結婚前の恋

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結婚前の恋

あの祭りの夜から2年の月日が経過した。 凌馬と優子はこの6月に結婚し、東京で暮らしている。美波はこれまでの様に実家の食堂で働き、この頃では経理も担当し、事実上の後継者となった。 長男である孫を失ってから、体調を崩しがちだった祖母も健康を取り戻し、最近では、近所に出来たフラ教室に通いだし、夏祭りで披露するのだと、日々練習に励んでいた。父親の尊も相変わらずで、毎晩、店にやってくる幼馴染の滝田と百地と一緒に酒を飲み、ふざけ合っている。美浜は相変わらず明るく、人を笑顔にしていた。長女の美海は独身のままバリバリ働き、高校に進学した美月は美海のマンションに下宿し、都会での高校生活を満喫していた。 誰もが、このまま恙なく、この生活が続き、何れ、三姉妹は結婚し、子供を儲ける。派手ではないが、平凡だからこそ、幸せな生活を掴むだろう。そう信じていた。 「そっか、仕事がし易くなったのなら良かったわ」 照之とふたり、美波は、この島でいちばん好きな場所。「海の公園」に来ていた。ここは実家の前に広がる海岸線に面しており、芝が敷き詰められ、バーベキューが出来るテーブルが何個か置いてある。そのひとつに座り、テーブルを背にし、海を眺めながら話していた。 「いやーっ全くだよ。優子ちゃんが会社の役員になってからというもの、人使いの荒いのなんの」 「でも結婚して東京に行きっ放しになったのでしょう、優子ちゃん」 「そうそう、あまりいないのが幸いなんだけどさ、あれだけ子供の頃から知ってるのに、クラブが親の会社になった途端、コロッと態度を変えるからね、驚いたよ。とはいっても、もう慣れたかな。いまの現状が現実」 「あの祭りの時、言い争いみたいになっちゃったから、テルさん首になるんじゃないかと心配したのよ。鍵のこともあったし」 「ありがとう美波ちゃん。でもね、凌馬くんが優子さんを説得してくれたみたいなんだ。全て、まとまった」 「そうか」 美波は笑みを浮かべたままでうつむいた。そして右手の掌を見つめ、そこに何かを書いていた。 「しあわせかな、ふたり」 小さくつぶやくと、海を眺めた。 話しは二か月前に遡る。 同じ場所で、美波は小説を読んでいた。長袖の薄いセーターに、白いスカート。風の強い日で、スカートの裾が風になびいていた。背中まで伸びた髪の毛は、ナチュラルなカールがかかり、広く開いた背中にフワフワと触れている。 空の雲がたなびき、時折、美波は目を瞑って空気を吸った。 「美波ちゃん」 名前を呼ばれた。ここにいる筈のない人の声だった。美波は立ち上がった弾みで小説を落としてしまった。 「ごめんね、驚かせるつもりはなかったんだ」 焦って小説を取り、美波に渡した凌馬はハッとした。小説を取るために凌馬はしゃがんでいる。美波は立ったままでうつむいて、凌馬を見下ろしていた。 眉を寄せ、困った様な顔でこちらを見ている。この表情、どこかで見た記憶がある。そうだ、あの日。 凌馬は全てを思い出した。落馬した自分に駆け寄り、必死に話し掛け、人工呼吸をしてくれた人。それは優子ではなく、美波だったのだ。 これまで優子の発言を疑ったことはなかったが、時が経てば経つほど、どこかしっくり来ない。何かが気になる。それは優子の香水のせいではないかと、思っていた。優子ははじめて出会った日から、あるブランドの香水を振りかけていた。その香りは、優子のいた場所を特定できる程、きつい。それに比べて美波からは、石鹸の様な香りがほのかにするだけだ。いま自分を見下ろす美波の髪が揺れて、風が香りを運んで来てくれている。