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文化の東西に拘らず、祭りというのは特別な意味を持つ。
豊饒であったり、自分よりも上位の者への感謝であったり、
或いは荒ぶる自然現象を抑えるため、男女の仲を取り持つきっかけのため。
その実、貧困に喘ぐような土地では、体のいい口減らしの言い訳として、
人心を納得させ、自分達を納得させる為に開催されていることだってあっただろう。
きっと最初の理由は崇高なものであったり、のっぴきならない事情があったのだと思う。
その時代の人々が、人類が存続する為に生まれたもので、それが慣習というか習慣となり、形式化して、儀式的になって、形骸化して現在に続いているということなのだ。
きっとそれが、その時代、そこの人々が生き延びる為に必要なものだったのだ。
だがまぁ、正直、私にはどうでもいい。
私の関知しない知らない場所で、知らない人間達に起きたことなど、どうあっても他人の事だ。興味はない。
それこそ歴史がだとか、文化だとか言い始め、そんな押さえつけてくるものに理由を与えた出したら、折角の男比べが台無しだ。
そして、そんな社会を回す為に必要なありとあらゆる児戯に映るほど、私が参加する祭りの熱量は尋常じゃない。
あの怒号が飛び交い、肉と肉がぶつかる感じ。
いや、感じではなく、実際に拳が飛び、蹴りが跳ぶ。
沸いたヤカンの蓋がガタガタというように、今にも飛び出さんとし、その熱量やエネルギーが外に飛び出した時には周囲を巻き込み、爆発する。
ああ、あれはなんとも形容し難い。
だが、それがいい。
どうしょうもなくいいのだ。
あれを一度味わってしまうと、他のものでは決して満足出来ないし、
あれほど魂の器を満たしてくれるものなど、この世に無い。
自分を感じることが出来きにくい現在社会において、あの祭りに参加すると生きている実感がどうしょうもなく湧いてくる。
そして祭りが終わった後の肉がまた格別美味い。
あの美味さは尋常じゃない。
あれを味わうために私は生きていると言っても、決して過言ではない。
カーニバルとは良く言ったものだ。
勿論、元の意味はちゃんと知っている。
しかし、そういう事ではないのだ。
命を懸け、命を削り、命を使った後。
その後に喰らう肉は正に命そのものなのだ。。
あの、命そのものを喰らっているような感覚は味わったものでなければ分からない。あの瞬間を味わった後の肉の味は特別なのだ。
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