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結局本多は都内の私立大学の文学部に入学した。母親は本多の意見を尊重し、父親も母との対立を避けるために本多に介入しなかったので、本多は受験期でも十一時頃には床につくことができた。入学前の春休み、本多はひどく暇をしていた。近所の図書館で借りてきた二、三の小説を読み終えた途端、退屈感が彼を襲った。夕陽は空を赤く染め上げ、カラスが群れをなしてうるさく鳴いている。ふと本多は父親の書斎から本を借りようと思い立った。
階段を駆け上がり書斎のドアを開けると、すぐ横に大きな本棚がある。日本を憂えた自称愛国者の本を数多見つけ、父親の本の趣味に呆れ、恥ずかしくなった。それでもめげずに一つ一つ確認していく。その中でも一際厚い本に目を引かれる。「実践理性批判」。哲学者イマヌエルカントが書いた18世紀の古本である。本多は手を伸ばし、パラパラとめくった。難解なことが書かれてあるということしか分からないが、その断定的な文体にシンパシーを感じ、これを読もうと決め、書斎を出た。その本を傍に抱えながら、浮ついた気持ちで階段を下る。
部屋に戻ると、すぐに本を開き、読み進めていく。難解な言葉遣いへの嫌悪感は、次第に尊敬へと変わり、明晰な論理に夢中になった。「汝の意志の格律がつねに普遍的立法の原理として妥当しえるように行為せよ」本多はこの意味の分からない文を読んで感動した。昔から冷笑的で批判的な人間であったから、自分は道徳とは全く縁がないのだろうと思い込んでいたが、カントが言うには冷笑的で同情を全く感じない人間が、「人助けをしよう」という意志のみに従って行動するのが最も道徳的であるらしいのだ。本多は今までに感じたことのない喜びを得た。本多はさっそく、台所に散乱してある皿を嬉々として洗った。本多は今までにない何かが芽を出したような気がした。
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