あの日、自分に人工呼吸をした女性の香りだった。顔もそう。眉を寄せた困った顔。あの時の女性は、美波に間違いなかった。 「美波ちゃん」 凌馬が立ち上がると、今度は逆に凌馬が美波を見下ろした。 「やっと思い出したんだ」 「なにを?」 「美波ちゃんが僕を助けてくれたんだよね」 「ううん」 美波は凌馬に背を向けた。目の前にいる人は自分が憧れ続けている人だけれども、彼は来月、結婚する。今更、凌馬を助けた人が誰かなど、意味を持たないことだ。 「どうして嘘をつくの」 凌馬は美波の前に回った。 うつむき気味にしていた美波が更にうつむく。 「3年前の元日、美波ちゃんもクラブに行った筈だと、そう神社の宮司の奥さんがいっていたんだ」 「行かなかった、結局」 「あの日、転んで怪我をして家に帰ったことも、様子が変だったことも、美浜さんから聞いている」 「怪我はしょっちゅうで」 「何を守っているの?」 「守ってないです」 凌馬は無言で首を振った。 「例えばだよ、僕を助けたのが美波ちゃんでなくても、優子ではないことは、もうわかってるんだよ」 「でも、結婚するんじゃないの」 顔を上げた美波に、凌馬は突然、キスをした。最初は驚き、身体を硬直させた美波だが、自然と力が抜けてゆく。閉じた唇に、凌馬の暖かさが伝わる。 「ごめんね、美波ちゃん」 「……うん、はい」 「僕たち口づけしたの、はじめてじゃないよね」 「えーっと」 美波は微笑みながら視線を横にずらし、首を傾げた。 「ほらっ、ね、そうだね」 凌馬は笑い出した。その笑顔につられ、美波も笑った。美波は凌馬の笑い皺がとても好きだった。 「これ」 小説を渡された。 「落とした時に、しおりが外れてしまって」 「いいんです。同じ小説を何回も読んでいるので」 「なに読んでるの?」 「内緒」 美波はお手製のカバーを被せてある小説を後ろ手に持った。 「どうして隠すの」 「恥ずかしいから」 「もしかして官能系?」 「まさか、まさか」 顔を前で手を振り、美波は再び笑った。 「美波ちゃんが声を出して笑うのはじめて見たよ」 「そうですかね」 首を傾げる仕草が可愛くて、凌馬は手で自分の目を覆った。 「ここ、美波ちゃんの特等席」 ふたりはベンチに座った。 「この公園が出来たのは、わたしが小学校の時なんです。それから、何かあると、ずっとここに来て」 唇を軽く噛み、美波は首を振った。悲しい風ではなく、微笑んでいる。 「友達がいなかった訳ではないのですが、みんなでワイワイするのが、得意ではなくて、なのでひとりでここで、物語を読んで」 「わかる気がする」 「ん?」 「僕も、どちらかというと賑やかなのとか、派手なものは好きじゃない」 凌馬の横顔はとても冷めて見えた。 「うちの実家はとても派手な家で、姉と両親の4人家族なんだけど、みんなパーティーとか大好きなんだよね。それでいて、自分が如何に目立つかということばかり考えていて。話す内容も自分のことばかり。口から生まれて来た人ばかりで」 凌馬は笑って、美波を見た。 「美波ちゃんや、美波ちゃんの家族の中にいると、とても落ち着くんだ」 「うちも、みんなお喋りで」 「明るいお喋りは、周囲をしあわせにするんだよ。自分勝手なお喋りは、時に人を傷付ける」 「たしかに、わたしが暗い分、家族みんなが明るくて、それで生きて来られたのかな」 美波は海を向いて、また小首を傾げた。 「美波ちゃんはしあわせ者だよ。あんな素敵な家族に囲まれて」 「はい、ありがとう」 「優子もとても羨んでいたよ。美波ちゃんの家族みたいな家に生まれたかったって」 「優子ちゃんが」 「うん。美波ちゃん知らないかも知れないけど、優子は養子なんだ」 「……」 美波はまたうつむいてしまった。