く。 「そうかもにゃー。不思議だって言うなら、あたしらがこれから行くとこ自体、不思議なとこなんだもんねー」  空子は伸びをしながら言った。 「お前は、分かっておるんか、おらんのか……」  景は先ほどから、呆れた顔と興奮した顔とを忙しく切り替えている。 「——それで、ど、どんなとこなんだ。死んだ後の人が行く(とこ)ってのは」  ごくりと唾を飲み込みながら、景は萵苣に詰め寄る。 「えーっとね!」  顎に指を当てて答えようとする萵苣を制し、空子が景の前に出てきた。 「うぉおいケイちゃん、落ち着こうぜー。あたしらは、今から実際に、そこへ行くんだからさー。聞いちゃったら、つまんにゃいでしょー」  脇腹や胸を突ついてくる空子の指を躱して、景は幾度も(まばた)きをする。 「あ——ああ。それは、そうだな」  景は大きく深呼吸をした。 「よっし」  阿吽に導かれるまま、五人は大鳥居をくぐった。  境内の社務所や摂社、本殿を通り越して、いわゆる鎮守(ちんじゅ)(もり)の最深部へと辿り着く。 「ねえコトちゃん。あたしたちってここの神様、拝んどかなくていいんかな」 「そうですね。今回は、心の中で拝んでおきましょうね」 「んー、でもこういうのって、形が大事なんじゃないの。お婆ちゃんが言ってたよ。実際にきちんと手ェ合わせて、拝んだぞ、って自分で思うからこそ、そういう気持になるっていうか」 「それなら、神様ん(とこ)に下着で来てる妹ちゃんは、不敬ってことになるなァ」  蕃茄の姿を横目で見て、茶化したように景が笑う。 「ですから、心で敬っていれば、いいんですっ」  なぜか琴律が口を尖らせる。 「——私。神様に申し訳ない。神社へ来ることになるとは。思っていなかったから」 「わっ。じょ、冗談だよっ」  少しだけ俯いた蕃茄を見て、景が焦った様子で頭を撫でる。  萵苣はその様子を、にこにこ笑って眺めている。 「——この社叢(しゃそう)に踏み入っていただきますと」 「根之國(ねのくに)へと続く道がございます」  阿吽が促すが、鬱蒼と生い茂る(むく)の木々の間を見遣っても、夜目のせいか道らしきものは見えない。  空子たち三人が顔を見合わせていると、蓬莱姉妹が先に立ち、手招きをした。 「大丈夫だよ! ここから見えないだけだから!」 「生きている人が。間違って入らないように。してあるの」  再度顔を見合わせ、三人は意を決して暗い杜へと足を踏み入れた。  街よりも遥かに高い場所に位置している神社には、人里の()は届かず、木々が月明かりさえも遮って、鎮守の杜はまさに深淵の闇の中であった。  ざり、ざり、という自分たち五人の足音が、やけに大きく聴こえている。遠くから届く夜の鳥の声が、暗闇の気味悪さを弥増(いやま)した。  空子は歩きながら、つないでいた琴律の手をぎゅっと握った。琴律は反対側の手を蕃茄とつないでいる。 「ねえー……」  あまりの暗さに心細くなった空子は、誰にともなく呼びかけた。 「ここにいますよ。クウコさん」  すぐ横の高い位置から、穏やかな声がかかる。 「大丈夫」  琴律の向こう側から、落ち着いた蕃茄の声も聴こえる。 「うんっ」  空子は、抱いていた不安が胸のわくわくに変わったのを感じた。 「——お、おーい……お前ら、いるよな……?」  少し前の方から、心なしか震えた景の声がした。 「もう、夏海(なつみ)ちゃん! あたしが手握ってあげてるでしょ!」  元気の良い萵苣の声も聴こえる。 「へーい。いるよー」  普段シャキシャキしている景が、暗さを案じて心穏やかでない声を出している。それが可笑しくて可愛らしくて、空子は自分のことを棚に上げて、調子の良い返事をした。 「なあ、阿吽さんたちも、そこにいるんだろ?」 「はい」 「おりますよ」  景の声に応え、やはり声だけが響く。 「これさ、灯りとかつけてもらうわけにはいかんの? 暗すぎて、どっちに歩いてんのかも分かんねえわ」 「これは申し訳ございません」 「恐れ入りますがこちらで灯りをつけますと」 「善し悪しを問わず様々な存在(もの)が灯りを目指して集まって参ります故」 「暗がりのまま征くのが慣例となっております」 「何卒ご了承くださいませ」 「皆様にはただ歩んでいただくだけで」 「足はひとりでに根之國へと向かうようになっております」 「……そ、そうか」  半ば無理やりに納得させられてしまった。 「それに」 「間も無く灯りは見えて参ります」 「え?」  遠くにぽつりと、柔らかな燈明が見えた。  