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時薬は効かず
その日、美波は家族に内緒でフェリーに乗り、都内の優子のマンションを尋ねた。どうしても本人に直接、聞かないと納得がいかない。照之から聞いた話の通りなら、許せる行為ではないし、何故そのような暴挙に出たのか、真相を知りたかった。
「はーい」
マンションの下のセキュリティー越しのインターフォンから優子の声が聞こえた。
「あの美波です」
「ああ、美波ちゃん」
声のトーンが急に落ちる。オートロックが解けた音がしたので、美波は重厚な扉を押し開けた。
「ホテルのロビーみたい」
美波の言う通り、そこはまるで別世界だった。広いエントランスには、コンセルジュカウンターがあり、ホテルマン風の男女ふたりが常駐していた。ロビーラウンジは一面ガラス張りになっており、庭園の一角には人工の滝があった。数人が、滝を見ながらランチをしている。良く見ると、お洒落なBARカウンターもあり、そこでウィスキーの様なものを飲んでいる紳士がいた。
「エレベーターどこだろう?」
優子と割と親しかった中学時代の友人に、彼女の住所や部屋番号を聞いている。しかしここに辿り着くまで半日も要して仕舞った。都心は、美波にとって全く未知の世界だった。
「最上階?ペントハウスっていうの?」
エレベーターの前に立っている。豪華だが、悪趣味な金箔のエレベーターが4台もあり、階ごとに分かれていた。
「1150号室は、このエレベーターね」
漸くエレベーターに乗ったと思ったら、数秒で目的の階に到着した。すると急に心臓の鼓動が早まった。行き場のない怒りに任せ、ここまで突き進んで来たけれど、これ以上の勇気が出ない。凌馬との愛の巣を見ることも、耐えられないと思いはじめた。
「ばかね、わたし」
寧音のことは、遠いむかしじゃないの。真相を突き止めたところで、寧音を取り戻すことは出来ないのだから。
「帰ろう」
そう思って、エレベーターのドアを閉めようとした時、強い力でこじ開けられた。
「ああ。優子ちゃん」
そこには優子が立っていた。両手でドアを抑え、仁王立ちになっている。目は血走り、不適な笑みを浮かべていた。
「どうしたのよ、なんで帰るの。あなたが来るって聞いて、ランチも用意したのよ。なにしてんの、ビビってんの。ああ、そうか、凌馬と、わたしの新婚生活を見るのが嫌なんだ」
美波は優子が恐ろしかった。子供の時から知っているが、これまで優子を恐ろしいと思ったことは一度もない。なぜ優子はこんなに変わってしまったのだろうか。それともこれが優子の真実なのか。
「折角、ランチまで用意して貰ったんだけど」
エレベーターがビービー音を鳴らしていた。美波は慌てて「開く」のボタンを押した。
「やっとボタンを押したわね。ああ、腕が痛くなったじゃない。あんたって子供の時から気が利かない」
「ごめんなさい」
「いいから、さあ、早く来なさいよ」
「でも、お父さんとお母さんにいって来なかったから」
家族はみんな、店の休みを利用して山梨に1泊旅行に出かけている。
「あんた幾つなのよ!」
優子は声を荒らげた。美波は耳を抑え、恐々と優子を見た。
「本当に、あんたって甘えっこで、憎たらしい。そんな弱々しい振りして人の夫を横取りしようとするんだから」
「横取りなんて、そんなことしてないよ」
美波は大きく首を振った。
「まあいいわ。早く来なさいよ。あんたには、あのデートの説明をする責任があるのよ!」
再び声を荒らげる優子は、ここはワンフロアーだから大丈夫といい、美波の手首を掴んで部屋に連れて行った。
部屋の中は目がくらくらするほど、金ぴかだった。これは優子の趣味なのか、はたまた凌馬の趣味か。美波は頭痛がしてきた。眉間を押さえたいが、失礼なので我慢している。
「どう、わたしと凌馬の家」
エプロン姿の優子は手を腰に置き、胸を張っていた。
「すてきです」
「嘘ばっかり」
優子は美波の隣の椅子を引き、向き合う様にして、足を組んで座った。
「田舎の島育ちのあなたには、この美がわかる筈ないでしょう」
「たしかに」
「ほーら、嘘だった」
「嘘というか、方便……」
優子を見ると、彼女は歯ぎしりをしていた。一刻も早く、ここを去りたいとそう美波は思っていた。
