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意識が高すぎる女
フェリー乗り場へは家族全員で来た。
お店には臨時休業の貼紙をしてある。凌馬を送ってあげたいからと、尊は思い切って店を休んだ。別に借金を抱えている訳ではない。尊や美浜にも休養が必要だったのだ。
フェリー乗り場に着くと、凌馬がレンタカーを返しに行った。凌馬の車に同乗した美浜と美月も凌馬と一緒に行き、その足で土産屋に立ち寄っていた。その様子を見た尊が三人に走り寄り、馴染みの魚屋を紹介した。
「安くしてよ、この子は、この島の子になるんだからね」
「また勝手なこといって。ごめんね凌馬くん、お父さん嬉しいのよ」
美浜は、尊の背中を思い切り叩いてそういった。
土産も買い終わり、全てを郵送する手続きを終えると、坂口家と凌馬は、フェリー乗り場の乗船口へ向かっていた。
「凌馬くん、いつでも帰ってくるんだよ」
美浜がそういうと、すかさず尊が、
「なに言ってるのお母さん、凌馬くんが次に来るのは3月。何度もいったでしょう。もうボケてんのかしら」
「聞こえてるわよ」
ふたりがそんな遣り取りをしていると、凌馬が最後尾で立つ美波に寄って来た。
「美波ちゃん、ありがとうね。お世話になりました」
「いいえ、そんな、わたしこそ倒れたところを助けて貰って」
「たくさんお世話になったから。こんなこといったら不謹慎だけど、美波ちゃんが倒れたお蔭で、坂口家のみなさんと出会うことができたと思う」
そういわれ、美波は笑顔でうなずいた。
「こうやって僕の目をちゃんと見てくれるようになって、良かった」
「ごめんなさい。わたし、究極に人見知りで」
「わかってるよ。次に会うのは三か月後になるけど、またシャイな美波ちゃんに戻っちゃうかな?」
美波が首を横に振った時、「凌馬さーん」と叫ぶ声が響いた。
そこにいた全員が振り返る。そこには高級外車を路上に止め、手を降る優子がいた。
「優子ちゃんどうして?」
駆け寄る優子に凌馬も歩み寄る。
「もうなんでいってくれなかったの。島に来てただなんて知らなかった」
優子は甘えた声を出していた。坂口家全員が棒立ちになってその様子を見ている。まるでゴンドウクジラの寝姿のように。
「急なことだったし、いろいろあって。ごめん」
「いつ来たの?」
優子は凌馬の左右の腕を抱える様に触れている。
「元日に」
「それでどこに泊まってるの?」
優子は、坂口家の方をちらりと見た。
「うん、坂口さんの家に泊まらせて貰ったんだ」
そういって凌馬は身体を完全にそちらに向けて会釈した。
「やっぱりそうか。凌馬くんが美波ちゃんの家で働いてたっていうのよ。もうびっくりしちゃって、それで急いでお店に行ったら留守で、焦ったわ」
「どうしてここが?」
「たまたま通りかかった知り合いのおじさんに聞いたら、みんなでフェリー乗り場に行ったっていうから」
「そっか」
「間に合って良かった」
優子は胸を抑えて息を吐きだした。そして凌馬の腕にふれながら、
「ねえ、どうして坂口さん家に?それに、どこに寝たの?」
「いろいろあって、個人的な部分も含まれるから詳しい内容は控えるけど、とにかくお店が忙しくて、手伝わせて貰ったんだ。いい経験になったよ」
「ふーん、そう。なら次はうちに泊まってね、約束よ」
「次は3月だから、その時はアパートを借りてるよ」
もう時間だから行くね、と凌馬は歩き出した。凌馬の後を小走りで追いかける様に優子が続く。凌馬は尊や美浜、祖母の美紀子に丁寧に挨拶をした。
「美海さん、今度は負けませんよ」
凌馬はゲームの話しをしている。昨夜、夜更けまでふたりはゲームをしていたのだ。
「きっとむりよ。わたしには勝てないわ」
美海はそういって自分の顔の横に手を持っいき、バイバイと手を振った。
「美月ちゃん、またね」
「バイバイ」
美月は背伸びをして、凌馬と背比べをして見せた。凌馬はそんな美月の頭を撫でてやった。
「美波ちゃん」
凌馬が美波に向いた時、優子が凌馬の腕を引っ張り、乗船口に向かって歩いた。凌馬が美波を振り返ったが、美波はうつむいてしまっていた。
「さあ、帰ろうか」
尊は美波の肩を抱き歩き出した。車に乗ろうとする直前、見送りを終えた優子が走って来た。
「美波ちゃん」
美波は足を止めたが、優子を振り向かなかった。優子は美波の前に周り、呼吸を整えている。