五人が近づくと、闇の中に二つの提灯が浮かんでいることが分かった。障子紙を透して、二つの燈火が、その間に立つ鳥居の真っ赤な色を闇に浮かび上がらせていた。  境内に入る際にくぐったものほど大きく立派ではないが、朱塗りの鳥居が狭い間隔でいくつも奥の方に向かい立ち並んでいる。そしてその間には石段がどこまでも続いていた。一段ごとに一基の鳥居が設えられた格好であった。 「あっ」  空子が自分や皆の服装を見て、声をあげた。 「みんな、見てこれっ」 「何だよ——おおお?」 「あらあら、まあ」  景と琴律が互いを見て、目を丸くする。  五人は、いつの間にかエトピリカの装束を纏っていた。 「皆様お気づきになりましたね」 「ここからはエトピリカとして征くことになります」 「こちらは既に根之國に近い場でございますので」 「我々が死者の(おもい)を抽出するまでもなく」 「変身が可能でございます」  阿吽が降りて来て、説明を始めた。  曰く、エトピリカの姿でなければ、境界である鳥居をくぐる事はできないという。 「儀礼的な意味もあり」 「また安全上の制約でもございます」  本来は生身の人間が来るような場所ではないため、エトピリカとしてでなければ、黄泉(よみ)の瘴気に当てられ、身体がだんだんと死者に近づいてしまう。生きたまま死者になってしまえば、二度と中津國へ戻ることはできなくなる——阿吽の説明を要約すると、そういった内容であった。 「よく分かんないけど、変身してれば、あっちへ行っても平気ってことだね」 「はい」 「空子様の仰有るとおりです」 「それではこれよりこちらをくぐって参りますが」 「皆様どうかお声を立てられませぬよう」 「え、喋っちゃダメなんか?」 「そうみたいですね……」 「あたし、大丈夫かにゃー? 自信無ーい」  阿吽が再び五人を先導するために浮かぶ。それに続いて、少女たちは鳥居をくぐって石段を登り始めた。  先ほどまでの真っ暗な(もり)の道とは違って、鳥居の両脇には提灯が設えられているため、歩くのに不安を抱かせることはなかった。提灯の火は、先頭の阿吽や景が差し掛かると勝手に灯り、殿(しんがり)の萵苣が通り過ぎるとまた勝手に消灯した。それでも、足元ばかりか互いの顔や姿を確認できる程度の明るさがあった。  足元の石段を見れば、ひび割れたり(こけ)()したりしており、その古さが窺えた。一段の高さは子供でも難なく登れるほどのものであったが、それこそ何百、何千段あるのかは(よう)として知れなかった。  時折、提灯の下、鳥居と鳥居の合間に、白い狐が顔を覗かせることがあった。稲荷神社に仕える者として、様子を伺いに来ているのかも知れなかった。  それらを横目で見ながら、五人のエトピリカたちはただ黙りこくって石段を登り続けた。  どれほど時が経ったのか。五人はやがて、石段を登り鳥居をくぐり切った。  石段を登るうちに朝になってしまったのか、それとも、死後の世界に時間の観念などは無いものなのか。石段の頂上は仄明(ほのあか)るく、ちょっとした広場のように開けていた。  白い玉砂利が敷き詰められた地面。肌に冷んやりと心地よい空気。名も知れぬ木々が茂った奥の方には、小さいが水量豊かな滝が滔々と落ちている。 「……」  景は物も言えず、ただ深く息を吸って吐いた。  蓬莱姉妹も揃って伸びをしていた。  琴律は天を見上げ、滝の落ちる水音を聞いた。空は薄青く、雲は無かった。景色を見回し、まるで掛軸の絵のようだ、と思った。  エトピリカになっているため、体力持久力に自信のない琴律であっても息を弾ませずに済んでいた。 「……お腹減ったなぁ」  空子の第一声により、誰もの緊張感が一気に解れた。長時間に亘る沈黙は、皆に無意識のストレスとして蓄積していたのだった。  阿吽が五人の中心へ降りてきた。 「皆様お疲れ様でございました」 「暫し休憩致しましょう」 「あちらの垂水(たるみ)阿密哩多(アムリタ)と申しまして」 「天津國(あまつくに)より降る甘露水が流れ落ちております」 「実際に甘い味こそ致しませんが」 「渇いた身体を潤し疲れを取る美水(うましみず)」 「お喉に清涼を齎す純度高き軟水でございます」 「どうぞご随意に」  琴律がまず目を輝かせ、滝へ駆け寄った。続いて景や蓬莱姉妹も滝へと歩み寄る。 「ねーねー。あたし、なんか食べたいにゃー」  空子も四人に着いて歩きながらも、阿吽を見上げ、心許なげに声をかける。 