Merry

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街を歩いていても、ふとしたことで彼女を思い出してしまう。家にいれば、彼女がくれたものが目に入ってしまう。それで残業をすることが多くなった。できる限りの時間仕事をして、急いで帰り、急いでベッドに潜り込む。そして、布団の冷たさに泣く。そんな日々をもう半年以上続けていた。 定時になった。今日も残業をしよう、と椅子に座り直す。突然、肩に腕を回された。 「よーっす、お前また残業? お疲れさんだなあ」 同期の川口だ。 「……したくてやってんだよ」 「たまには終わりにして飲み行こうぜ? こう、パーっと。それに今日合コンなんだよ、どう?」 川口が俺を心配して声をかけてくれていることはわかっている。けれど。合コン、芽里と出会ったのも、大学の合コンだったな、と思い出す。 「……ごめん、ちょっと、俺、パス」 「……彼女さんだろ?」 唇を強く噛む。でないと涙が溢れてしまいそうだ。 「辛いだろうってことは察するよ。でもそろそろ……彼女さんだって、お前がずっと辛そうなの、見ていたくないと思うよ。来るだけ来てみるのもアリなんじゃないかなってさ」 「……ありがとう」 なんとか絞り出す。 「でも、まだ、無理なんだ。またいつか、誘ってよ」 「……わかった。無理しすぎんなよ」 いい奴だ、と思う。けれど、俺にはそんなの、まだ無理だ。 芽里と本気で結婚を考えていたわけではない。あのまま何事もない日々を重ねる内に、いつの間にか心が離れて、よくあるカップルのようにどちらかが自然と別れ話を持ち出して、それぞれの道を行くことだって十分に有り得た。別れが来ることは、結婚を見据えて付き合っていたわけではない俺たちにとって、いつも心の隅でちらつくことではあったのだ。けれど、その時確かに俺たちは幸せで。あの時は確かにお互い愛し合っていて。俺たちの予期していた別れは、あんなにも突然で残酷なものではなかったのに。 誰もいなくなった社内、俺はただスマホを握りしめた。 8時過ぎ、会社を出て歩き出す。ふと、道端のごみ捨て場が目に入った。  もしもし、私芽里。今、私がいつも使ってるごみ捨て場の前にいるの。 ちょうどバスが来た。バスの中にいる人はそこまで多くない。吊り革を掴んで、バスの外に目をやる。バスの後ろの方から、楽しそうに談笑するカップルの声がする。音楽を聴こうか、と思ってイヤホンを出したところで手が止まる。2人で分け合ったイヤホン。芽里が俺の肩に頭を預けて一緒に曲を聴いた。そのためだけに有線イヤホンを買ったのだ。「でもさ、ワイヤレスだったらちょっと離れてても同じ曲聴けるよね。離れてるのに実は同じもの共有してるって、なんかエモくない?」イヤホンを耳に入れられなくなってしまった。どうして君は、全てのものに思い出を作ってしまったんだ。人の波に押されるようにしてバスを降りる。  もしもし、私芽里。今、駅に着いたの。 駅に向かう足が重い。芽里が家に来るとわかっていた時は、あんなにも軽やかだったのに。 「あっ」 カシャーン 人とぶつかって、握っていたスマホを落としてしまった。慌ててスマホを拾う。しゃがみこむ俺にまた別の人がぶつかって、小さく舌打ちして去って行く。 「すみません、」 誰にともなくそう呟いて、立ち上がる。保護フィルムにヒビが入ってしまった。スマホの機能自体に問題はなさそうだ。でも、こんなことではいけない。ごめんね、芽里。君から電話が来たらすぐ出られるように手に持っていたのに、すぐ落としちゃうようじゃ、駄目だよね。スマホを握りしめて電車に乗る。吊り革に掴まって、思い出す。電車が混んでいた時、芽里だけ席に座らせて、俺は吊り革に掴まった。カッコいい彼氏、をやって見せたのだ。けれど、カッコつける相手は、もういない。電車にしばらく揺られ、俺はとぼとぼと電車を降りて駅を出た。何か夕飯になるものを買おう、とコンビニに向かう。  もしもし、私芽里。今、コンビニに行くの。 