「話したいことがあるの」
優子は尊に向かって、いいですか?と聞き、尊がうなずいたので、美波と一緒に波止場に向いて歩き出した。
「優子ちゃん、話しって?」
美波は優子を見ないでいった。
「凌馬くん、泊まってたんでしょう?」
優子の声は明るかった。
「あ、うん」
「愉しかった?」
「えっ」
美波は立ち止まり、優子を見た。優子の目は笑ってなかった。
「もう知ってると思うけど、凌馬くんとわたし、付き合ってるの。向こうの両親とも会ったのよ。将来は結婚するつもり」
「そう。おめでとう」
いいながら、美波は首を傾げた。
「ありがとう。だからわかってわよね」
「ん?」
「会うなとはいわないけど節度を持った付き合い方をして欲しいの」
「節度…」
「そうよ節度。わかってるわよね、美波はかしこいんだから」
背の高い優子は、美波の頭を撫でた。
「じゃあ、帰ろうか」
優子が先に立って歩き出すと、美波は優子の腕を掴んだ。
「優子ちゃん、聞きたい事があるんだけど」
「何?」
「乗馬クラブでのこと」
暫くふたりは黙って見つめ合っていた。優子の強い視線に耐えられなくなる美波。しかし彼女は目を逸らさなかった。
「乗馬クラブで、なに?」
「凌馬さんが落馬した時のことなんだけど、人工呼吸したって」
「そうよ」
「でもあの時、優子ちゃん、二階から下りて来て」
「シッ!」
優子は美波の唇に人差し指をあてた。
「誰も得をしないわ。凌馬くんだって悲しむ」
優子は腕を組んで、美波に背を向けた。
「あの時、人工呼吸したのは自分だって、美波ちゃんが凌馬くんにいったところで、何が変わるっていうの。もう動き出してるのよわたしたち。ううんそれだけじゃない。両家の家族も巻き込んでいるの」
「……」
「美波ちゃんは途中下車しちゃったんだよ」
「途中下車?」
「そう、もう降りちゃったんだから、わたしたちの間に割り込まないでね」
優子は振り返った。風が吹き、彼女の髪を撫でてゆく。その姿はとてもまぶしかった。完敗だと、美波は悟った。
桜の季節が終わり、春風の心地よい季節になっていた。
4月初旬、社会人になった美波、初出勤の日。
「まさか美波ちゃんが乗馬クラブで働くなんて」
就職先に不安を持つ祖母の美紀子は、昨日からずっとこの言葉を繰り返している。
「母さん、これが美波の夢の第一歩なんだよ。応援してあげようよ」
尊は、美波の慎重な性格を良く理解している。馬との生活の中でも、美波はきっと安全だろうと信じていた。
「お父さんは美波が実家にいてくれるのが嬉しいの。それに美海が再就職先が決まったからって、突然、渋谷に戻っちゃったし。本当にあの子は気まぐれ」
美浜はお弁当を美波に手渡した。昨年秋から実家に帰って来ていた長女が、数日前、再就職先が決まったと、渋谷のマンションに戻ってしまっていた。いると何かとうるさい長女だが、それゆえに存在感も大きく、いなくなると寂しさが募る。
「では、行って来るね。お客さん待たせてるんでしょう、早く戻らないと」
営業時間中に表まで出て来て娘を見送る家族に中に入るよう促した美波は、自転車に跨ると、いつもの立て漕ぎで走り出した。
「清々しい朝だなあ」
見慣れた景色は、木々の色づきのせいか、きょうは一段と華やかだった。潮風も暖かい。この季節がすぎると、風は熱風に変わる。
「島の夏は厳しいからねー」
ひとり言をいいながら、美波は笑顔で出勤した。3月になっても、凌馬から連絡が来ることはなかった。律儀な人なのに、もしかしたら優子に止められているのか。色々な思いがあったが、凌馬は同じ乗馬クラブで働く予定になっている。1年間の期間限定だが、同じ空間で働けるだけでも、美波の気持ちを満たした。相手に恋人がいても、そんなのもうどうでも良かった。自分に振り向くなど、それは別次元の話しだった。凌馬のことが好き。事実はそれだけだ。
「おはようございまーす」
大声で挨拶をして事務所のドアを開けた。
「ん?」
なんだか雰囲気がおかしい。職員みんな、顔を伏せ、美波から視線を外している様に見える。
「おはようございます」
今度は控え目にいった。大声を出したのがいけなかったのではないかと思ったのだ。遊びの時とは違うのだと、自分を律し、所長の席へ行った。所長は椅子から立ち上がると、両手を机に着いて、長いため息を吐いた。
「あの、坂口美波です。きょうからお世話に……」
「その事なんだけど美波ちゃん」