「何らかのおやつっていうか、ご飯とか無いんすかねぇ」 「食べ物でございますか」 「うん」  阿吽は顔を見合わせ、空子の目の高さまで降りて頭を下げた。 「空子様」 「大変恐縮なのですが」 「こちらは既に根之國でございまして」 「生者の方がこちらの火で煮炊きしたものをお口になさいますと」 「お身体が死者と同じになってしまいます」 「そうなれば二度と中津國(なかつくに)へは戻れなくなります」  空子は何度も瞬きをする。 「……えっと。ここが根の国っていうんでしょ。なかつ国っていうのは……」 「空子様のように生きた方たちがお暮らしの(ところ)でございます」 「こちらでお食事をなさいますと」 「空子様のお身体が」 「死者——つまりは尸澱(シオル)どもと同じになってしまいますので」 「無理に中津國へ戻ろうとなされば」 「空子様以外のエトピリカよりイオマンテを施されてしまいます」 「——そ、それって?」 「つまりは空子様は尸澱と見做され」 「景様琴律様達に退治されてしまうことになってしまうのです」 「にゃんと、マジでっ!? じゃあやめとくっ」  空子は飛び上がって驚き、慌てて滝の方へと走った。  小ぢんまりとしているが美しい滝からは、綺麗な水飛沫が霧状に散っていた。その滝壺の前で、既に思う存分喉を潤したらしき琴律が、泉の前で着物の前を(はだ)けて立ち、うっとりと目を閉じていた。 「うわぁコトちゃん、何やってんのぉ」  思わず水を飲むのも忘れて空子が立ちすくむと、(ほとり)で胡座をかいてくつろいだ様子の景が、眉をハの字に寄せる。 「水飲んだ後、いきなりストリップ始めやがってな。慌ててあたしが上だけ羽織らせたんだわ」 「コトちゃん、おっぱいこぼれちゃいそうなんすけど……」 「変な開放感を味わってる最中だから、邪魔してやるなよ」  もう諦めた、と言いたげな顔で、景は玉砂利の上に寝転がる。 「コトリちゃんは、滝の水を浴びて汗を流したいんだよね! 気持は分かるよ!」  口をつけて滝壺の水を飲んでいた萵苣が顔を上げ、笑った。 「クウコちゃんも、ここで水飲もうよ! おいしい水だよ!」  妹のスカートの裾をつかんで口を拭った萵苣は、脳天にチョップを喰らう。 「龍泉寺さんは。帯電した水滴で肌が綺麗になるはずだと言って。滝の飛沫を浴びているところ」  蕃茄がスカートを直しながら、琴律の方を見遣った。琴律は時折姿勢を変えながら、薄衣(うすぎぬ)だけを纏った格好で陶酔したように目を閉じている。 「——いただきまっす」  空子は手を合わせ、滝から落ちてくる水を両手で受けてごくんと飲んだ。 「ぷっはあ! 何これ、おいっしい!」  それは、文字通りこの世のものとは思えぬ喉越しと清涼感を感じさせる水であった。凍っていないのが不思議なほどに水は冷たく、それでいてきんきんとした舌触りはない。無言を強いられ、長時間に亘る歩行によって不快に火照った身体が、いっぺんに癒えた。  空子は無我夢中で、ひたすらに滝の水を飲んだ。喉を通った水が、全身の細胞で漉されて頭の中にまで染み渡ってゆくのを感じる。  大地もここを通り、この景色を見て、この水を飲んだのだろうか。そう考えて、空子は鼻の奥がつんとするのを感じた。 「ああああ!」  空子は感極まって、大声を出す。涼しく気持ちのよいロケーションと、最高に旨い水。傍らには友。なんだか申し訳なく思えるほどに、今の自分は満ち足りている。心から、そう思えた。 「ねえ阿ッさん。この水なら、たしかにご飯は食べんでも済むかもねー」  近くに漂っていた阿形を呼び止め、空子は満足したことを伝える。 「それは宜しゅうございました」  吽形もやってくる。 「この阿密哩多(アムリタ)で満足されたのであれば」 「餓鬼道に堕とされることもありますまい」 「がきどう?」 「——腹が足りているにも拘らず」 「口は卑しく食を求め」 「旨いものを旨いものをと貪った者は」 「黄泉國(よもつくに)餓鬼道(がきどう)という(ところ)へ送られます」 「そこでは腹が減ると食べ物がひとりでに現れるのですが」 「口に入れようとした瞬間に」 「火へと変わってしまうのです」 「つまり永久に口や腹を満たすことができないのでございます」  阿吽はいたずらっぽく、にんまりと笑う。彼らなりのからかいであろうか。 「さ、最悪じゃないっすかぁ」  心底から怯えた様子で、空子は身をすくめた。今しがたの爽快感を台無しにされ、それこそこの世の終わりのような顔をする。食の愉しみこそ()が人生なり、という信念を持った空子にとって、それは何より恐ろしい刑罰に違いなかった。 