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『今どこにいますか?』
空から降り注ぐ声に青年は顔を上げた。薄い金髪が、さらりと揺れて音を立てる。
『今、どこにいますか? 勇者』
離れていても会話のできる音声魔法だ。声の主は、かつて共に世界を旅した賢者のもの。
青空を見上げたまま、勇者と呼ばれた青年は言葉を返す。
「街のコロッケ屋だ」
『ちょっと意味が分からないんですが? これから王城で会議だって言いましたよね?』
賢者の声には焦りと怒りが含まれている。
勇者はくつくつと笑った。
「ここの店はすごいんだぞ。注文すると、後ろの厨房でコロッケを揚げてくれるんだ」
『そんなことは聞いていません。とっとと城へお戻りくださいやがれ』
賢者は丁寧に喋ろうとしているつもりだろうが、見事に失敗している。
見えていないのは承知で、勇者は肩をすくめてみせた。
「しょうがないなぁ。君の分も買って行くから、ちょっと待っててくれよ」
『勇者!? ちょっと!?』
一方的に会話を打ち切って、勇者はガラスケースの奥に立つ女性店員へ微笑みかけた。
「牛肉コロッケ、ひとつ追加で」
「いいんですかぁ? 今の会話、商店街じゅうに響いていましたけど」
女性店員はのんびりとした口調で確認した。
一年前に魔王を倒して凱旋したのは彼だと、誰もが知っている。
こうやって青空の下、平和に商売ができるのも勇者一行のおかげ。
だからこそ別の意味で、商店街にいた全員が彼に注目していた。
「いいんだよ、アンナ」
勇者はのんびりとした様子で大きなあくびをした。
「ただの財政会議だから。数合わせに参加しろって言われているだけだから」
「カルロさま。お待たせしました」
奥から現れたもうひとりの女性店員が紙袋を差し出した。
彼女たちは、この店の看板娘だ。
元々は代々続く肉屋だったが、廃業の危機にコロッケ屋へ方針転換したのだという。
栗色の髪と紅色の瞳を持つ姉妹は、ふたりで店を切り盛りしている。
勇者は銅貨を支払うと、熱々の紙袋を受け取った。
「ありがとう、ジュリア」
「早く王城へお戻りくださいね」
姉のジュリアが淡々とした口調で言うと、勇者はもう一度肩をすくめた。
「ありがとう。また来るよ」
勇者が姉妹へ向けてウインクした次の瞬間。
――その姿は、王城の廊下にあった。
青空の眩しさとは違う、落ち着いた城内の照明。
地面ではなく、赤い絨毯の敷き詰められた床。
違和感があるのは、ほかほかのコロッケ。
「勇者ー! 勇者!!」
逃すものかと言わんばかりに、勢いよく賢者が近づいてくる。
銀色の長髪を振り乱してどかどかと歩く賢者を見ることができるのは、恐らく勇者だけだろう。
「おぉ。戻ってきたのがよく分かったな」
「コロッケの香りがしていたからです!!」
賢者がコロッケを指さして訴える。
カルロは小さな紙袋を賢者へひとつ差し出した。
「はい。君の分」
「ありがとうございます、いただきます。じゃなくて!!」
「東国の方ではこんな格言があるらしいよ。『腹が減っては戦ができぬ』」
さくっ。
カルロがコロッケを頬張ると、軽快な音が廊下に響いた。
湯気はたっぷり。旨みもぎっしり。
粗めの牛ひき肉はまさしくごろごろと詰まっているし、玉ねぎの甘みやじゃがいものほっくり加減も完璧。
丁寧に仕込まれて、完璧に揚げられたコロッケを、はふはふ言いながらカルロは食べる。
「妹が接客担当で、姉が調理担当のお店なんだけど。たまたま立ち寄ったのが最初で、食べたときは感激したんだ」
(殺伐とした人間関係ばかり見てきたから、あのふたりの仲の良さにも救われるんだよな)
カルロは姉妹の顔を思い浮かべた。
旅の道中、様々な人々と関わってきた。腹に一物抱えながらも笑顔で会話するような関係にはうんざりしていた。
「……勇者?」
「いや、何でもない。それに君も長旅で実感しただろう? 凍えそうな夜。なんとか火魔法で暖を取りながら干し肉を齧って、渋いだけの赤ワインをちびちび口にしたときのあの辛さといったら。空腹は思考を低下させる」
「まぁ、それは」
賢者が俯くと、コロッケの湯気がもろに顔へ直撃した。
ぐぅ。