芽里の好きなつまみと、それから2人で飲みきれるくらいの酒。それを買うことももうない。売れ残ったサラダとパスタを持ってレジへ行く。 「チャージなくなりました」 「……すみません。現金で」 千円札を出した。コンビニのレジ袋を持って、街に出る。行き交う人は皆幸せそうに見える。どこからかジングルベルが聞こえてきた。ケーキ屋の店頭で、サンタのイルミネーションが楽しそうに点滅する。息を吐いてコートに手を突っ込んだ。ポケットの中の手は、1つだけ。  もしもし、私芽里。今、ケーキ屋さんにいるの。 いつの間にかクリスマスシーズンだ。クリスマス前にデパートのアクセサリー店で頭を悩ますこともない。君と一緒に、この道を手を繋いで歩くこともない。ねえ、君はどこにいるの?  もしもし、私芽里。今、あなたの家がある地区に入ったの。 脇道に入ると突然ふっと街灯も少なくなり暗くなる。いたずら好きだった芽里。この辺りで待ち伏せして足音を立てながら後を尾けてみたり。フードを深く被ってマスクを付け、ぼうっと光る街灯の下で「私、綺麗?」と言ってみたり。今はただ、足音と人影を探すだけだ。  もしもし、私芽里。今、あなたの家の前にいるの。 電話を受けてベランダに出、アパートの下で嬉しそうに目を細める芽里に手を振るのが本当に好きだった。たったそれだけで、まだ彼女が俺の部屋に来ていなくても、まだ彼女を抱きしめていなくても、胸が暖かくなった。本当に、幸せだった。芽里が3階まで上がってくるのを待ちきれず迎えに行って、愛しさのあまり抱きついた。寒い中歩いて来た彼女のコートは冷たくて、でも暖かくて。「せっかくケーキ買って来たのに潰れちゃうよ」と笑いながら、彼女も俺の背に手を回した。部屋に2人で入って、冷やしていたワインを取り出す俺に、芽里は言った。  私芽里。今、あなたの後ろにいるの。 ああ、なんて、愛おしいんだろう。 ガチャ。 家の中は暗い。部屋に明かりが灯っているんじゃないかと。「おかえり」と笑う芽里がいるんじゃないかと。少しでも期待した自分が馬鹿だった、と苦笑を浮かべようとしたが、鏡を見ずとも自分の顔はただ引き攣っているだけだとわかった。バシャバシャと手を洗い、冷たいサラダとパスタを胃に流し込んで、ベッドに身を投げ出す。 サプライズが好きだった彼女に、俺もサプライズを返したことがある。2人でワインを飲み、2人ベッドに横になった。俺がパッと電気を消すと、驚いた彼女が俺の方を見たのがわかった。 「上見て」 そう言うと、芽里は息をのんで、小さく「凄い」と言った。百均でもよく売っている、夜光の星型のシール。それを並べて天井に貼った、小さな夜空。その日は獅子座流星群極大の日だった。 「今日曇ってたからこんなのだけど……子供っぽかったかな」 ううん、と芽里が強く首を振る。「すごく素敵、ありがとう」感嘆の声を上げる芽里の反応が期待以上で嬉しくなった俺は、少し調子に乗って提案した。 「もう少ししたら、ベランダに出てみない? もしかしたら雲の隙間から見えるかも」 「それで見れたらすごくラッキーじゃん」と楽しげに言う彼女の手を握りしめた。結局雲は晴れず、隙間から流れ星を見ることもできなかった。冷えた身体を温めようと布団に潜り込み、2人でくっついた。「ねえ」芽里の声が暗い部屋に響く。「この星に願い事しようよ。私たちの幸せとかさ」無邪気にそう笑う彼女に微笑みかける。 「いいね、願おう。すごくいい」 2人の幸せを願った星は、粘着力の限界が来たのかある時いくつか落ちて来た。芽里がまた泊まりに来る時に貼り直そう、と剥がした星は、それ以来再び星空になることなく、俺の机で眠っている。芽里の死を聞いた日、天井に1つだけ残された小さい星を見つけた。今まで気づいていなかったのにその日それを見つけたのは、部屋がひどく暗かったからかもしれない。俺はあの星を剥がして、どこにやってしまったのだろうか。 スーツを脱ぐ気にもなれず、俺はそのまま目を閉じた。
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