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 意外と小さなビルだな、と思った。  地図アプリを頼りに、僕は最初にもらった名刺に書かれたビルまでやって来た。いわゆるオフィス街の一角にある、少し古いグレーのビル。窓ガラスに映った向かいのビルと白い雲が、途切れ途切れに続いていた。  今日は二つとなりの駅の会社で面接を受けてきたので、僕はスーツ姿だった。何食わぬ顔でエントランスに侵入する。  エレベーターで七階のボタンを押す。案内板の数字が上がるのを見ながら、確かに目的地に近づいていることを実感した。深呼吸して、七階に降り立つ。 「お客さま、」  僕を見るなり、受付で髪をひとつに結んだ女性が立ち上がった。 「ご予定は、」  僕は以前不採用にされた会社名で自己紹介し、植田さんをお願いします、と告げた。女性はすぐに案内してくれた。  こんなにも晴れた日なのに、オフィスはどんよりと暗い。大きな窓ガラスのほとんどにブラインドが下がっている。蛍光灯の白々しい光の中に、植田さんの後ろ姿があった。きれいに整頓されたデスクで仕事をしている彼は、なんだかとっても小さく見えた。  僕は案内の女性を遮って、応接室ではなく植田さんのデスクに向かった。彼の姿が近づく。ゆっくり、ゆっくり。 「植田さん、」  振り向いた彼は、目と口を大きく開けたまま静止した。なだめるように、優しい声色で、聞く。 「だれ?」  返事はない。ただ瞬きだけが返ってきた。ぼくは、怪我をしている腕を強くつかんだ。植田さんが痛みに顔をしかめる。もう一度、聞く。 「だれ?」  ようやく意図を理解したのか、植田さんはゆっくりともう片方の腕をあげて、そばに座る一人の男を震えながら指差した。社員証に、平田、の文字が見えた。  僕はその男の前に早足で進んだ。 「何か……」  男が立ち上がった瞬間、僕は、  全力でその男の頬を殴った。  男は椅子にぶつかりながら倒れた。  指の関節に確かな手応えがあった。ヒリヒリとした感触があとを引く。フロアにいた全員が、息を飲んで僕の方を見ている。けれど、誰も何も言わない。しんとしたフロアに、僕の荒い呼吸だけが響いた。  平田は鼻血を出していた。僕は拳を下ろし、ゆっくりと振り返った。 「……やっちゃった」  声が震えた。まずいことをしている自覚はある。このあと酷いことになるだろうという予想もできた。緊張と興奮が止まらない。爪先から額まで、熱さと冷たさがない混ぜになっていた。 「……」  口をあんぐり開けて静止していた植田さんが、20秒ほどして急に立ち上がった。それから表情の読めない顔で平田を見下ろし、はっきりした口ぶりで一気に捲し立てた。 「俺、今日でここを辞めます。あなたのしたことは全部不問にします。あなたが吐いた暴言、負わせた怪我、全部。その代わり、今のことを不問にしてください」  それから辺りを見回して、同僚たちの顔を一つ一つ確認していった。誰からも言葉はない。それがわかると、 「お疲れ様です」  荷物をまとめて僕の手をひき、早足でフロアを出た。  ビルから数十メートル離れるまで、僕たちは無言だった。ただずっと、植田さんは僕の手を握ったまま、ずんずんと前に進んだ。ビルとビルの間でようやく止まったと思ったら、今にも泣き出しそうな顔で振り向いた。 「お前、自分が何をしてるのかわかってるのか!」  この人が怒るところを、今まで見たことがなかった。僕はそれだけで満足だった。 「わかってるよ!」  僕も負けじと声を張り上げる。真昼のオフィス街で、きれいな服を着た通行人が僕たちのことをちらちりと盗み見ては通りすぎていく。 「絶対わかってない!  お前、俺の人生めちゃくちゃにしてんだぞ?! なあ、俺の仕事奪って、俺のこと好きだとかなんだとか言って混乱させて、お前はそれが楽しいのか?!」 「僕だって迷惑なのは百も承知だよ!でも、植田さんのその煮えきらない態度みてたら、そうするしかなかったんだ!!  悪かったね、めちゃめちゃにして!!こんな、」  ひりつく喉で大きく息をすう。 「……こんなやつと出会ったのが植田さんの運の尽きだね!」  僕は泣きながら叫んでいた。怒りに満ちた植田さんの顔に、わずかに困惑の色が差した。  終わった、と思った。  本当はこんなことが言いたいんじゃなかった。僕は植田さんと出会えて心から幸せだった。植田さんにもそう思ってほしかった。それでも、僕は今それを素直に言葉にすることができない。  言えたらいいのに。どうして言えないんだろう。  植田さんも必死に何かを言おうとして、手を上げたり下げたりしている。それでもやっぱり、言葉が出てこなかった。  そうやって長い沈黙の時間を過ごしたあと、僕は心を決めて、歩き出した。植田さんはついてこなかった。一人きり、スーツを着た人の群れのなかに紛れこみ、駅へ向かう。初夏の強い日差しが、僕の足元に濃く小さい影をまとわりつかせた。  僕はビルの狭間でひとり取り残された、植田さんの寂しい背中を想像した。  これでよかったんだ。  その晩、眠れない僕の耳に、聞き慣れたエンジン音が入ってきた。窓の外を見ると、植田さんの車が道路脇に停まっていた。車のドアが開き、彼が僕のアパートに歩いてくる。  夢を見ているのだろうか。  僕は慌てて玄関に向かった。途中でいつものように足の小指をぶつける。痛い。夢ではない。 ――どうして?  扉をあけ、立っていた植田さんを見た。訳もわからず立ち尽くす僕を、彼は突然、無言で強く抱き締めた。  その瞬間、僕はそれ以上のことを聞くのをやめた。  どうせ聞いたって、うまく言葉にならないはずだ。だからわざわざ、こうして深夜に、僕を抱き締めに来たんだ。不器用にもほどがある。  いい大人の二人が、口づけ合いながら泣いていた。情けないとは思わなかった。ただようやく、僕たちはお互いの大切さを、受け入れられるようになったのだと思った。
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