賢者のお腹が鳴る。
「こっ、これは、その」
「ほら。君だって腹が減っているだろう。美味しいコロッケを食べてから会議室へ行けばいい。どうせ退屈な話なんだ、せめて気分を盛り上げていかなきゃ」
・
・
・
ある日のこと。
カルロが街を歩いていると、ジュリアとアンナの姿を見つけた。
ふたりは楽しそうに話しながら歩いている。
普段は髪の毛を束ねて白い帽子の中にしまい、すっぽりと被るタイプのエプロンを身に着けている。
しかし、今日はふたりとも私服で印象が違って見えた。
姉のジュリアは背が高く、肩まである長い髪の毛はまっすぐ下ろしている。深緑色のワンピースがすらりとした体型に似合っていた。
妹のアンナは小柄でややぽっちゃりとしていて、髪の毛は三つ編みに束ねている。濃紺色のワンピースはふんわりとしていて、これもまた似合っている。
「やぁ、こんにちは」
「カルロさま!?」
後ろから話しかけると姉妹は肩越しに振り返った。
「休日も一緒だなんて、仲がいいんだな」
「世では不仲姉妹の物語が流行っていますが、それはあくまでも空想の世界ですよぉ」
アンナがジュリアと腕を組む。
はにかむジュリアは、決して嫌そうには見えない。
(真面目なジュリアと陽気なアンナ。仲の良さは、見ていて気持ちがいい)
「そうだな。アンナの言う通りだ。ところでその荷物は?」
「これは明日の仕込み用です」
じゃがいもと、玉ねぎ。
なかなかの量が布袋には詰まっていた。
「持とうか?」
「いえ、カルロさまに荷物持ちをさせるなんて」
「体力と腕力には自信があるんだ」
ひょい、とカルロはジュリアから布袋を取り上げた。
ずっしりと重たく、肩に食い込んでくる。
(これを店まで運ぶなんて、意外と力があるんだな)
カルロにとっては新たな発見だった。
さらに、もうひとつ。
店頭では気づかなかったが、ジュリアの手の甲や腕には火傷の跡が幾つもあった。
(コロッケと真剣に向き合ってきたんだろうな。店を、守るために)
――それは、勇者が世界を守ったのと似ている。
カルロは、日々鍛錬に明け暮れたり、魔物と闘ったりしては、傷だらけになっていた己を思い出した。
(そう言ったら真っ向から否定されそうだ。ジュリアの場合は)
俯いたままのジュリアに話しかけようとして、口を開きかけて止めた。
規模が違います。そう、困り顔で反応するジュリアを思い浮かべて、カルロは自らの口元に手を遣った。
そして、困ったように眉を下げたままのジュリアとは対照的に、アンナはにこにこと頭を下げた。
「ありがとうございますっ。ですが、どこかへ行かれる途中では?」
「ただの散歩だよ」
アンナ、ジュリアと共にカルロは歩き出した。
おずおずとジュリアが口を開く。
「勇者さまが、ただの散歩を?」
「平時の街を知っておかなきゃ、有事のときに対応できないからね」
「なるほど……?」
「いつもの素材を知っておかなきゃ、異常があったときには気づけないのと一緒ですねぇ」
「その通り。ジュリアだって、コロッケの材料にはこだわるだろう?」
「は、はい」
粗挽き肉やコロッケの揚げ方などのたわいのない会話をしながらコロッケ屋に到着すると、ジュリアが深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました」
「礼には及ばないよ。いつも美味しいコロッケをご馳走になっているからね」
顔を上げたジュリアとカルロの視線が合う。
「カルロさまが御用達にしてくださっているおかげで、お店も繁盛しています。感謝しています」
ふわっ、とジュリアが微笑んだ。
周囲の空気が、やわらかいものに変わる。花が咲くような、雲の切れ間から太陽が覗くような、ぱっと明るい変化だった。
(こんな表情もするんだ……)
「ジュリア、」
不意に、カルロがジュリアへ手を伸ばそうとしたとき。
『勇者! 今どこにいますか!』
賢者の空から声が降ってきて、カルロの手は宙で止まる。
『国王がお呼びです、勇者!』
「あー、分かった分かった。すぐに行くよ」
(今、惜しいと思ってしまった……これは、一体)
下ろした手を、カルロはぎゅっと握りしめた。
「カルロさま」
「ん?」