「いうじゃやない」
「いや」
美波は首を傾げた。
「まずはご飯にしましょう」
そういって優子は手を叩いた。すると家政婦の様な女が数人、皿を持って現れた。見た事もない豪華な料理が次々と運ばれてくる。美波は目が回りそうになっていた。
「さあ、お食べ。毒は入ってないから安心して。わたしには理性があるの。本当は殺したい程嫌いだけど、逮捕されたくないでしょう」
そんな事をいわれモクモク食べる人間はいない。美波の食欲は完全に無くなり、膝に手を置いて、溜息をついた。
「刺身、それ、カルパッチョっていうんだけど、真ん中にある黒い粒、キャビアを巻いて、皿の縁の特製マスタードをつけて食べるのよ」
優子はそういいながら食べ始めた。
「あんたなんてキャビアを刺身に巻いたことないでしょう」
「海ぶどうならあります」
「ふん、海ぶどうって島繋がりかよ馬鹿!早く食べなよ、作った人に失礼だろうが」
「はい」
ナイフとフォークで刺身を食べた事がない。どのお皿から手をつけるべきか、何をどうしたら良いのか、混乱して来た。
どうにかこうにか食事も終わり、デザートが運ばれてきた。
「これは?」
小さな植木鉢に葉がちょこんと乗っている。
「ふふふふ」
不適な笑いを浮かべながら、優子はスコップの形をしたスプーンで植木鉢の土に見立てたティラミスを食べ始めた。
「ケーキ?」
「そうよ、馬鹿!」
馬鹿と呼ばれる度に、なんだか肩が凝る。美波はゆっくり首を回した。
「びっくりしたわよ、美香から電話があって、美波に連絡先と住所を教えちゃったけど、大丈夫って心配してたし」
「美香ちゃんに教えて貰ったの」
「それで、何の用?手土産も持たずに、人の家でただ飯食べて、遠慮も知らないの」
「……寧音のことで」
「寧音?ねねって誰よ」
「馬の寧音ちゃん」
美波は唇を噛み締めた。
「ああ、脚を折って死んだあの雌馬」
「牝馬です。身体が小さくて、静かな、本当におとなしい」
「あんたみたいね」
そうだ。確かに、寧音は自分に似ていた。
「あの馬は役に立たないわ。要らないのようちのクラブには」
「だから殺したの?」
そういうと、優子の雰囲気が変わった。ナプキンで口を拭き、腕を組んで美波を睨んだ。
「なんですって」
「寧音ちゃんを、無理やり走らせて、障害を飛ばさせようとして無理をさせて脚を折らせた」
「折らせた?可笑しな事いわないでよ、そんな証拠あるの」
「証拠、クラブのスタッフの林さんがその現場を見ていたわ」
「林がそういったの」
やはり林さんだったんだと美波の推理は的中した。照之は黙っていたが、林にはギャンブルで借金があるとの噂が当時から流れていた。
「林さんを買収したでしょう」
「そうよ、お金を払ったのに裏切ったのねあの男、首にしてやる」
「どうして、寧音を」
「さっきいったでしょう。役に立たないのよあんな馬。それに、あんたのペットみたいで、見るたびにムカつくし、だから殺した」
美波は立ち上がり、優子の頬を思いっきりぶった。
「何すんの、あんた!」
優子に掴みかかられ、一度は倒れたが、美波も負けてなかった。するとリビングのドアが開き、凌馬が入って来た。
「やめろ、優子」
そういって凌馬は馬乗りになる優子を美波から引き離し、突き飛ばした。優子はダイニングテーブルの脚に頭を打ち、泣き出した。
「話しは聞いたよ。君が、寧音を殺したんだね。それなのに、美波ちゃんに濡れ衣を着せようとした」
「違うわ、違う」
優子はピンクのワンピース姿。両足を緩く曲げた状態で、頭を両手で押さえていた。
「何が違うんだよ。知ってるんだよ、僕に人工呼吸してくれたのも君ではなく、美波ちゃんなんだって」
「美波がそういったの?嘘よ、美波は嘘をついているのよ」
美波は横座りで、胸を抑え、呼吸を整えていた。その脇には凌馬が、美波の肩にそっと触れている。
「もうやめよう。もう終わりにしよう」
「何をいってるの?終わりってなに?凌馬くん、美波が好きなの?だから結婚前に美波と浮気したの?家にまで泊まって」
「浮気?なんのことをいってるの」
「見てたのよ、探偵がずっと」
優子は頬を引きつらせていた。
「探偵?探偵をつけてたの」
「それで探偵に盗聴させ、美波ちゃんがクラブの鍵を持っていることを知ったんだね」
