不通

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 「今どこにいますか?」  息を切らすかのような、彼女の声がスマホの留守番電話から聞こえて来る。  雨がかなり強く降っている。屋外からの電話。ザーザーと彼女の傘に雨が降り注ぎ、雨粒が跳ね返る音が響き渡る。  彼女は僕の居場所を探して僕のスマホに電話をかけ、そして繋がらず留守電に録音となっていた。  彼女は、夫からのDVに耐えかねて、ある時インターネットの掲示板で浮気相手を募集した。  僕がそれに応じた事がきっかけで、不倫による交際が始まり、多い時で週に3回程、深夜に不謹慎なデートを繰り返した。  既に壊れてしまった家庭の中に、居場所が無い。暴力をふるう夫の仕打ち。帰る場所が無いから夜はホテルを転々とする。  あざが絶えない腕や足に、次はいつ顔を傷つけられるのだろうと、会社の受付嬢をする身として、職を失う危機を、真剣に語った。  彼女は何度も自殺を考えたと言った。  彼女は死んではならない。  彼女と会う度に彼女を抱くのではなく、死を踏みとどまらせる為の説得を積み重ねた。  ホテルの一室で、僕は彼女の夫と揉み合う事になる。彼女の夫が、彼女と僕が居合わせるホテルに、直接乗り込んで来たのだ。  僕は彼女の夫と落ち着いて会話をしたいと彼女に願い出る。  このホテルの付近の、僕の行きつけのバーに、彼女の夫と共に訪れて、数時間、語り合う。  彼女は色白で色気があり垢ぬけている。髪はとてもお洒落に手入れされていて、華奢で何を着せても似合う。化粧も上手だし、喋らせれば小気味良く相槌を打ち、相手を飽きさせない。上手に話題を膨らませて、相手を上機嫌にしてしまう事は、いともたやすくこなしてしまう。着飾る事をしなくても何故か周囲の男達の気を引いて、いつも会話の中心になってしまう。彼女自身には全く他意が無いのはわかるし、彼女の目が他の誰かに向いているわけでは無い事もわかっていた。  でも、他の男がいやらしい目で自分の妻を見るのが嫌だったし、そういう気持ちになった男がいる事自体が耐えられなかった。フラストレーションが積み重なり、いつしかその矛先は妻に向けられ、DVに走った。  それをどうしても止められない自分が悔しかったと、彼女の夫の口から述べられた。  彼女の夫は、テレビ局の編成の仕事をしていると自己紹介をした。  ウィスキーのストレートを一気に何杯も飲み干して、彼女の夫は笑いながら、僕の肩を何度も叩く。  不倫の現場を見て、何かそこで、それまで強く結んでいた糸が解けるような気分になった、ようやく開き直る事ができたと、笑いながら言う。  彼女の夫と別れたのは、空が白白と明ける頃、明け方の4時頃だった。彼女の夫はタクシーを拾い帰宅した。  「今どこにいますか?」  僕は留守電を聞いた折り返しで、ダメ元で同じ言葉を彼女の留守電に吹き込んだ。おそらく普通ならもう既に帰宅して寝てしまっているだろう。  しかしすぐに、僕のスマホのメッセンジャーに返信がある。  駅前の焼き鳥屋に居るとの事だった。    到着すると、彼女はかなり酔っていたが、お店の主人や店員とかなり親しくしながら、数名の他の客とも談笑し、派手に盛り上がっていた。  この日、彼女と彼女の夫は離婚が成立していた。  彼女の夫は、己から妻を奪った男の顔を一目見たかったのかもしれない。  僕等はその後、何度か会った。  でも、以前のような関係ではなくなっていた。彼女は思ったよりサバサバとしていた。そして、うって変わって別人のように、彼女は僕の体を求めるようになった。  僕はそんな彼女に興味を持てなくなった。  虐められて捨てられた子犬みたいに、寒い雨の中で、ぽつんと一人でガタガタと震えている、そんな彼女が好きだったという事に今更気が付き、僕は自己嫌悪に陥った。  彼女からの連絡は遠巻きに疎遠にするようになった。次第に関係は薄れ、お互いのやりとりも成り立たなくなって行った。  「今どこにいますか?」  久しぶりに彼女からの留守電がある。面倒くさいので一晩放置する。翌朝、しぶしぶと折り返しの電話をする。  『この電話番号はお客様の都合で・・・』  二度と彼女と連絡をとる事は出来なかった。  (おわり)
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