所長は顔を上げ、困った様に首を振った。
「どうかされたのですか?」
「実はね」
「所長さん」
背後から女の声がした。
振り返ると優子だった。
「みなさん、各自仕事の持ち場に行くのよー」
優子がいうと、職員全員、事務所を出て行った。
「優子ちゃん?」
「美波ちゃん、おはよう」
「おはようございます」
彼女は真赤なドレスを上手に着こなしていた。
「大学に行ったんじゃいの?」
「行くわよ。でもきょうは、ここに用事があったものだから」
優子は所長の席の前まで行き、そして美波に振り返った。ドレスの裾が舞い、花弁の様だった。
「うちのパパの会社がね、ここを買い取ったの。知ってた?」
「そうなんですか?」
美波は所長を見た。彼はうなだれたようにして、美波に謝った。
「実はここ、もう何年も赤字でね。引退した競走馬を保護する目的で設立したものだから、寄付金だけでは経営が出来てなかった。悪いね美波ちゃん」
「どうかわたしに謝らないで下さい」
「いや、美波ちゃんにはちゃんと謝らないといけない」
所長は立ち上がった。やせ細った身体が、きょうは小さく縮んで見えた。
「人員の削減を迫られてね。自分が辞めることで、現在の社員と美波ちゃんのことは解雇しないように頼んだのだが」
「だめだった」
優子は他人事のようにいうと、所長のデスクに腰掛け、足を組んだ。
「優子ちゃん」
美波は優子を睨みつけた。
「なに?」
「なんで机に座るの。お行儀悪いし、失礼だよ」
美波は淡々といった。
「失礼?わたしにいってるの?」
「美波ちゃん、いいんだよおじさんのことは」
所長は手を前で揃えた恰好で美波の横に並び、優子に首を垂れた。
「優子さんのお父さんの小野グループが買い取って下さったお蔭で、馬たちもスタッフも助かった。ただ、ごめんな」
両手を膝にあてて、所長は腰を折り、頭を下げた。
「頭を上げて下さい、おじさん」
その様子を横目で見ていた優子は、電子タバコを吸いだした。
「優子ちゃん煙草?」
「だって暇なんだもん。あなたも吸う?」
「吸わないよ、わたしたち未成年だよ」
「そうだね、わたしたちは未成年なんだよね。わたしは学生で、美波は社会人の成り損ないでも、未成年ということでは同じ」
優子は飛び降りる様に立ち上がると、美波の顔の前に自分の顔を寄せた。
「ここで働きたい?」
「……!」
「馬と一緒にすごせるよ」
「……」
「そっか、働きたくないんだ。わたしもあんたは雇わないけどね」
「支離滅裂」
美波は優子の胸を軽く押して、所長を見た。
「所長さんは悪くないです。だれも悪くないです。こういうこともあります。絶対に気にしないで下さい」
「美波ちゃん、ありがとう」
「ただひとつだけお願いがあります」
「ん、なんだい?」
「たまにでいいので、寧音ちゃんに会わせて貰えませんか?」
「ダメよ!」
所長が答える前に優子がいった。
「美波ちゃん、ぜんぜんわかってないみたいね。ここはわたしの会社なの。わたしの許可なく馬に会わせる訳にはいかないの」
「そっ、ですね」
「わかったら帰って」
「はい、お騒がせしました」
美波は所長に頭を下げると、出口に向かって歩き始めた。
「あっちょっと待って」
優子が美波を呼び止めた。
「なんでしょう?」
「美波ちゃん、このクラブへの出入り禁止ね」
帰り道、美波は転んでしまい、膝にハンカチを巻き、自転車を引いて歩いた。
「散々だったわ」
泣くのは悔しいが、意に反して涙がぽろぽろ零れる。優子の態度も、内定取り消しも情けないけど、いちばん悲しいのは、寧音に会えないことだ。乗馬クラブも出入り禁止になってしまった。理由はだいたいわかる。凌馬と会わせたくないからだろう。
「優子ちゃんて、あんな人だった?」
海岸沿いにある自宅の店が見えて来た。美波はこの道が好きだ。滑らかな坂道の向うに広がる海を、遮るものは何もない。時折、車が通るが、気になる量でもない。左に見える店舗兼自宅は、広い敷地の中にポツンとある。
昔、ヤギを飼っていたことがある。雑草を良く食べてくれて助かったが、飼い主の不注意で、車にはねられ死なせてしまってからは、動物は飼っていない。
「帰り難いなあ」
美波はハンドルに手をかけたまま、そこにしゃがみ込み穏やかな波のせせらぎを暫く見つめていた。
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