「そうよ、そうよ。心配だったんだもの。島にひとりで行くって言うから、心配で。それで探偵をつけたら、あなたたち手を繋いで、家にまで泊まって」
それを聞いて凌馬は立ち上がった。そして結婚指輪を外し、テーブルに置いた。
「間違いだった」
「何か?」
「君とのこと全てが」
「そんなこと、そんなこと許さない。やっと掴んだのに、やっと家族が出来たのに。あの女が全てを奪っていく、最初から全部、持ってる癖に、何も持ってない振りして、わたしから奪っていくのよ、あの女が!」
優子は真っすぐ、美波を指さした。そしてキッチンに走り、出刃包丁を掴んで両手で腰の辺りに据えた。
「殺してやる。渡さないからね」
優子は走り出し、美波ではなく、凌馬の腹に包丁を刺した。
島への帰りのフェリーの中で、美波は小説を読んでいた。海は夜の闇に包まれ、洋服についた凌馬の血も、人の目に止まらない。
大好きな小説は暗闇の中でも読めた。子供の頃から何百回も呼んでいる小説だ。貧しくも逞しく生きる女性が、ある日突然、恋に落ちる。良くあるような物語が、美波の心を掴んで離さなかった。この女性の初恋は成就しないが、それでも、とってもしあわせだったに違いない。美波にはそう思えた。
フェリーを降りてからは、歩いて実家の方面に向かった。ふらふらとした足取りだったので、実家が見える場所に辿り着いた頃には朝日が昇りはじめていた。
「みんな、温泉に入ってるのかな?」
出掛ける前、家族は朝日が昇る直前に露天風呂に入るのだと意気込んでいたのを思い出した。今回の旅行には、美波が参加しなかった事を尊はとても気にしていたが、たまにはひとりでのんびりしたいという娘の気持ちを尊重した。
美波の好きな浜辺に来た。美波は海の公園のテーブルに小説を置くと、たすき掛けにしていたバッグを取り、ベンチに置き、自分はそのまま海に向かって歩き出した。
「しあわせになる。凌馬さんと一緒に」
海水が腰の辺りまで来ると、美波は太陽に向かい両手を広げた。そして身体はすっぽりと海の中へ消えた。そのまま美波が岸に戻ることはなかった。
家族は美波を探し続けた。美波を取り巻く状況と現場検証の結果、入水自殺の可能性が高いというのが警察の見解だったが、両親は諦めなかった。
ひと月が過ぎた頃、凌馬が坂口家に姿を見せた。居間に通された凌馬は、美波が失踪したと聞いて、酷く落胆した。
優子に腹を刺され、意識を失った後、救急車で運ばれていく凌馬を見届けてから美波はマンションを去ったという。自分が死んだと思って美波が後を追ったのか、しかし合点がいかない。助かる可能性も十分残っていた筈なのに。
その後、警察から優子のスマホが戻って来た。
「スマホ、か」
自分が倒れた場所に座って、窓外の夕焼けを見ていた凌馬はスマホを開いた。するとそこには驚愕の内容が記されていた。あの日、優子は美波にメールを送っていた。時間的にみて凌馬が病院で手術を受けている最中のことだろう。
「凌馬が息を引き取った」
短い、たった一行だけのメールだった。
弁護士を通じ、離婚届を留置所の優子に渡した。優子はごねているので、手間取りそうだが、凌馬の気持ちはかわらなかった。
優子の生い立ちを不憫と思い、同情していたし、愛おしいと思ったのは事実だった。しかし愛情とはまた違う、別の感情だということも認識していた。そして凌馬は両家の親の圧に屈し、優子と結婚したのだ。
凌馬は実家を出て、島に戻った。美波が好んで座っていた場所が見渡せる場所に家を建て、在宅で仕事を続けた。優子のスマホの内容は、美波の両親に正直に話した。両親は、凌馬に責任はないといってくれた。
きょうもまた、朝日の中で、美波の両親から貰った、美波の大切な、あの小説を読んでいる。ふと視線を海の公園に落とすと、美波がふわふわの髪の毛を揺らしてベンチに座っているのが見えた。
「あっ、美波ちゃん」
凌馬は立ち上がり、手すりに手を掛け、目を凝らすが、そこには誰もいない。
「美波……ごめんね」
泣き崩れる凌馬。この出来事は日常となり、90歳で彼が亡くなるまで続いた。そして、彼の死後すぐ、美波の実家で、娘の葬儀が執り行われた。
喪主の美月が胸に抱いている遺影には、天寿を全うした、美波の姿があった。
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