「しかしさすがは空子様」 「阿密哩多(アムリタ)を飲まれるのみで満足なさったのであれば」 「普段から必要な分だけ召し上がり」 「無駄な食など貪っておられないことは明白」 「そ、そりゃあそうだよっ」  周りで、景や萵苣がにこにこ笑っている。 「お腹が減らないのに、ご飯食べたいとか言わないよう、あたし」 「——そうかァ?」  景が口を挟んだ。 「お前、飯食ったすぐ後でも、平気で菓子食うだろ。そういうやつが、餓鬼道ってのに堕とされるんじゃねえんか?」 「えっ」 「給食もだよ! クウコちゃんは、休んだ子の分まで食べてるって聞いてるよ!」 「ええええ」  空子は半泣きで身を捩った。 「残したら勿体ないし、他の子が食べられない分って、食べたらダメかな? それにご飯の後、デザートとかって別腹なんだよう。お腹いっぱいでも、入るんだもん。おいしいんだもん」  萵苣と景は、本気で怯えている空子が可愛くてたまらず、笑いを堪えるのに必死な様子である。  蕃茄が萵苣の背中をつつく。 「姉さま。あまり天美さんをからかわないの」 「あはははははは!」  萵苣が耐えきれず噴き出した。  呆れ顔の蕃茄の前に、前髪を上げた琴律が歩いてくる。 「ああ。堪能しました」 「コトちゃん、お疲れちゃん」 「こんなことなら私、タオルを持って来ましたのに」  満足げな様子の琴律に、空子は手を振った。琴律がにっこり微笑み、手を振り返す。  蕃茄は相変わらず半分閉じたような目で、琴律を見上げる。 「……」 「蕃茄さん。滝の飛沫を、一緒に浴びませんか。冷たくて、気持が良いですよ」 「私は結構。もともとあまり汗も掻かないし」 「そうですか……」  しゅんとした様子で、琴律はエトピリカの装束の前を合わせ、帯を締め始めた。 「——さて」 「そろそろ参りましょうか」  阿吽が五人の様子を伺いながら浮かび上がった。 「この水簾(すいれん)をくぐれば“道反(ちがえし)の岩戸”」 「それをくぐれば“黄泉比良坂(よもつひらさか)”」 「それを(のぼ)りまして“根之國(ねのくに)”でございます」  琴律が天を仰ぎ、ふうと歎息する。 「せっかく汗が引いたところですのに、まだ歩くのですね」 「たいへん恐れ入ります」 「やはり生死の境というものは簡便化するわけにはゆかぬのでございます」 「簡単に往来が適ってしまっては」 「生者が迷い込み死者が舞い戻ることにもなりかねませぬ故」 「はあ。……解っていますよ」  琴律は大きく伸びをする。  萵苣がにこにこしながら妹の肩を指で突ついた。 「……」  突つかれた蕃茄は、琴律に歩み寄ると、無言でその手を握る。  琴律は自分を見上げる蕃茄の透き通った黒目を見つめると、やがてふっと笑った。 「……ありがとうございます」  誰にともなくそう言うと、琴律は蕃茄の手を握り返した。  水のカーテンのような滝を潜ると、その奥は坑道のように土が剥き出しになった狭い通路が続いていた。道の両側には、等間隔に松明(たいまつ)が設えられ、篝火(かがりび)が焚かれている。先程とは打って変わって薄暗い隧道であったが、不思議と気味の悪さは感じられなかった。  狭い道を少し歩くと、大きな岩がそこを塞いでいるところへ突き当たった。岩の上部には真っ黒で(つや)のある毛のようなものが被せられ、注連縄(しめなわ)が巻かれている。岩と壁との隙間はほとんどなく、人が通行できるような場所ではなかった。 「何じゃこりゃ……通れんじゃないか」  景がごつごつと拳で叩くが、岩は割れるどころか、動く気配すらない。 「あっ……ひょっとすると、これが例の、あれでしょうか。男神(イザナギ)が置いて道を塞いだという……」 「左様でございます」  琴律の言葉に、吽形が髪を揺らしながら答える。 「これは道反(ちがえし)の岩戸と申しまして」 「黄泉より追ってくる醜女(シコメ)や腐れ果てた妻より逃げ(おお)せるため古神(ふるかみ)が置いたと伝えられております」  阿形もやってきて声を揃える。 「今では道反(ちがえし)大神(おおみかみ)という名で岩戸そのものが祀られております」 「——では、この岩を挟んで、最古の夫婦神が会話をしたという……?」 「はい」 「意味の上ではこの岩を隔てた此方と彼方こそが」 「生と死の境界であると云うべきなのでしょう」 「(もっと)も我々とて実のところは存じ上げません」 「あくまでも上がりたる世の伝え語りでございます故」 「——そ、そのような、大変なところに私たち、来てしまったのですね」 「……」  景の、ごくりと唾を飲み込む音が響いた。 