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ひとひらの贄
【序】
「ちょいとお前さま」
声を掛けられて弥助は耕していた畑から顔を上げた。見れば、旅装束の女が畦の上の土手から手招いている。手ぬぐいで流れる汗を拭いて返事をすると、富洲山はどちらかと問われた。
ああそれなら、と身振りを交えて答えてみてもどうも要領を得ない。仕様がないので畦まで歩いていってもう一度身振り込みで示す。
「ああ」
得心したように女が笑った。婀娜っぽい女だ。抜けるような白い肌に、切れ長で涼やかな目元。薄くて紅い唇が誘うように弧を描いている。
「助かりました。歩き慣れないもので存外ときが掛かって、もしや迷うたのかと。まだ暫く歩くことになりましょうが、お前さまのお陰で不安は晴れました」
笑う女の小袖の袂が乾いた風に揺れる。もう何日も雨が降らぬので、風が吹く度に土埃が舞い上がって汗に濡れた弥助の体に張りついた。拭ってもきりがないのでそのままにして、弥助は女を見つめる。
美しいがどこか得体の知れぬ妖しさが漂う女だ。随分歩いたと言う割には草臥れた様子も無く、形りも崩れていない。
「まだ少し掛かりそうよ」
振り返って女が言った。
「そうか。骨が折れるな」
後ろに控えていた男が嘆息して空を見上げる。女同様、抜けるように色が白い。豊かな黒髪を結いもせずに背に垂らし、まるで顔を隠すように笠を深く被っている。こちらは女と違い相当草臥れているようで、脚絆も土に汚れていた。
「今日中には行き着かぬでしょう。男所帯でむさ苦しいですがうちで休んで行かれませんか。と言っても、ご覧の通りの日照り続きで碌なもてなしも出来ませんが」
弥助の言葉に旅の二人は顔を見合わせて、それからほろりと笑った。
「それはご親切にありがとうございます。けれど当てがありますゆえ、お気持ちだけ頂戴いたしましょう。ああそうだ」
女は、ぽんと手を叩いて右手を男に差し出した。何も言わずとも通じるのか、男はその手に懐から出した紙片を載せる。手のひらほどの小さな紙だ。
「私たちは札売りなのです。ご親切のお礼にこれを」
女が差し出した紙には牛のような絵が描かれていた。ような、というのは、首から下は牛であるのに頭は人のものだったからだ。件というのだと女は言った。
「ご利益がありますゆえ大事になされまし。お前さまの憂いをひとつ、除いてくれましょう」
何を望むかと訊かれて弥助は頭を掻いた。
◇
家に戻った弥助は貰った札を土間の柱に貼った。もどした布糊で丁寧に貼りつける。その手元を覗き込んで弟が首を捻った。
「何だそれ。牛?」
「件と言うのだって。憂いをひとつ除いてくれるそうだよ」
「そうか。この日照りが収まると好いな」
「ああっ!」
弟の言葉に弥助はぴしゃりと額を打った。
「しまった。それを望めば好かった。己のことしか考えてなかったよ」
天を仰ぐ兄を見てくすりと笑い、弟は肩を竦めた。
「兄さんはいつも俺のことばかり案じているから、偶には己のことだけ考えるのも好いよ」
そう言うと椀と箸を取り、囲炉裏の方に歩いてゆく。その片方の足が引き摺られている。弟の足は一昨年痛めてから一向に快くなる気配が無い。弥助は弟に気づかれぬように唇を噛んだ。
「粥を作ったよ。水のようで申し訳ないが」
囲炉裏にかけた鍋から椀に粥をよそいながら、弟は情けなく笑う。せめて己も働ければ幾らかは違うだろうに、と気に病んでいるのだ。そんな必要は無いのに。
日照りが続いて今年は実りが悪い。弟がよそってくれた顔が映るほど薄い粥を啜る。一応箸を添えてはいるが、掛かるものなど何も無い。
弥助は先のことが気掛かりだった。特に、体の自由の利かない弟のことが。
貼りつけたばかりの札を見つめる。
どうか守ってくれと。心から願った。
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