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『いまどこ?』
定時で会社から出てメッセンジャーアプリを開くと、妻からのメッセージが届いているのが見えた。絵文字もない。変換すらされていないメッセージが、妻の僕に対する素っ気なさを物語っている。
結婚する前は、可愛いスタンプや絵文字がついていた気がする。あまりにも昔のことで、もしかしたらそんな事はなかったのかもしれないとも思う。
わざとメッセージは開かない。開くと既読マークがついてしまう。そうしたら、返事をしなければならない。もう仕事が終わったこともバレてしまう。
何もしないままアプリを閉じ、スマートフォンを鞄の中にしまって夕暮れの街を歩く。
PM18:00
少し大きめの本屋で本を買う。僕は本が好きだ。文字が読めるのならば、ジャンルは特に選り好みしない。ただ、なるべく薄めの本を選ぶようにしている。本が増えると、妻が怒るのだ。
今日は、少し前に話題になった若い作家の本を選んだ。ジャンルはホラーのようだ。レジで会計をして、カバーをつけてもらった後店を後にする。
PM18:57
本屋がある場所から少し歩くと、小さな路地がある。注意して歩いていなければ、気がつかないような路地だ。
街を行き交う雑踏から離脱するかの如く、僕はその路地を進む。
しばらく進むと、少し開けた道に出る。車が一台通れる程度の幅だ。右に曲がって、またしばらく進むと純喫茶がある。
営業中の札を確認してから、板チョコのような扉を開ける。
PM19:15
喫茶店のマスターに、ブレンドを頼む。ロマンスグレーの髪が素敵なマスターだ。ビシッとアイロンがかけられた真っ白なワイシャツとワインレッドの蝶ネクタイ、黒いチョッキが似合っている。口数が少ないのも良い。
慣れた手つきでサイフォンを扱い、背筋を伸ばしてコーヒーを淹れている姿が絵になる。ふわりと漂うコーヒーの香りを愉しみながら、僕はさっき買ったばかりの本を開く。
しばらくすると、コーヒーと電子タバコが運ばれてくる。この電子タバコは僕の物だ。
初めてこの喫茶店に来たのは、妻に禁煙を迫られている時だった。最後に一服と思って吸える場所を探して街を彷徨っている時に、この喫茶店を見つけた。喫煙者の肩身が狭い昨今、素晴らしい隠れ家を見つけたと思った。その時に、マスターに電子タバコを預かってもらえないかとダメ元で頼み込んだのだ。
「良いですよ。一昔前は、沢山のお客さんが煙草キープをしていました。今ではだいぶ減りましたが...」
断られると思っていた僕は、そう言いながら目尻に皺を作るマスターに感激したのを覚えている。マスターの後ろの棚には、銘柄が違う煙草が数箱、ライターと一緒になって並んでいた。その日から、僕の電子タバコも棚に並ぶようになった。
PM20:00
コーヒーのお替わりとナポリタンを注文する。ここのナポリタンは絶品だ。
具とソースがたっぷりの今時の洒落たナポリタンではなくて、昔ながらのシンプルなナポリタンを出してくれる。
具は、玉ねぎとピーマンと少量のウインナー。味付けは、塩胡椒とケチャップでうっすらと仕上げたナポリタンは、僕が幼い頃に母親と通った喫茶店を思い出す。あの頃は、喫茶店のナポリタンとクリームソーダがご馳走だった。タバコの煙がぷかぷかとしている喫茶店で食事をするのが、大人の仲間入りをしたような気持ちになって嬉しかった。
僕が口の周りをケチャップで真っ赤にしながら食べるのを、母が優しく見守ってくれていたのを思い出してつい目頭が熱くなる。母が他界してから、もう何年も経つのに僕は今でも時々思い出しては泣く。
そんな僕を『いつまでもメソメソするな』と妻は言う。
ナポリタンとコーヒーが運ばれてくる。ナポリタンに粉チーズをたっぷりとかけて、フォークでクルクルと巻いて食べる。
...美味い。このシンプルさが良いのだ...。
ペロリと平らげた後、コーヒーを飲みながら電子タバコを吸いつつ、本の続きを読む。
PM21:00
喫茶店の閉店時間だ。本も丁度読み終わった。お会計をして、電子タバコと読み終わった本をカウンターに置く。本はこの喫茶店の本棚に追加される。