「それで——この岩をどうすれば宜しいんでしょう?」  琴律が岩を撫でながら、阿吽に問う。  蓬莱姉妹は何も言わない。 「ぶっ壊すの?」  空子は片足を上げてぷらぷらと揺すり、いつでも蹴るよ——というポーズを見せる。 「あいや空子様」 「それはご勘弁くださいませ」 「空子様の攻撃を受ければ岩戸は崩失し」 「それに乗じた尸澱(シオル)どもが舞い戻り」 「中津國は死人(しびと)で溢れてしまいます」  阿吽の二人は芝居がかった大仰なポーズで空子を制する。 「じゃあ、どうすりゃいいんだよ。退()かせばいいんか?」  景が痺れを切らした様子で、岩戸に両手を突く。ぐっと力を込めるが、岩戸はぴくりとも動かない。 「男神(イザナギ)も、手で動かして置いたわけですしね」  琴律も景の隣に立って片足の裏を当て、力を込める。やはり動く気配はない。 「此処を通るには合言葉が要りますれば」 「この様に致します」  阿吽は同時に岩に手を当てると、すっと神妙な面構えになって、声を揃えた。 「()けまくも(おとろ)しき伊邪那岐大神(イザナギのおほみかみ)」 「筑紫(ちくし)日向(ひむか)(たちばな)小戸(おど)阿波岐原(あわぎはら)に」 「御禊祓(みそぎはらえ)(たま)ひし時に()()せる祓戸(はらえど)大神等(おほみかみたち)」 「諸々(もろもろ)禍事(まがごと) (つみ) (けがれ)有らむをば」 「(はら)(たま)(きよ)(たま)へと(まを)す事を()こし()せと」 「(かしこ)(かしこ)みも(まを)す」  それはいつにも増して、厳粛な声音であった。  空子も景も、なんとなくそれを感じ取って、いつになく真面目な顔つきで黙っている。  今のは、神社で聞く祝詞(のりと)というものであろうか——と琴律が背筋を正したとき。  岩が両目を開いた。 「えっ」  注連縄の下、黒く長い髪の毛のような(ふさ)の間から、ふたつの大目玉がぎょろり(・・・・)と覗いた。 「わっ」 「なに!?」  目玉は左右に動いて五人を見つめたのち、その下に二つの大きな鼻腔、そして大口をばっくり(・・・・)と開いた。 「顔だ!」  空子は跳び上がって、琴律の背中にしがみつく。 「これは……」  琴律も目を丸くして、大岩の表面に現れた顔面を見つめる。  岩は口——と思しき裂け目から、象のごとき牙を剥き出し、喋った。  ——(たれ)か。  文字通り地の底より響く、聞く者に(おそ)れを(いだ)かせる声であった。空子は琴律の背に隠れたまま、ぐびり(・・・)と唾を呑み込む。 「お休みのところ恐れ入ります」 「おとろし様に在らせられましては」 「御機嫌如何に御座いましょう」  おとろし(・・・・)と呼ばれたそれは、巨大な顔をこちらに向け、ゆっくりと五人を見た。黒々とした豊かな毛髪が、顔だけのその者を覆っている。前髪がひと房、両目の間を通り、大きな獅子鼻の真ん中、さらに恐ろしげにひん曲がった口の上を通り、顎のはるか下まで、ひときわ長く伸びていた。  隧道を塞ぐ古い岩としか思っていなかったものが、どうやら生きており、阿吽らと意思疎通可能な存在であるらしい、という事実は空子らを一方で落ち着かせ、また一方で新たな鬼胎を抱かせることとなった。なにしろ、これは全く未知のものである。  ちらと空子が目を向けると、景が「おおぅ……」と声を漏らしながら、身を強張らせているのが見えた。  幼い頃に読んだ漫画だか妖怪図鑑だかに、琴律はその名を見たことがあった。しかし如何なる存在であったものか、とんと記憶に無い。見た目はまるで獅子舞(ししまい)(かしら)のようでもあり、神楽(かぐら)男神面(おがみめん)のようでもあるな……と琴律は思う。  ——()(うん)と、(とり)らか。 「如何にも仰有る通りに御座います」 「豊葦原千五百秋瑞穂之中津國(とよあしはらのちいおあきのみずほのなかつくに)より参りました此の者共を連れ」 「根之堅州國(ねのかたすくに)へと向かいますれば」 「此方(このかた)を通りたく」 「おとろし様にお声掛け致しました」  ——(とり)は、()(もの)らであるな。 「はい」 「我々が見定めまして御座居ます」  ——(わし)()た。()し。(とお)れ。 「有難う御座居ます」  阿吽が声を揃えて頭を下げると、おとろしの姿が消えて無くなった。 「えっ」 「あれ?」  驚いて振り返ると、一行の後ろに長い黒髪が見えた。