「また、お店でお待ちしていますね。とびきり美味しいコロッケを揚げますので」
はにかむジュリアに、カルロは笑顔で応えた。
「ありがとう。行ってくるよ」
カルロは、今までで一番力強い返事をするのだった。
・
・
・
数日後。
「え? 次の休みが、いつだって?」
今日も今日とてカルロはコロッケ屋を訪れていた。
揚げ油の香ばしい香りは店先にいてもしっかり鼻に届く。
コロッケが揚げあがるまでの時間に、とりとめのない会話をしていたところ。
アンナに尋ねられて、カルロはその蒼い瞳で瞬きを繰り返した。
「毎日休みみたいなもんだし、働いているようなもんだからなぁ。自由業は」
「勇者って自由業っていうジャンルだったんですかぁ?」
「アンナ! カルロさまに失礼なことを言ってない?」
奥から慌ててジュリアが駆け寄ってきた。
その手にはカルロが注文した揚げたてコロッケ。
カルロはジュリアに目を合わせて、ひらひらと手を振る。
「全然失礼なことなんてないよ。はい、お代」
いつものように銅貨を渡すと、カルロはジュリアからコロッケを受け取った。
一瞬指先が触れ合い、ジュリアが視線を逸らす。
(……ん?)
カルロが違和感を覚えたとき。
「お姉ちゃん。ちょうどよかった」
アンナは横に立つジュリアの両肩に手を置いた。
そのまま自分の前へと体をずらさせて、ガラスケースをはさんでいてもカルロと向き合うようにさせる。
「お姉ちゃんが隣街の肉屋を偵察しに行きたいって言っているんですが、よかったらカルロさまも一緒に行きませんか?」
「アンナ!?」
ジュリアが瞳を大きくして肩越しに振り向く。
どうやら表情で妹へ抗議しているようだった。
「僕はかまわないよ」
「カルロさま!?」
ジュリアが悲鳴を上げるようにカルロの名を呼んだ。
その顔は真っ赤に染まっていて、瞳も潤んでいる。
(……あぁ、そういうことだったのか)
不意にカルロは目を細めた。
(恋に落ちる瞬間って、こんな感覚なんだな……)
「せっかくだから、明日にでもどうだい。ちょうどコロッケ屋も休みだろう?」
「えっ」
了承されると思っていなかったのか、ジュリアはぽかんと口を開けた。
アンナはジュリアを後ろから力いっぱい抱きしめた。
「よかったね、お姉ちゃん!」
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・
約束した時間にカルロがコロッケ屋へ向かうと、ちょうど店の前にジュリアが立っていた。
以前に見たのと同じ、深緑色のワンピースを着ている。
カルロは小走りでジュリアへと近づいた。
「ごめん。待たせてしまったかな」
「いえ、わたしも今出てきたところです。カルロさま、今日はお世話になります」
「かわいいよ、ジュリア。この前は言いそびれたけれど、ワンピースもいいね」
「えっ?!」
ジュリアの声が裏返る。
「ごめん。心の声が漏れてしまったみたいだ」
「心の声といえば……また王城に呼び出されるようなことがあれば、すぐにお戻りくださいね……?」
不安そうにするジュリアの頭を、カルロはぽんぽんと撫でた。
「呼び出し、ね。まぁ、どこにでもいていい、っていうのは平和な世の中だからこそだよ」
「それは……カルロさまのおかげですから。ほんとうに、ありがとうございます」
見上げてくるジュリアは、ほんのりと化粧をしていた。
「真剣にコロッケを揚げている姿もいいし、今日みたいなのもいいね」
「カルロさま。あの、また、心の声とやらが漏れていますか……?」
「うん。その通り。ところでアンナは?」
「アンナはデートに行きました。アンナも一緒の方がよかったでしょうか」
「いいや。それなら、僕たちもデートだね」
カルロはジュリアの手を取った。
そのまま指を絡ませ、しっかりと繋ぎ合わせる。
熱のある、やわらかな手のひら。
確かに存在している、優しい温もり。
(王城では勇者としか呼ばれない。名前で呼んでくれるひとのいる世界とは、なんて幸せなんだろう)
やはり慌てふためくジュリアを眺めながら、カルロは、しみじみと思うのだった。
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