優子が養子で、家族に恵まれず育ったことは、母から聞いて知っていた。 「だからって訳じゃないんだけど、あんな嘘をついた優子を憎めなくて」 美波はうなずいていた。 「僕を助けたのが優子じゃないと疑い出したのは割と最初の時期で、勿論、その当時は優子はただの知合いだったし、問い詰めはしなかった」 「はい」 「この結婚が決まる少し前なんだ」 「ん……?」 「僕たちが付き合いはじめたのは」 「もっと前からだと思ってました」 「当然だよね、優子の態度は、誰から見ても恋人同士に見える。現に、僕の両親だって、姉だって……」 凌馬は拳を強く握りしめている。 「いまでは、僕の家族と、優子の家族で、旅行に行く程の仲良しだよ」 ふふっと凌馬は鼻で笑った。 「美波ちゃん」 「はい?」 また小首を傾げる美波を見て、凌馬の顔が一気に明るくなった。 「きょうは、お店?」 「いいえ、きょうは定休日」 「定休日あったの?」 「最近、作ったの。働き方改革だって。月曜日がお休みになりました」 「そうか、もし良かったら、美波ちゃん、島の1週旅行に行かない?」 「旅行」 美波が顔を赤らめるので、凌馬は腰を折り曲げて笑った。 ふたりはそれから、凌馬の車で島の海岸通りや、内陸の観光地巡りをした。この島で生まれた美波は意外と、観光スポットに行っていない。その分、凌馬が案内をした。数時間そうして、観光地巡りをしているうち、自然と手をつないで歩くようになっていた。美波は恥ずかしくなかった。内向的な自分がこんな大胆な行動を取ることに驚いているくらいだ。凌馬は来月、結婚する。このしあわせは、きょう1日限りの贈り物のようだと、そう納得していた。それで充分、しあわせだった。 「結構、遅くなっちゃったね」 「朝からだから、もう10時間になりますね」 腕時計を見ると、午後6時だった。初夏になり、6時は昼間の様に明るい。 「家に着くまで、1時間くらいだけど、少しだけ、ここを見て行く?」 「はい」 土地が隆起した部分を目指し、ふたりは手を繋いで歩いた。これまで観光した場所には多くの観光客がいたが、流石にここには誰もいない。 「2年前に、ひとりでここに来たんだ」 「どうしてここに?」 「なんとなく車を飛ばしふらふらしていたら、ここに辿り着いた」 「わたしも知らなかった」 「知らない所ばかりだったじゃない」 「たしかに…」 繋いだ手を強く握りしめたふたりは、土が大きく盛り上がった部分を駆けあがった。天辺まで辿り着くのに1分程、掛かっただろうか。凌馬は息継ぎをしたが、美波はさっぱりとした顔で地上を眺めた。 「気持ちいいねー」 美波は両手を広げた。 「美波ちゃん、活発だね」 膝に両手をついていた凌馬は美波を見た。後ろ姿だが、両手をいっぱい広げている美波の背中を見つめた。伸ばし掛けた手を、もう片方の手が抑える。自分には美波を抱きしめる資格がない。 「見て、見て、意外と高いよ」 「えっそうなの」 下を見ると、足がすくむ程高かった。 「僕、高所、苦手なんだ。美波ちゃんは怖くないの」 「ぜんぜん怖くないよ」 振り向いた美波は、これまで見たことがない程、逞しく、美しかった。 ふたりはその後、美波の実家に寄った。美波を送り届け、挨拶をするだけの予定だったのだが、凌馬を見掛けた尊に呼び止められ、半ば、無理やり店に引きずり込まれた。 尊も美浜も、美紀子も、前と変わらず親切だった。凌馬の結婚を喜んでくれ、祝いだと、一升瓶を貰った。昔凌馬が住んでいた近所のアパートは引き払っていたので、凌馬は、美波の実家で1泊することとなった。 女性陣が寝てからも、尊と凌馬はふたりで飲んだ。尊に誘われ、ふたりは店の外のベンチに座っている。 