いつの間にやら、おとろしはその巨体——巨顔と呼ぶべきか——を移動させていた。  ——儂は(また)(ねぶ)る。  そう言うと、おとろしは再びその目を閉じた。 「……」  空子たちは、声も出せずに立ち尽くす。 「さあ先へお進みくださいませ」 「愚図愚図しておりますと」 「おとろし様は再びここを塞いでしまわれます故」  阿吽に促され、五人は通路の奥へと歩き出した。  しばらく歩いて、ようやく景が口を開く。 「……何なんだよ、さっきのあれは」  阿吽が揃って、したり顔で答える。 「おとろし様でございます」 「永劫の刻を経て岩戸は意志を持ち」 「生きた門番へと姿を変え」 「(あら)ゆる者を通さじと鎮座(ましま)して居るのです」  景は未だ驚きが薄れないような顔をして、後を振り返る。  琴律も同様に、何度も瞬きをしながら問う。 「男神(イザナギ)が逃げる際に置いた大岩が、あのように命を持った、ということですか」 「琴律様の仰有る通りでございます」 「実を申せば」 「一体いつからああして居られるものか」 「我々もはっきりとは存じ上げないところでございます」 「そうですか……」 「怖い顔だったねー。あれなら絶対、勝手に通れないじゃん」  空子も珍しく神妙な面持ちで振り返る。  生死の境をくぐるという神秘の体験に対して身構えていた三人は、もっと幽玄あるいは荘厳な雰囲気を期待していたが、よもや生きた人面岩が道を塞いでいるとは、夢にも思わない。 「あれは、(おど)かしもいいところですよ」 「あははは!」  琴律がぶつくさ言っているのが可笑しいのか、萵苣が大笑いした。 「そういえば、あれ(・・)がいること、お前らは知ってたんだろ。あたしらに、内緒にしてやがったな」  景が蓬莱姉妹の方を向いて悔しげな顔をする。 「そう。その方が。面白いと思って」  表情を変えずに、蕃茄が呟いた。 「へっ。まんまとびびらされたって訳だ……」  景は苦笑し、歩調を速める。 「なあ。あんたらが言ってた『門番の役目』ってのは、さっきのあれのことなんか?」  阿吽を見上げて問う。 「——あれなら、あんたらがいくらサボってたって、勝手に逃げる奴なんていないんじゃねえ?」 「いえ」 「門番の役目といいますのは」 「単に我々がおとろし様を拝みお願いをすることで鍵の役目を兼ねているというだけのこと」 「根之國より黄泉比良坂(よもつひらさか)へと通ずる関所を通るには」 「様々な手続きが必要になっております」 「それらを済ませて通関し」 「我々二人を連れて初めて岩戸をくぐれるのです」 「……それならば、ここから遁走することなど、(なお)のこと不可能なのでは……?」  琴律が首を傾げた。  緩やかな上り坂になっている道はだんだんと広くなり、やがて再び外へ出た。  明るい空の下に木々が茂り、その間を縫うように道が続いている。外から見ると、今しがた歩いてきたのは洞穴の中であったのだと分かる。  里山の道をしばらく歩くと、突然大きな木門に行き当たった。深山の寺院の如き巨大さで雄々しく建つ大門が、如何なる者をも通さじと云わんばかりの威容で堂々と構えている。 「大変お疲れ様でした」 「こちらが根之國の入口でございます」  阿吽が深々と頭を下げた。 「はー、ようやく着いたのかァ」 「長かったですね……」  空子たちが息を吐くと、阿吽の二人は地面に降り立ち、五人に向かって最敬礼の姿勢を取った。 「少々失礼いたします」 「元々は此処(こちら)が我々阿吽の職場でございます故」 「立哨を勤める際の姿に戻らせていただきます」 「んにゅ?」  常に浮いている阿吽らが地面に立つとは珍しい——と空子が思っていると、フィギュアのような大きさをしていた二人の全身が、ぐんと膨れ上がった。  目をまん丸く見開いた空子たちが見守る中、二人は一気に背筋を伸ばし、琴律の身長を大きく超えるまでに質量を増大させる。 「……は?」  景も目の前の光景を受け入れられず、間の抜けた声を洩らす。  もともと褌一枚の上に薄衣を纏っただけの格好であった阿吽らは、等身大の一般男性サイズになると、その筋骨隆々ぶりが目立ち、噎せ返るほどの男くささが漂った。  心なしか目を潤ませている琴律の姿が見えた気もしたが、景は気のせいだと思うことにした。  通常の人間サイズに留まることなく、そのまま阿吽らは身を膨らませ続け、とうとう大門とほぼ同じ大きさにまで巨大化してしまった。 「これは……少々ゆき過ぎでは……」  さすがの琴律も、呆れた様子で二人のハンサムマッチョを見上げる。  