エピローグ

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エピローグ

「悪いな、急に呼び出して、」  遅れて入ってきた勝川に、隣の席を勧める。 「いいって。俺も久しぶりに植田と飲みたかったし」  勝川はコートを脱いで椅子にかけた。最後に飲んだのは桜が咲いていた頃だったから、あれからもう半年以上もたったことになる。外はすっかり冷えていて、明後日は雪の予報だった。 「これ、」  青いリボンのついた紙袋を勝川に差し出す。 「ちょっとした玩具と……あと、お前の言ってた、おしりふきウォーマー。こんなのあるんだなぁ……、おめでとう。」 「おお、気ぃ遣わせて悪いな、ありがとう。これ、ほんと欲しかったんだよ」 「どう、パパになってから」 「もう大変だよ。夜は寝れないし、オムツかえすぎて腱鞘炎みたいな感じになって。」  そうやって笑う勝川は、言葉に反してとても幸せそうだった。奥さんが我慢してるから今日は一杯だけ、そういってビールを注文する。とことん奥さん思いのやつだ。まあ俺も、酔いつぶれるような気分ではなかった。俺はいつも通り、メニューに一番大きく書かれたビールを頼もうとして、ふとその隅にベトナムのビールがあるのを見つけた。今日はそれにしよう。  久しぶりの乾杯のあと、俺は今までのことを、なるべく平坦に聞こえるように注意しながら勝川に打ち明けた。勝川は時に微笑み、時に真剣な顔をして俺の話を聞いた。  すべて聞き終わると、一口だけビールを飲んだ。 「……率直に言うと、ついてけないな、男と付き合ってるとか、そいつが殴り込みにきたとか、俺には、親身になって聞ける話じゃない」  俺は少なからずその言葉に傷ついた。だが予想はしていた。この遠慮のないところが、勝川の美点だと思っているからだ。 「だよな、」  俺もグラスを傾ける。 「でもさ、なんか……植田、顔、変わったろ。いい意味で、」 「そうか?」  意外な言葉だった。俺が今までどんな顔をしてたのか、自分では思い出せない。 「なんか変な空気がないっていうか……自然体っていうか。うまく言えないけど……前はもっと、無理してるみたいだった」  自然体。勝川の目にそう映っていたことが、俺は少し嬉しかった。それにさ、と彼は付け加える。 「お前、スーツ似合ってなかったし」  俺の服を指差して、笑った。同感だった。今こうして平日に、セーターとジーンズで出歩いている自分が、一番自分らしい気がしている。  ピアスもあけた。髪も染めた。前の会社を辞めて、俺は自分に区切りをつける意味で、意識的に見た目を変えた。別人になろうとしたわけではない。ただ、今まで普通じゃないという理由で、本当はそうしたいのに避けていたことを、少しやってみただけだ。 「しかし、植田がバイヤーとはなぁ」 「そんなカッコいいもんじゃないよ。それに割合だけでいったら店番してる方が多いんだから」  俺は苦笑いを勝川に向けた。薄給だということは、この際伏せておく。余計な心配をかけるかもしれない。それに、懐具合などどうでもよくなるほど、今の仕事が楽しかった。  俺は今、美枝さんの店で、店員兼商品の買い付けを担当している。誠が俺の会社に殴り込みに来た日の夜、彼に美枝さんの連絡先を教えてもらい、それから彼女に自ら頼み込んだのだ。  美枝さんは最初、俺の申し出に戸惑っていた。店員を雇うような余裕はないというのがその理由だった。俺は無給でもいいと食い下がり、彼女はしぶしぶ承諾した。  店の仕事は楽しかった。事務作業は苦にならないし、何より店に置かれた各国の雑貨が魅力的だった。その一つ一つが持つ、遠い国の歴史、文化。それらが俺の中に眠っていた好奇心に語りかけてくる。  そのうち、ラオスの買い付けについてこないかと誘われた。喜んでついていった。美枝さんは、女一人よりも男がいた方が有利な時があると言って、それ以来いつも俺を買い付けにつれていってくれた。彼女といると、学ぶことが多い。本当に出会えて幸運だった。 「それで、次はどこ行くんだ?」 「未定。美枝さんはウズベキスタンに行きたいって言ってる。見てみたい食器があるって」 「彼女、言葉は話せるのか?」 「前に中国語とトルコ語を話してたのは聞いたけど、他はどうかな。……ま、だめなら現地でガイドを雇うさ」 「俺には未知の世界だなぁ」  そうやって笑う勝川を横で眺めながら、俺は密かに今、自分が彼の手を離れていることを、実感していた。  やがて勝川は奥さんから連絡が入り、足早に帰っていった。俺は電車に乗って、誠のアパートの最寄り駅で降りた。改札を出ると、すぐ目の前の降車場で、一台の軽自動車がハザードランプをつけて止まっていた。初心者マークに、若干塗装の剥げたドア。暗い運転席で誠が手を振っている。 「どうだった、」  助手席に乗り込み、シートベルトをしめる。 「今日は完璧!幅寄せもほら、きれいでしょ」  一昨日、彼は同じ駅の同じ場所で、幅寄せに失敗して側面をガードレールにぶつけていた。  ガチャガチャとシフトレバーを動かしながら、誠は車をゆっくりと発進させた。ライトに照らされたモノクロの景色が、次々と流れていく。俺はもう慣れてしまったが、未だに美枝さんは彼の運転をいやがる。気持ちはわかる。彼に廃車寸前の中古車を勧めておいて正解だった。 「……今、何時?」  両手でハンドルを握りながら、彼が真剣な顔で聞く。相当余裕がないのだろう。俺は彼のその運転中の顔が好きだった。 「十時前かな」 「ふふ、間に合ったね……」  明日は誠の誕生日だ。彼は日付が変わる瞬間に、二人で祝いたいという。帰って風呂に入るなどしていれば、ちょうどいい時間だ。  プレゼントは翌日一緒に買いに行くことになっている。冗談で指輪がほしいと言っていたが、まぁ、良いのがあれば買ってやろう。  アパートの駐車場で五回ほど切り返し、ようやく車は止まった。俺はシートベルトをはずすと、降りようとする誠を引き留めて、車内で軽くキスをした。それからすぐに唇を離し、またそれぞれの扉から外へ出る。誠は満足げに笑っていた。  外の空気は冷たく澄んでいて、わずかに露出していた首や顔にしみる。街灯が明るいせいで、星はよく見えない。そんな味気ない冬景色も、彼と手を繋ぐだけで、にわかに潤い、輝き出す。  階段で躓く彼を起こしながら、部屋に入る。俺は通い慣れたこの部屋に、ついうっかり、ただいま、と言ってしまった。二人で顔を見合わせて笑い、もう一度、キスをした。 (終)
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