「凌馬くん、君と出会て本当に良かったと思ってる」 「僕もです。みなさんに知り合えたことは、人生の宝です」 「嫌かも知れないけど、死んだ息子が帰って来たみたいでね」 「嫌だなんて、とんでもない」 日本酒の入ったグラスをベンチに置いて、凌馬は頭を下げた。 「だからね、凌馬くん。もうこれで終わりにしたいと思うんだ」 「……終わり」 「気分を害さないで聞いて欲しいんだけど、もう美波とも会わないで欲しい。美波を、娘をこれ以上、苦しめたくないんだ」 凌馬は言葉がでなかった。他の女と結婚すると決めている癖に、美波との時間を持ちたいと思った自分を恥じた。しかし美波といると、凌馬は心から癒された。美波のことを好きだと、そう確信していた。 「ごめんな、引き留めておいて、嫌な話して」 「僕は…、あの結婚を」 結婚を破談にする。そういいたかった。しかし破談の二文字が出て来ない。両親を落胆させたくない。凌馬はそうやって、これまで育ってきた。 3年前から娘の、凌馬に対する気持ちを知っていた尊は、凌馬から直接、優子と別れると聞きたかった。黙って凌馬の次の言葉を待った。しかし、その言葉を聞くことは叶わないと察した時、尊は話しを逸らした。 「まあ、忘れて。さあ、今夜は飲み明かそうぜ。そうだ、雲丹食べるかい」 そういって尊は厨房の冷蔵庫から雲丹を取りに行った。凌馬はその場で頭を抱え、背中を丸めていた。 「凌馬のこと、好きだったんじゃないのか」 ふざけ半分に照之はいった。美波は答えなかった。笑顔のままで海を眺めている。手にはあの日の小説を抱え。 「優子さんには敵わないな。優子さん、凌馬の前では、ぜんぜん違う人物を演じてるから。声色も変えて、凄いよあの人」 「わたし、しあわせだよ」 「ん、どうしたの急に?」 「テルさんも、家族も、周りのみんなも、わたしを可哀想な子だと思ってくれているけど、わたしは可哀想じゃない。しあわせなの」 「うん、うん、そうだよな。ごめん、確かに、憐れんでいた部分はあった」 「いいのいいの」 美波は照之の腕を軽くたたいた。 「みんな、わたしのことを思ってくれているの知ってるし」 「そっか、なら良かった」 そういうと照之は頭を下げ、渋面をつくった。 「寧音のことなんだけど」 「なに、寧音ちゃんのこと」 美波は身体を乗り出した。愁眉を開いた顔で照之を見ていた。 「調べたんだ」 照之は顔を仰向けた。 「それでわかったことがある」 「なに?」 「あの朝、スタッフのひとりが、見ていたんだ。名前は伏せるけど、美波ちゃんの知ってる人だよ」 「そうなの?」 「他の馬だけど、体調が優れないことを気にして、未だ暗い早朝にクラブに行ったらしいんだ。そこで見たんだって」 「何を?」 「優子さんが、寧音に乗って、物凄いスピードで走らせているのを」 「どうして、寧音はそんなに早く走れないし、脚だって細いのよ」 「知ってる。寧音は、のんびりした子だったから。それから直ぐに優子さんは下りたらしいけど、寧音をそのまま走らせ、障害を越えさせようとした」 美波は両手で口を押え、目を見開いた。 「そのスタッフが止めに行こうとした時、障害を飛べなかった寧音は転倒したらしい。その時に脚を折ったんじゃないかと」 「それで、どうしたの?」 美波の声は震えている。 「だけど、そのスタッフは優子に買収された。元々借金のある奴だったし」 「それで…」 「寧音を、そのまま馬房に放置したらしい。そうしろと命令されて」 照之は泣き出した。美波は震え出し、身体を両手で抱え、声にならない声で叫んだ。
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