2 事の顛末

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「考えてみれば、青人の家に入るのは初めてだ」  私が言い、青人が「そうだな。言われてみれば俺たち、ほとんど高校でしか会わなかったな」と返した。  滅多に車の通らない街路は広々としていて、快適だった。私たち三人は横に並んで歩きながら、代わるがわる思い出話を口にした。中でも高校時代、柳が化学実験室の塩化銅水溶液を、黙って市販のブルーハワイにすり替えておいたのがバレて停学になりかけた話は、三人の爆笑を誘った。 「逆に、誰かのブルーハワイを塩化銅水溶液にしてたら、間違いなく退学だったな」と私が言うと、青人は「退学っていうか、逮捕だろ」と、可笑しそうに付け加えた。  私と青人がまともに話すのは、高校卒業以来であった。よって、その日会うまでは、当時と同じように気兼ねなく言葉を交わせるか、若干不安に思っていた。しかし、まだ彼が少年時代の無邪気さを捨てずにいるのを見て、私は密かに安堵(あんど)していた。  やがて、道の両脇に並ぶ家々の一つに、青人が何の前触れもなく歩み寄った。白く一様に塗装された門塀(もんぺい)に、「国元」と書かれたステンレス製の表札が掲げられている。入る前に私は、首を上に振り向け、その家の外観を眺めた。  横幅は広くないが三階建てで、縦に長い印象の一戸建てであった。屋根は一般的な三角形で、二階、三階のベランダはそれぞれ、一人分の通路を確保出来る程度に、車道に向かってせり出している。  旧友の家を拝むことで自然と、高校時代を懐かしむ想いがこみ上げてきた。しかし、その記憶はもはや、目の前の光景と対比できないほど風化していた。  塀と塀の間には、切り取られたように入り口が設けられていて、そこから光沢のある石段が二段、玄関扉に向かって伸びている。青人を先頭に私たちは、そこを丁寧な足どりで上っていった。  青人はポケットから鍵を取り出し、慣れた手つきでそれを鍵穴に差し込んだ。重厚な木製のドアには、表面の滑らかなアルミ製らしい取っ手が取り付けられている。青人がそれを引くと、まだ照明の付いていない薄暗い玄関の様子、そして「匂い」とがそれぞれ、目と鼻に飛び込んできた。  他人の家には独特の匂いがある。生活者の体臭、食物、芳香剤などによって長年生成された匂いは、その家を他と区別する一種の識別子(しきべつし)であると言える。  青人の家にも例にもれず「匂い」があった。ただし、ほのかに生活感を想起させる一般的な匂いの中に、化学的な臭気が見えない霧となって混じっていた。  もっとも、それは青人の家の特徴として不自然なものではなかった。幼少期から薬理学に触れてきた彼が、家に大量の化学薬品を保持していることは、来る前から想像できていた。また、その化学的臭気は、高校時代三人が部活で何度となく嗅いできたものであり、今さらそれを口に出して指摘しようとも思わなかった。 「お邪魔します」  私と柳はそう言って、たたきの上で靴を脱いだ。青人が壁のスイッチを押すと、内部が柔らかい光で照らされた。目の前には、奥に向かって伸びる(ちり)一つない廊下。その右手には二階へと続く階段、さらにその手前には、脱衣所へ通じる扉が見える。清掃は隅々まで行き届いていて、その清潔さを前に、我々の態度は必然的に控えめなものになった。  靴を揃えようとして振り向いたとき、私は玄関扉の鍵をかけていないことに気付いた。そこで、もう一度靴を履き、取っ手下部のサムターンを回そうとした。すると、すでに廊下に上がっていた青人の「鍵は閉めなくていい」という声が聞こえた。  私は反射的に手を止め、「やっぱり、莉緒さんは来る?」と訊いた。それに対し青人はやや暗い表情を見せたあと、一瞬間を置いて、「あとで言うよ」と言った。  私は青人のその思わせぶりな言葉を理解できず、「えっ」と訊き返した。青人はそのとき、廊下左手のドアの取っ手に手をかけ、リビングに入ろうとしていた。 「莉緒がどんな人間かを」  青人はそれだけ言うと、我々の返事も待たず、さっさと扉の向こうへと行ってしまった。取り残された私と柳は互いの顔も見ず、ただぽかんとそこに立ったままでいた。  それから私は、鍵は閉めないままもう一度廊下に上がり、いそいそとリビングへ入った。それを見ていた柳も、糸で手繰(たぐ)り寄せられるように私のあとに続いた。
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