阿吽が揃って息を吸い込む。 「根之堅州國(ねのかたすくに)立哨門衛・金剛力士(こんごうりきし)阿形!」 「同じく根之堅州國立哨門衛・密迹力士(みっしゃくりきし)吽形!」 「豊葦原中津國(とよあしはらのなかつくに)よりエトピリカ五名に同行し帰国!」 「開門!!」  二人の巨大な男は裸足を踏みしめ、門の向こうへ向けて、雷鳴の如き音声(おんじょう)を轟かせた。 「うわア」  耳を塞いでも腹に響く声に、景は思わず身を縮こませる。 「ぬっひょー、格好(カッコ)いいいいっ」  空子は何故か大喜びし、小躍りしていた。蓬莱姉妹も耳を塞ぎながら、その様子を見て苦笑する。  阿吽の怒鳴り声に負けない轟音と共に、木の大門が内側へ向かって開いてゆく。  青い空が広がる(もと)、門内には綺麗な玉砂利が敷かれ、奥には寝殿造(しんでんづくり)の立派な(やしき)が見えた。門から邸に向かっては、飛び石が続いている。煌びやかさは無いが、落ち着いた色と佇まいは美しくあった。  琴律が、ほうっと吐息を漏らした。 「……わあ」  空子も言葉が出ず、ただ声だけを出した。  五人の少女たちは、静かな門の中へと足を踏み入れた。 「この奥が受付になっております」 「手続きを済ませていただければ案内の者が参りますので」 「恐れ入りますが我々は此処にて失礼いたします」 「——うおーいっ。ここまで、ありがとー」 「お疲れさーん」  空子たちは巨大な阿吽に手を降る。  門扉がひとりでに閉じてゆく向こうで、阿吽が深々と頭を下げた。  五人は庭園を歩いて(やしき)に入る。しんと静まった空気があまりにも厳かで、ぺらぺらと雑談などをする気にはならなかった。  邸の入り口から、小部屋を覗く。中ではカフェーの女給のような、若草色の着物に白いエプロン姿の女性が座布団に座り、文机(ふづくえ)に向かって書き物をしていた。  先頭の萵苣が、女性に声をかける。 「こんにちはーっ!」 「あら。萵苣(れたす)さんに蕃茄(とまと)さん、お久しゅう。今日はまた、えらい大勢で。おこしやす」  女性は顔を上げて五人を見ると、ぽんと両手を合わせた。静謐な空気を大声で震わせた萵苣を咎めだてするような様子もなく、にこにこと笑っている。 「——あれっ。なんかこの人、見たことあるよ」  空子が女性の顔を見て、声をあげる。女性はまだ若く、その優しげな風貌は、十代でも通りそうに見えた。 「は? クウコお前、なんでこんな(とこ)に知り合いが居んだよ」 「思い出した。紹介ビデオみたいなやつだ」  それは一年前、初めてエトピリカになって橋姫と闘うことになる夜、阿吽に観せられた紹介映像内で、フリップボードを片手に説明をしてくれていたメイド服姿の女性であった。空子はなんとなく親しみやすさを覚え、女性の座っている板の間に手を突いて、飛び跳ねながら挨拶をする。 「こんにちはっ」 「はい、こんにちは。——皆さんも、エトピリカどすか?」 「そうでっす」 「可愛(かい)らしおすなあ」  女性は空子に向かってにこりと微笑むと、(かたわら)抽斗(ひきだし)からA4サイズの紙束やらカード類やらを取り出した。  受付に於ける繁雑かつ煩雑なる手続きについては、その描写を省くこととする。 「——今日は特別のご用事でなくて、見学やて言わはりましたなあ。ほんならどうぞ、こちらへ」  五人分の入国申請をし、許可を貰い、手続きをしてくれた女性が、立って廊下へ出た。 「これでも特例扱いで随分省略されてるんどっせ。皆さんはエトピリカで、イオマンテしてくれてはりますよって」  慣れないお役所手続きにうんざりした顔の五人は、疲れ果てた様子で女性に着いて歩く。  彼女の薄く色の着いた長い髪はポニーテール風に結われ、歩を進めるたびに、それが本当の尾のようにぴょこぴょこと弾んで揺れた。空子は、その様子が可愛らしくてたまらず、目で追いながら口元を緩めてしまう。 「——あっ、いややわ。えらい申し遅れました」  ぽんと手を合わせて突然立ち止まった女給姿の女性は、五人に向き直って頭を下げた。 「(うち)が今回皆さんをご案内します、ヰ()と申します。宜しゅうお(たの)申します」 「さっき、何回も名前書きましたけど。空子でっす。どもです」 「へえ、空子さんどすな。お願いしますえ、宜しゅうこちらこそ」  武家屋敷というよりは古い旅籠旅館のような純和造りの邸の案内役に、和服にエプロン掛け姿の女給さんとは甚だミスマッチであったが、不思議と可愛らしく見えた。