「ご馳走様でした」
そう言いながら喫茶店を出ていく僕を、マスターが穏やかに見送ってくれる。
「ありがとうございました」
僕が閉店時間に店を出るので、マスターはいつも扉の外まで出てきて頭を下げる。
少し歩いて振り返ると、営業中の札をひっくり返して喫茶店の中に戻っていくマスターが見える。マスターが中に入ってしばらくすると、ついていた明かりが消えて暗くなる。
僕も家に帰らなくては。
PM21:36
自宅の最寄駅へと向かう電車に乗り込み、メッセンジャーを開く。
『残業おつかれさま』
妻から新しいメッセージが届いている。相変わらずシンプルだ。今度はメッセージを開き、妻への返事を打つ。
『今、電車に乗った』
妻のメッセージがシンプルだとか、素っ気無いとか言うくせに、僕が打つメッセージも人のことを言えるような物じゃない。僕も昔は、可愛いスタンプやハートの絵文字を使って、恋人だった妻に一生懸命メッセージを送ったものだ。
PM22:30
「ただいま」
自宅に到着する。
「おかえりなさい。お仕事お疲れ様」
寝る支度を全て済ませている妻が僕を出迎える。
「何か食べる?」
「お腹が空いて、仕事しながら少し食べたんだ。ビールをもらおうかな」
僕が答えると妻は何も言わずに台所へ向かう。
つい先日、一人息子が離れた大学へ行くために家を出た。家の中が静かだ。息子がいた時は、深夜まで友達とオンラインゲームをやって騒いでいることに頭を悩ませたが、いなくなった途端に静かになってしまって少し寂しく思う。
ダイニングテーブルに冷えたビールと少量の刺身が運ばれてくる。ちゃんとにつまむ物も出してくれる妻に、ありがたいと思う。
僕が座っている席の向かい側に妻も座ると、テレビをつけた。
少し白髪が増えた妻を見ながら思う。
僕は妻を愛している。昔も今も、ずっと変わらず愛している。
本が増えることに怒るのも、空き部屋だった部屋に入り切らないほど本が溜まったからだ。
禁煙を迫ったのも、僕の健康診断の結果がここ数年芳しくないからだ。
「まだ死なれちゃ困る。子供が大学を卒業するまで、働いてもらわないと」
そう言う妻の表情は真剣だった。言われた時は、なんだよとつまらなく思ったが、滅多に開けない寝室の引き出しを開けた時に、クルーズ旅行のパンフレットが入っているのを見つけた。
パンフレットには『定年後に行く夫婦水入らず、優雅なクルーズの旅』と書いてあった。連れて行ってやりたいと思う。
母を亡くしていつまでもメソメソしている僕を、『しっかりしろ』と立ち直らせてくれたのは他でもない妻だ。
素っ気なくなったのはお互い様だ。愛の表現の仕方は変わると思う。もうお互い何年も『愛してる』なんて言っていない。二人きりで出かけたのなんか、いつのことだったか覚えてすらいない。
だけど、妻が僕を愛してくれているのもわかっている。
連絡せずに帰宅が遅くなっても浮気ひとつ疑わず、僕の帰りを『お疲れ様』と玄関まで出迎え、先に寝ていてもいいのに僕の晩酌に付き合ってくれている。
わかっていても、僕は本も読みたいし、煙草も吸いたい。だから月に一度、僕はこっそり一人だけの時間を過ごす。
___こちら、最近若者の間でブームになっている純喫茶です。レトロな雰囲気が可愛いと...
テレビのレポーターが、そう言いながらどこかの喫茶店を紹介している。
「喫茶店、懐かしいわね...」
妻がポツリと呟いた。
「若い頃、デートをする時は良く喫茶店に行ったわ」
そう言いながら、僕を見て笑う妻が若い頃の妻と重なった。
「...今度、行くかい」
妻から目を逸らし、ビールを飲みながら問う。妻の表情は見えないが、きっと驚いているんだろう。一緒に出かけようなんて言うのは、いつ振りだろうか。
「...この辺にそんなところあるの?」
「あぁ。いい店を知ってる」
刺身をつまみながら思う。
きっと僕は近々、あの喫茶店に妻と行くだろう。そして、電子タバコのことを怒られながらナポリタンを食べるのだ。
少し、楽しみにしている僕がいた。
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