暑さ

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 折柄(おりから)の暑さに、俺は苛々(いらいら)していた。  暦の上ではまだ初夏だというのに、このところ、摂氏三十五度を平気で超える猛暑日が続いている。  面白くもない仕事を終え、汗を拭きながら帰途につく。夕方になっても、通りの寒暖計は三十度を超える数値を指していた。  自宅に差し掛かったところで、隣家で飼われている犬が、今日も俺に吠えかかってくる。俺は、大の犬嫌いである。子供のように怯えて逃げ回ることはさすがにしないが、毎回びくり(・・・)としてしまう。正直、近寄りたくもない。畜生、死ねばいいのに。  自宅の玄関ドアの横にある郵便受(ゆうびんうけ)が、ちらりと目に入る。少し古びて、赤いペンキが剥げかかっている。  こういった些細なストレスが積もり、俺を苛々させるのた。  ドアをくぐるなり、むんとした熱気と、妻のヒステリックな声が俺を出迎えた。  どうやら、エアコンが故障してしまったらしい。しかも修理に来るのは来週になるという。最悪だ。  リビングでつきっぱなしのテレビに目をやると、熱中症で何人が搬送された……何処其処(どこそこ)で食中毒が発生した……などという知りたくもないニュースが流れていた。うんざりだった。  そこへ重ねて、妻の機嫌も悪いときている。  ——窓を開けると網戸をすり抜けて蚊が入るし、扇風機だけでは追いつかない、もう耐えられない、なんとかしてよ——という旨の暴言を、仕事の疲れでへとへとの俺に、妻はぎゃあぎゃあと声を浴びせかけてくる。勘弁してくれ——と、喉まで出掛かる。  実際に口に出してしまうと、百倍になってはね返ってくるので、とても言えないのだが。 「そうそう、アンタに言っとかなきゃならんことがあったんだわ。玄関の郵便受ね、ペンキがハゲてみっともないのよ。アンタとおんなじね。あははは」  くそっ、働いて帰った旦那様に向かって、なんという口を聞くのだ。誰に養われてると思ってる。 「だから、アンタ塗っといてよ。納戸にスプレーのペンキあったでしょ」  気付いたんなら、それくらい自分でやれと言うのだ。手間を惜しみやがって、面倒は全て俺に押し付ける女なのだ。  思っていることを口にも出せぬまま、黙って頷く。  溜まりに溜まった苛々(いらいら)が、黒く汚いドロドロとなって、俺の腹の中で渦を巻く。  俺はさっさと風呂に入り、妻から隠れるようにして缶ビールをいつもより一本多く飲み、早々に床に就いた。 *  ……いつまで経っても眠れない。  闇の中、扇風機が首を振りながら動き続けているが、熱せられた空気をかき混ぜるだけで、室内の空気と俺の腹の中の黒いものを冷やすには至らない。  隣で寝ている妻のいびきが耳に入ってくる。  ようやくうとうとと寝入りそうになると、蚊が耳元に飛んできて俺の安眠を妨げた。  小さな事がいちいち気になって、眠いくせに寝付けない。どうしようもない苛々が黒く渦を巻く。  一体これを、いつまで何度繰り返せばいいのか。  全身がじっとりと汗ばんでいた。 *  夢を見た。  俺は寝室の布団の上で、右手に野球バット、左手に包丁を握りしめて立ち尽くしていた。それぞれには、赤い血がべっとりと付着している。  足元には、隣家の飼い犬と、俺の妻が、うつ伏せに横たわっていた。ふたつ(・・・)とも、全身が赤く染まって、ぴくりとも動かない。  俺がやったのだろうか。  いくら苛々していたからといって、長年連れ添った妻を、この手で?  そんなこと、俺にできる筈がない。嘘だ、嘘だ。  しかし、腹の中に溜まっていたはずの黒いドロドロは、きれいに消えてしまっていた。  俺は、これら(・・・)を殺して、すっきりしている。  自分が信じられなかったが、それだけは確かな感覚だった。 *  闇の中、俺は慌てて飛び起きた。  全身が、水でも浴びたかのように汗水漬(あせみづ)くになっている。  弾んだ息を整えていると、相変わらずの妻のいびきと、耳元には蚊の羽音が聞こえてきた。  あちこち刺されて、猛烈な痒みがあった。  うるさい虫けらめ。殺してやる!  俺は立ち上がって、しまってあった殺虫剤の缶を手に取った。缶を振りながら寝室に戻ってくると、闇の中に向かって、無言でそれを振りまいた。  死ね、死ね。  はっきりとした殺意が俺を支配していた。  自分よりも小さく弱いものに対する暴力でしか、俺は鬱憤を晴らすことができないのか。  そんなことを考えながらも、腹の中に溜まった黒いドロドロが、すうっと消えてゆくのを感じていた。  荒げた息が治まるのを待って、俺は再び布団に身を横たえた。  蚊に刺された箇所は痒かったが、俺の腹の中は静かで、穏やかだった。  やがて、重い眠りが俺を包む。 *  明け方。妻の叫び声で、俺は我に帰った。  跳ね起きると、夢で見たのと同じ光景が広がっていた。  パジャマ姿の妻が、べっとりと赤く染まって横たわり、断末魔の形相で俺を睨んでいた。床も布団も派手に赤く染まり、まだ薄暗い寝室には、ぷんと異臭が漂っている。  ああ、やってしまったのか。とうとう俺は、愛したはずの妻を、この手にかけてしまったのか。  暑さからくる苛々のせいで、殺戮の衝動に身を任せてしまったのか……。  俺は涙も出せず、妻の顔を見ていた。  布団の上で、妻が身を起こした。 「ペンキと殺虫剤の区別もつかないなんて! なに寝ぼけてんの!」
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