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勿忘草
今、どこにいますか。
いつか届く君宛ての手紙を、僕はこの一文から綴り始めた。
◇◇◇◇
つい先日、僕宛てに1つの封筒が届けられた。不審に思ったが、人のいない今のうちに一応開封しようとしている。
……しかし手紙といっても、一体どういう趣味をしているのか知らないが、これは便箋に手書きのものではなかった。A5サイズのコピー用紙への印字だ。真っ白な紙に無機質な教科書体が並んでいる。
封筒も、シンプルを通り越してただの茶封筒だった。因みに宛名も印刷されていた。差出人の名前は無かったが。
とにかく胡散臭いが、とりあえず僕は2,3枚はありそうなその手紙に目を通し始めた。
今、どこにいますか。
そんな質問から、手紙は淡々と続いていった。
◇◇◇◇
今、どこにいますか。
自分の部屋で1人これを読んでいるのでしょうか。それとも、怪我でもして病院にいるのでしょうか。恋人にからかわれながら斜め読みをしているのでしょうか。
まあ、それなりに良い日々を過ごしているのなら何も文句はありません。何事もなく平凡なことが一番ですから。
それはそうと、今僕がこれを書いている理由ですが、僕のことを忘れないように少し書き留めておこうと思ったからです。尤も、あまりに幼いころについては記憶が怪しいので、この数年分だけにしておきます。
まず3年前、学校の交換留学制度を使って1年間イギリスへ行っていました。英語には苦労していたのに無謀なことをしたと思いますが、なかなか有意義だったと思います。勿論人付き合いには四苦八苦したわけですが、数年経っても連絡のつく友人が1人出来たことは僥倖でした。やはり、先に何が起こるかは読めないものです。
半年前は、長編小説を書き始めました。在学中にでも完結させることが目標です。それにしても長編小説の定義が10万文字とは、僕には随分気が遠くなる話ですが何とか頑張ってみます。作家を生業にする人たちの偉大さが身に染みそうですね。
ああでも、短い人生の中で最も鮮明に憶えているのは後悔の記憶でしょう。例を挙げれば、大学受験に失敗したことは永久に忘れないと思います。浪人こそしなかったものの、第一志望に落ちたことは今でも後悔の種です。別に、今の状況に不満はありません。ですが、狂気を抱くほどまでの努力が出来なかったことがずっと情けなく後ろめたいのです。もっと復習が出来たのでは、もっと真面目にやれたのでは、と幾度後悔しているか分かりません。いつまでもやりきれない。
――これで、欠片でも僕の断片を記録できたでしょうか。こんな僕でも失くせない、失くしたくない記憶はあるものだから、ここまで書き上げてみました。どうしても、忘れてほしくないんです。貴方には。
……お願いだから、どうかこの日の僕を忘れないで。いつか何もかもを忘れても、きっとどこかで思い出して。心のどこかに、何かを置いていてほしい。ただ、それだけです。
それでは。
◇◇◇◇
……誰かの独白でも、間違って届いてしまったのか。それとも、家族か恋人に宛てた遺書のようなものだろうか。ただ、他人宛てにしては何か不自然に思える。
分からないままに読み終えると、最後の1枚が手に残った。余白の大きな、少しよれたコピー用紙。
そこには書いた日付と署名だけが、手書きで残されていた。
◇◇◇◇
――それは、僕の名前だった。
病室のベッドで読んでいた僕は、呆然としてしまった。書かれた日付は、10年前になっていた。
震える手でボールペンを握り、メモ用紙に名前を書く。記憶が消えても、癖のある字体はそのままだった。どう見ても僕の筆跡だ。
抱き締めた手紙が、ぐしゃりと手の中で皺になる。改めて最後の一節を思い起こすと、嗚咽が止まらなかった。
こんなにも忘れたくないと願った『僕』を、僕は不可逆的に忘れ去ってしまう。手紙のことなど、既に一切覚えは無かった。当然、手紙で語られた人生も他人事だと思っていた。自分のことだと分かっても、現実味の無さに目眩がする。
……もう僕に残された時間はほとんど無いだろう。何年もかけて進行したこの稀な病気は、きっと止められない。
――僕にはただ、かつての僕を抱き締めて泣き続けることしか出来なかった。
◇◇◇◇
消えゆく記憶は戻らない。
薄れる情も、侘しさも。
何事も、想いと共に遠ざかるだけ。
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