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人骨生物群集の夢
病院の民となった颯子も、時々気まぐれのように外出を許された。外出時の颯子は、自分に相応しい死に場所を探すと言って、病気とは思えないほど楽しそうにあちこち回ったものだ。その時私の役目は颯子が行きたいところへ手を引いていくことだった。拒絶されない監視員とも言う。
少ない外出機会の中で、颯子はその探求欲を満たそうと、様々な自然に触れようとした。
だが一度だけ、私の行きたいところを優先したことがある。今ではもう閉館してしまった水族館の、期間限定で催された深海生物展示を二人で見に行ったのだった。暗いから怖い、ガラス―――実際にはアクリルパネル―――が倒れてきそうで怖いと文句を言っていた割に、いざ行ってみれば颯子もそれなりに楽しんでいるように見えた。あまり物を知らない颯子にとって、初めて見る深海の生き物たちは、予想以上に好奇心を擽る物だったのだろう。
「和子ちゃん、これって何?」
違う水槽に移るたびにそう訊ねる彼女に、分かる範囲の事を出来るだけかみ砕いて教えた。大体は自分から聞いておいて適当に聞き流し、へえとかはあとか、そういう生返事を返すのが常だった。
唯一会話と言える会話をした展示は、一つしか無かった。
「鯨の骨の模型だよ。鯨骨生物群集って言って、沈んだ鯨の周りにだけ形成される生態系があるんだ。ここでしか見つかってない生き物もいる」
これだよ、と指差したのは不明瞭な写真が貼り付けられたパネル。ケヤリムシ目シボグリヌム科ホネクイハナムシ。英名はゾンビワーム。球根のような体から赤い花のような鰓を伸ばす以外、口も内臓も持たず、宿った骨をひたすら溶かして暮らす。
「鯨の周りにしかいないの?じゃあ、鯨が沈んでないときは?」
「それは誰にも分からないんだ。全然違う姿で水中を漂っているのか、砂に潜っているのか……」
「ふーん……もっと単純に、鯨から生えてくるんじゃ無くて?」
「は?」
「沈んだ鯨が生まれ変わって、それになるんだよ。それで、自分の骨と一緒にまた一生を過ごすの」
「あんまり楽しくなさそう」
颯子はその言葉に、不思議そうに首を傾げて、水槽の縁をなぞった。
「そんなこと無いよ。自分の肉と骨に他の生き物が集まって、食べられていくのを見てるのって、すごく良い気分だと思う。死んだ後も他の生き物の中で生きていけるんだから。私もそうしたいな。人間の骨からは生えてこないの?」
「さあ、そう言えば鯨類以外の死骸で生態系が出来たって、聞いたこと無いな……」
毎年そこそこの人間が海で死んでいるのだから、人骨が深海に転がっていて、そこに生物が集まっていても不思議では無いはず。でもそんな話は少なくとも私は聞いたことが無い。
水圧やら骨の強度の関係で水底に辿り着くまでに原型が無くなってしまうのか、沈むまでに漁網か何かに引っ掛かってしまうからか。
いや、単純に、存在はしているけど絵的にショッキングだというそんなくだらない理由で映像が公開されないだけかもしれない。
「じゃあ私が世界初の人骨生物群集になろうかな」
水槽に映った颯子は花開くように笑った水流に靡く鰓のような、毒々しい花。まるで水槽の向こう側に、もう一人颯子がいるように見えた。
「私が死んだら、和子ちゃんが沖に連れてって沈めてね」
「えー、嫌だ。何らかの法に触れそう」
「でも見てみたくない?人骨生物群集」
水槽の中の颯子は水底に横たわった。纏わり付く水圧は器用に、颯子の頭部の肉を剥いでいく。
「私の骨の周りにも多分生まれ変わった私がいるからね。世界初の人骨生物群集だから、その子達も新種だよ」
頭蓋骨から一つ、また一つと赤い花が伸びていく。水流に揺れるそれに手招きされるように、小さな影が集まってくる。
「肉が色んなお魚に食べられるのを見ながら、ゆったり流れに揺れながら暮らすの。楽しみだなあ」
颯子の骨の周りで、死肉食性のありとあらゆる深海生物が、またとないご馳走を前に歓喜にのたうつ。
僅かな生理的嫌悪はあるが、それを除けば確かに悪い光景では無い。骨に植わる颯子の花も、周りのお客さん達も、皆幸せそうだった。颯子は自分の生の終わりと、他の生に活力を与えられることを。その他大勢は自分自身の明日の生と、それをもたらした颯子の生の終わりを。それぞれ至上の喜びとして実感していた。忌まれた生にもたらされた、祝福された死。既に生まれ変わり、抜け殻であるはずの骨までがからからと笑っていた。
「もし和子ちゃんが深海探査船に乗ったら、会いに来てね」
水槽の外の方の颯子が私の肩をぽんと叩き、我に帰る。
水槽の中は真っ暗な中に、ちゃちい鯨の骨の模型が申し訳程度のスポットライトで照らされているだけだった。
「そんな予定は無いけど、そもそも鯨じゃなくても生えてくるのかな」
「なれるよ。変わんないでしょ、同じ地球の仲間だもん」
颯子の大雑把な主張に思わず私が吹き出し、向こうも釣られて笑い、しばらく二人で大笑いした。薄暗い通路の真ん中、真っ暗な展示水槽の前で笑っている私達を、周りは怪訝な顔で見ていただろうか。
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