何より、堅苦しさの塊のような阿吽に比べれば、その親しみやすさは月と(すっぽん)である。若い女性であるというだけでも、少女たちにとっては嬉しい存在であった。  景は琴律に耳打ちする。 「初めッから、この人だったら良かったよなァ……」 「ふふ。そうですね」 「あははは! それにしても、お久しぶりだねー、ヰ子ちゃん!」 「へえ。萵苣(れたす)さんたちも、お元気そうで何よりどすなあ」 「ああ——お二人は既に、この方とお知り合いなのですね」  得心したように琴律が頷いた。 「そう。エトピリカになった頃。ヰ子さんにはいろいろとお世話になった」 「ヰ子ちゃん、とってもやさしいお姉さんだからね!」 「もう、一年以上になりますなあ。あれからお二人、イオマンテは気張ってはりますかあ」 「うん! 私ら、強いからね!」 「そう。私達は負けない」  新顔三人の自己紹介が済んだ後もあれやこれやと雑談をしながら、六人は板張りの廊下を歩く。  やがて廊下の突き当たり、真正面に一つと、左手側に一つ、右手側に二つの(ふすま)が並んだ処にやってきた。  突き当たりの襖の上には『夏』、右手側にはそれぞれ『秋』『冬』と筆で書かれた扁額が掛かっている。  額の無い左手の襖には、どういう訳か、柱や鴨居との隙間に障子紙で目張(めば)りが為されており、その上から色とりどりの千代紙(ちよがみ)が貼られていた。 「——このうち、お好きな季節でお過ごしになっておくれやす」  ヰ子が可愛らしく掌で襖を指す。 「季節で、過ごす?」 「へぇ。根之國ゆうんは、季節ごとにエリアが別れておましてなあ、ご一般の亡くなりはった方は、滞在中、お好きなエリアでお過ごしいただくことになるんどす」 「ひょー、何それ。面白そうっ」 「死んだ後に、なんか行楽(レジャー)気分だなあ」 「結構、時間の猶予があるみたいですね」  初心者(・・・)である空子たちは、銘々に感想を口にし合う。 「お(ひと)というのんは、事故やらで突然亡くなりはる方もおいでになれば、長い闘病や飢餓の末に苦しんで亡くなりはった方もいはります。お()にてすぐの方というのは、どないしはってもお疲れのことが(おお)おましてなあ。閻魔裁きが終わればいよいよ、黄泉國(よもつくに)天津國(あまつくに)かへ()かれるわけなんどす。せめてそれまでの間、味良(あんじょ)うお(くつろ)ぎいただければと思とります」 「——分かりました。とりあえず、順に巡ってみて宜しいですか?」  待ちきれぬと言いたげに、琴律が「夏」の襖に手を掛ける。 「へえ、お好きに。ただ——」 「はい?」 「ご覧のように、こちら一箇所だけ、入られへんようになってますんえ」  ヰ子はちらりと、額の掛かっていない襖に目を遣った。 「ええと……『春』?」 「春の部屋には、入れんのか?」 「へ、へえ……」  歯切れ悪く、ヰ子は曖昧な微笑みを浮かべる。 「へー! 私らが来た時には、入れたよね! 暖かくて、綺麗なとこだよ!」 「そう。私も憶えている」  蓬莱姉妹も、額の掛かっていない欄間を見上げた。 「まあ、工事中いいますか、片付け中いうことで……」  ヰ子はなんとなく言葉を濁しているような印象である。 「——まあ別に、構いませんよ。私たち、とりわけ『春』のお部屋に入りたくてやって来たわけではありませんしね」  琴律はそのまま、『夏』の襖を開こうとした。その時。  『春』の額が下ろされた部屋の襖が、内側から叩かれたように、ばぁんと音を立てて振動した。 「——!」  五人は驚いて跳び上がる。 「なに!?」  空子は慌てて、琴律の腰にしがみつく。  ヰ子が、あちゃー、と言いたげな顔をした。  再度、内側から乱暴に襖が叩かれた。 「中に、誰か居んのか!? おいッ」  景がヰ子に詰め寄る。 「え、ああ、いやあ……」  ヰ子はエプロンのポケットから携帯電話を取り出し、慌てて何処かへかけようとする。  三度(みたび)、ばぁんと襖が叩かれる。  琴律が、叩かれた襖につかつかと歩み寄り、引手(ひきて)に指をかけた。 「あっ! 開けてはあきまへんえっ!」  ヰ子が琴律に向き直って、大声を出す。  その声を無視し、琴律は襖を勢いよく引く。目貼りが一瞬でびいっ(・・・)と破れ、千切(ちぎ)れた千代紙が舞った。  暖かな風が吹き、琴律の前髪をふわりと持ち上げた。  女六人が立つ廊下に千代紙の破片が踊る。
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